第9話 忍び寄る危機2
先ほどからアディードの首元にオルビア姫の甘い息がかかる。
「んっ」
可愛らしい声が彼女の口から漏れる。思わず全神経を向けてしまうほど意識してしまう。
本人は何か我慢しているようだ。ぷるぷると怯えるように体を小刻みに震わせて、小柄な体でアディードに必死にしがみついている。
その様子はまるで自分に甘え、触れ合いを積極的に求めているようで、思わず変な誤解をしそうだった。どんどん自分の顔が熱くなっていくのが分かる。
だが、恐らく、自分の右手にあるものが原因だと思われた。
ドレスのスカートや、姫の足とは明らかに違うものが、確かに感じられていた。
姫の太ももではない、何か別のもの――芯のある長太いものが、アディードの右手に当たっている。いや、握っていると言うべきか。
意図的にぎゅっと指で触れてみると、途端に姫の体がすかさず反応する。
「あっ」
さらにアディードの首に回している姫の腕の力が込められ、彼女の口から可愛らしい吐息が聞こえる。公共の場でありながら、心乱されてしまう。しかも、彼女がこちらに悟られまいと、必死に堪えている姿が、途方もなく悩ましい。
いつもの絹のように滑らかな白い肌がほんのりと上気している。
(一体、彼女に何があったのだ?)
彼女のスカ―トの中に、両足以外で存在する何か。
アディードの母経由で聞いた話だが、オルビア姫は連れてきた侍女以外に身の回りの世話を決してさせないらしい。
しかも、こちらに来てから七日ほど経つが、一向に滞在先の部屋からも出る気配がないらしい。アムールからも身の回りの世話として、下女たちを用意しているが、その者たちは姫の姿を見たことがないという。
母の宮殿にある自慢の蒸し風呂に誘ってみても、素っ気無い返事だったと話していた。
「ねぇ、アディ」
母に呼ばれて命じられたことを思い出す。あの女豹のような大きな鋭い眼差しがアディードを鎖のように絡めとり、身動きを封じ込め、支配しようとしてくる。
「姫を必ず落とすのよ。あの女の息子の鼻を明かしてやりなさい」
「しかし、母上……私は兄上のように上手くは」
「大丈夫、あなたが口下手なのは知っているわ。だから、私が協力してあげるから」
母はアディードの言葉を最後まで待たなかった。聞く気もないのだろう。
母の目には迷いがなかった。化粧によって縁取りされた大きい双眸から逃げようにも逃れられない。アディードに言い聞かせるように、さらに言葉が続けられる。
「大丈夫、あなたは自慢の息子よ。あなたの魅力に姫も必ず気付いてくれるわ」
母が釣り上げていた目元を和らげ、目尻を下げて微笑んでくれたおかげで、アディードに掛かっていた金縛りが解けた気がした。
途中から母のことを考えていたお陰で、姫に惑わされていた心は落ちつき、平静を取り戻すことができた。
姫が滞在する宮殿に移動し、彼女をソファに下ろしたところで、アディードの役目は終わりだった。
「ありがとう、ございます……」
いつもの姫の心地よい声が、乱れて喘いでいるようだった。その声色から、なまめかしい雰囲気まで感じて、アディードの胸の鼓動が一瞬激しくなる。
動揺して顔が火照るのを感じた。咄嗟に目を逸らしてしまった。
「失礼する」
結局、逃げるように部屋から出て行ってしまった。その直後、何か彼女に労りか、優しい言葉を掛けてあげれば良かったと、激しく後悔した。
初めは、冷たい氷のような姫だと思っていた。
こちらでは珍しい長い銀糸のような髪と、薄い紫の瞳。肌も白すぎて、笑わなければ人形のようで、生気をまるで感じなかった。作り物めいた整った容姿にあまり好感を持っていなかった。特に彼女の大きな紫の目。魔よけの模様みたいに取り殺されそうで恐ろしかった。だから、初めて会ったとき、いつも以上に緊張してしまい、あのような大失態を犯してしまった。
だが、彼女が感情を乱すたびに、何か言葉を発するたびに、彼女の素を感じられて、最初の印象が徐々に薄れていった。
兄に接吻されたとき、自分で殴っておきながら呆然としていた彼女の表情を面白く感じ、兄を励ます彼女の優しい気遣いも惹かれるものがあった。
なによりも、彼女の声が、とても印象に残っていた。
彼女の心根のように、とてもはっきりとしていて、けれども、風のように清々しい可愛らしい声。
先ほど、アディードの耳元で囁かれた彼女の甘い声が、脳裏にいつまでもこだまする。
オルビア姫のことに興味はなかったはずなのに。なぜか心乱されていた。
だが、オルビア姫は自分のものにはならない。
アディードは彼女に出会う前から決めていた。
だから、彼女は兄のものになる。
それに、彼女を見ていれば分かる。きっと彼女も、他の女たちのように兄に惹かれている。
宴の最中、母に貶された兄を見つめる姫の眼差しは、とても優しく慈愛に溢れていた。それが眩しかった。
自分は兄のようにはなれないと、分かり切っていた。
アディードは自分の両手をきつく握る。
だから、自分らしいやり方で、母国アムールのために力を尽くしたいと決意していた。
気付いたら、姫がいた御殿からかなり遠ざかっていた。
宮殿との境目には垣根が植えられて、自然に区切っていた。その近くには用水路があり、せせらぎを奏でながら綺麗な水が贅沢に流れている。通路には大きな石畳が敷かれ、いつ見ても綺麗に整えられている。豊かなアムールの富を象徴している。
アディードの後ろには、いつも音もなく従っている近侍がいる。小さな声でその者を呼ぶ。
「頼みがある」
「はい、なんでしょうか」
小柄な少年のような風貌をした近侍が足早に近づいて来る。
「オルビア姫と、公爵の子息のことを探ってほしい」
「はい」
近侍は音もなく後退ると、植木の陰に隠れて、瞬く間に姿を消した。
オルビア姫一行は、元々おかしいと感じるところがあった。
姫の叔父であるハインリヒ公爵は、護衛を十名ほど伴っていたはずだが、現在こちらに滞在している者は、その数より遥かに少ない。さらに、彼の君の子息も同伴していると聞いていたが、未だにその姿を見ていなかった。
不明者たちは何をしているのか。
まさか、アムールにとって良からぬことを企てているのではないか。
何事もなければ良いが、不安を抱えたまま、時間を無為に過ごすわけにはいかなかった。
父である国王の誕生祭が一ヶ月後に行われる。それに招待されるのは、アムール国内にいる他の部族の長たちだ。その場を利用して、姫のお披露目もされるだろう。
その中に、アバネール族も来る予定だ。
サルグリーアの存在を憎む一族。唯一神アネルを奉り、元々山間に住む彼らは、先祖代々続く土地を守るために過酷な故郷から移住をしなかった。
アネル神を奉るアバネール族にとってみれば、サルグリーアは戦争の兵器として同族を殺した憎き存在。畏怖の対象となっている。
彼らが姫に対して、どのような反応をするのか警戒しなければならない。
サルグリーアの姫との結婚は、アムールの国にとって大事な宣伝でもあった。国が抱える深刻な問題を解決する手段だからだ。だから必ず彼女を守らなければならない。
父王は、アディードと兄の二人を内密に呼んで継承者の条件を宣言した。姫と結婚する皇子を皇太子にすると。
その言外の意味を分からないほど愚かではなかった。
隠密に長ける小姓からの報告を待ってから、今後の動きを決めるつもりだった。
普段、アディードは宮殿ではなく、兵舎に居座っている。宮殿では落ち着かないからだ。信頼のおける者たちに囲まれている生活のほうが、アディードには性があっている。
気を遣った宴で疲れた頭を休ませるために、自然とそちらに足を向けていた。