第一話 失敗!!
──間違ってる? いや、少なくとも座標は正確なはず。
柳田千絵はプール空間を彷徨っていた。
彼女は自らの小さな体躯を折りたたんで、膝を抱えている。体感で2時間以上この体勢を保ち続けているから、いくら時空移動には慣れているとはいえ、流石に疲れてきた。いま身体の境界は周囲の暗闇と完全に同化し、まるで空間そのものが彼女自身で、空間という一つの有機体のなかを代謝している感じがする。目蓋は閉じているはずなのに、暗闇の先から幾筋もの青白い光芒が閃いては、彼女の脇を瞬く間に通過する。
──普通ならもうとっくに到着しているはずなのに……うん、とうとうこの時が来たんだね。やっぱりどこかで間違えたんだ、私。
千絵はプール空間を包み込むひんやりとした虚無感に思わず身震いした。彼女は自分がこれから先、どこへ落ち着くのか全く見当がつかなかった。目的地にたどり着かないとしたら、元の世界に返される? それならまだまし。一番怖いのは、このままずっとプール空間に閉じ込められること。ここは、人々の意識からも、時間軸からも、空間座標からも排除された、いわば神様の盲点ともいうべき空間。だからこそ、時空移動の通り道として使える。けど、そんな空間の存在はいつかどこかの世界を歪めるから、あくまでも時空旅行者を運ぶための臨時運河に過ぎない。時間が経てばゲートは完全に閉じられ、この空間は消える。
──そう、私はこのままきっと、どの時空にも逢着しない。そうしてそのまま暗闇の牢獄はだんだん小さく萎んでいって、やがて私と一緒に消滅する。
暗然としたなかにも一種の諦めに似た気分が湧き上がってきて、それがなんだか心地よく感じた。ゆっくりと時間をかけて奈落の底へ落ちてゆく感覚。誰も私が消えつつあることに気づかない。だけど苦しくない。だからいいよね? こんな死に方でも……。
まるでアルコールに酔っているかのように朦朧としていた意識が、突然、平手打ちを喰らったように彼女のもとに舞い戻る。
何者かが彼女の腕を掴んでいた。
思わず息を呑む。
──誰? ここには私以外は誰もいないはず。幻覚? いや、どう見たって人間の腕。腕? 腕だけ? なんで? こんな暗闇で、しかもここでは物理法則なんてないから、私に今見えるのは時空の粒子だけで物質から反射される光線は見えないはずなのに。そもそも光源が無いじゃない! どうして?
意識は瞬く間に混乱してゆくのに、どうしても身体は動かない。千絵は体育座りのまま石膏で固められたみたいに頑として動かない。
突然、彼女のつかまれた左腕がぐいと引っ張られた。
その慣性で彼女の身体はゆらゆらと左右に揺れる。もう一度、さっきよりも強く脇に引きずり込むように腕が引かれた。
──もしかして、私を助けてくれているの? もう少し、力を入れて。お願い。
さらに強い力で引っ張られて、膝の前で組んでいた両腕がぱっ、とほどけた。同時に、彼女の身体は中に通していた太い針金を抜いたみたく、だらりと弛緩し、それから全身に冷たさを感じた。冷たい何かが長旅で火照った身体にまとわりついて、心地良い。
自分は水の中にいるらしい。
千絵が気づくと同時に、真っ暗だった視界は徐々に明るさを増して、赤い世界が見えてきた。
はじめは明るさに目が慣れず、視界に飛び込んでくる赤色はとても痛々しく攻撃的に思えたが、次第にそれがものすごく美しい色であることに気がついた。
千絵がかつて時空を旅して見に行ったヨーロッパのレンガの町並みよりも、オーストラリアのアボリジニが信仰するエアーズロックよりも、ペルセポリスの土よりも、全然綺麗な赤色だった。
やがて赤色の世界に一つしわが出来たように揺らぎ、そのしわが波紋のように広がった。
放射状の波紋が本当に波紋で、つまり水面を目の前にしているわけで、とはいえ自分は水面の裏側で……
──!!
突如、聴覚がクリアになり、千絵は大いに咳き込んだ。
水中から抜け出したのだ。
大きく肩を上下して深呼吸する。呼吸が整ってくるにつれ、千絵は自分の隣に人影があるのを認めた。そして、その人の右手と自分の左手が繋がっていることも。ゆっくりと人影の方に首を動かす。