第5話 皇子たちとの対面2
「失礼」
この気まずい状況で、すぐに言葉を発したのは先ほど名乗ったエディルド皇子だ。
「こちらは、私の弟で第二皇子のアディード・ヨン・アムールです」
そう言って本人の代わりに紹介してくれた。途端に、弟のアディードは、安心した顔をして無言で頭を下げている。
それからエディルドに着席を促される。腰を落ち着かせた後は、給仕がやってきて飲み物を用意される。彼の主導の元、世間話で場は和んでいた。
「長旅はいかがだったでしょうか。途中にあったバルムの街をご存知ですか?」
「ええ」
叔父が主に受け答えをする。その隣で理央は微笑みながら適当に相槌を打つ。
理央もその街のことをよく覚えている。そこで姫たちがいなくなったのだから。
「そこではお湯が沸くので、温泉として有名なのです」
「ええ、私どもも、そこで一泊したことがあり、お湯を楽しませて頂きました。オアシスのように、あそこだけ水が豊富で、よく覚えております」
エディルドの話題の選択には、頭の切れの良さを感じる。
こちらが回答しやすいような、そんな気配りを彼がしてくれるからだ。
一方で、先ほど挨拶に失敗した弟のアディードは、適当に相槌を打ち、振られた会話に合わせている程度だった。
エディルドの見事な仕切りで、和やかな時間は過ぎ去った。その間、アディードはほとんど話していなかった気がする。
理央はもう少し彼のことを知りたかったので、少し残念に感じた。
「オルビア姫が留学生活を楽しめるように私たちも色々とご用意しております。ですが、まだ来られたばかり。しばらくはこちらの生活に慣れることを優先いたしましょう」
「お気遣い、感謝いたします」
叔父と理央は、揃ってエディルドに頭を下げた。
彼の頼もしい印象をすっかり植え付けられた気がした。
「まだお話をしたいが、そろそろ時間になり、申し訳ないです」
「いえ、こちらこそ、お忙しい中、お時間を下さり、ありがとうございました」
エディルドが場を締めくくる言葉を述べたので、理央たちは揃って席を立った。
早く部屋に戻って、変化を解きたい。そう願っていた。
「歓迎いただき、感謝いたします。また、お時間をいただければ幸いです」
叔父も別れの言葉を口にする。エディルドが近づいて、再び握手を求められていた。
お互いに笑顔を浮かべて、手を握り合う様は、とても親交が深まった感じだ。
ついでに皇子は理央の前にも来たので、途端に体に緊張が走った。彼の整った顔を間近で見つめる。なぜか彼の鳶色の瞳が怖い気がした。わずかにほくそ笑んだ気がしたからだ。
怯えながらお辞儀をすると、いきなり理央の視界が暗くなった。
いや、それだけではない。理央の体は何者かによって拘束されて身動きが取れなくなっていた。
「オルビア姫、またお会いしましょう」
耳元で囁かれる男の甘い声。温かい吐息が肌に直接伝わる。衣越しに感じる、馴染みのない異性の硬い体と温もり。
理央の見間違いではなければ、いきなりエディルドに抱き着かれていた。
(えええええええぇ!)
内心、絶叫を上げる。突然のことだったので、どう反応すれば良いのか分からず、体を硬直させることしかできなかった。
激しく動揺し、恥ずかしさのあまりに顔が熱くなるのも感じる。
理央は異性と付き合った経験が全くなく、こんな状況に全然慣れてなかった。
目をぱちくりさせて相手を見れば、第一皇子は少しだけ体を離して、理央のことを嬉しそうに見下ろしていた。彼の瞳は長いまつ毛に縁取られ、大きな丸い宝石のように輝いている。楽しげに笑みが口角に浮かべならも、その彼の目には獲物を狙うような鋭さがあった。
(一体、なにを企んでいるの?)
そのとき、何かお香のような良い匂いまで鼻を掠めた。女性を彷彿させるような甘い雰囲気の。その途端、彼から身の危険を察知した。
警戒している最中、彼の顔が素早く動いて、理央の顔に陰を作る。そう思ったら、頬に柔らかい感触と軽やかなリップ音がした。
突然の接触に驚いて、理央は「ひゃあ!」と間の抜けた悲鳴を上げてしまった。
(もしかして、キスされた!?)
相手の整った顔が間近にあるので、すぐに状況を理解したが、予想外のあまりの相手の行動に唖然とするばかりだ。流石に初対面で、頬とはいえキスはありえなかった。
嫌だと思った、その直後だ。
(なにするぽん!)
たぬ吉の怒った声が頭の中ではっきりと聞こえた。次の瞬間、理央の腕が勝手に動いた。
「え!?」
(たぬきパンチぽん!)
予想もしていなかった事態に驚いた途端、自分の右拳が皇子の顔にストレートに当たる。
鈍い痛みが右手に感じた時に、理央は自分が何をしたのか遅まきながら理解した。
理央が息を呑んで見守る中、スローモーションのように皇子の体が軽々と吹っ飛ぶ。
皇子が土の上に倒れる湿気った砂の音が、やけに周囲に響く。
(理央のゆるしもなく、勝手に手を出すなんて、ゆるさないぽん!)
頭の中で、激しく怒っているたぬ吉の声が聞こえる。
(それに、たぬきは一人のメスしかあいさないぽん! 他のメスのにおいをつけて理央ぽんに言いよるなんて、同じオスとして許さないぽん!)
どうやら、彼はたぬ吉の逆鱗に触れたらしい。
まさか相手も殴られるとは思ってもいなかったのだろう。地面に倒れた皇子は一体何が起きたのか分からないと言った呆然とした顔をしていた。だが、こちらを見上げる目に、徐々に戸惑いが混じっていく。
無言で皇子は上半身を起こす。真っ白だった服が泥と皺で台無しになっていた。
辺りは不気味なほど静かになった。
ふと隣にいた叔父を見れば、彼は絶望的な表情をしている。
(まずいわ……!)
恐らく、理央の悲鳴に反応して、たぬ吉は身を守ろうと動いてくれたのだろう。しかし、それを止められなかったのは自分の過失だった。
そもそも動揺して叫ばなければ良かったが、条件反射のようなものだった。
しかし、事をこれ以上荒だてないためにも、理央が不本意ながらも慌てて謝ろうとした瞬間、「兄上、何をなさっているんですか」と呆れた声が。
声の主を見れば、アディードが眉を八の字に顰め、さらに唖然とした口をしている。
「いや、かの国では、このような挨拶があると聞いたのだが……」
苦しそうに言い訳をするエディルドが少しだけ不憫に見えたが、その言葉通りに受け取れなかった。彼が何か企んでいるような、そんな嫌な感じが直前に伝わっていたからだ。理央はその自分の直感をなぜか信じていた。
オルビアの国のマナーを短期間とはいえ理央は習ったが、そんな挨拶を聞いていなかった。多分、そこまでする必要がなかったからだ。初対面でする対応ではないと思われた。
けれども、相手がいきなりフレンドリーすぎる対応をしたからといって、拳で殴る姫様はどこにもいないだろう。
オルビア姫はこの二人の皇子のどちらかと結婚する予定だと、理央は事前に聞いていた。そのために、留学という名目で、この国に来たのだ。
彼女が選んだ相手と結婚する。そう決められているらしい。
だから相手は将来自分の夫になるかもしれない人だ。そのくらいの笑って受け流すくらいの寛容さが必要だったのかもしれない。
もう後の祭りだが。
「いきなり失礼した」
頭を下げるエディルドの顔は無表情で、何を考えているのか分からなかった。怒っているのか、それとも悲しんでいるのか。
「こちらこそ、申し訳ございません」
地面に頭が付きそうな勢いで叔父が頭を下げて謝罪をする。
「殴ってしまってごめんなさい」
叔父にならって、慌てて理央も頭を深く下げて謝る破目になった。自分のせいで皇子との関係が悪くなってしまったら、戻ってきた本物の姫に申し訳ない。
けれども、どこか釈然としないものもあった。
元はと言えば、当の本人である姫が、叔父の息子と道中駆け落ちして、逃げ出してしまったことが事の発端だからだ。
頬にキスまでされるのは、本当なら理央ではなく姫のはずだったのに。
(どうか、早く戻ってきて!)
心の中で叫ぶように祈りながら、理央はひたすら頭を下げ続ける。
「いや、オルビア姫が詫びる必要はないでしょう。先に礼を欠いたのは兄上だ。それに、女性に殴られたくらいで、飛ばされないでください」
理央はすぐに庇ってくれたアディードに視線を送る。彼がまともに言葉を発したことにも驚きを感じていた。確かに、この頑丈そうに鍛えている彼ならば、理央に殴られてもびくともしないだろう。
一方で、責められたエディルドは、憎らしげに弟を睨みつけていた。
明らかに彼は細身だったので、 あまり積極的に鍛えていないのかもしれない。
兄の視線に気付かず理央を熱心に見つめるアディードの目には、最初とは違い好意的な色が浮かんでいた。まるで、面白いものを見つけたような、そんな無邪気さまで感じる。
「ふん、挨拶の口上をまともに話せない口下手に言われたくないな」
兄の反撃に弟の顔は剣呑なものになった。
どうやら、二人の様子から察するに、この兄弟は仲があまり良くないようだ。
理央が二人の反応にはらはらしていると、いつの間にかエディルドが目の前に立っていた。彼の態度は落ち着いていて、先ほどまでの弟に対しての険悪な様子は消え失せていた。
「驚かせて申し訳なかった。ですが、私のことを殴ってまで頑なに拒否した女子は姫が初めてだ。なぜだろう。姫の拳を頬に受けた時、今まで感じたことのない心地よい痺れまで私に与えた。だから、私は悟った。姫こそが私の運命の人に違いないと」
そう告白する皇子の目には、以前にはなかった羨望が含まれていた。人好きのする愛嬌のある笑みをまっすぐに向けられる。
「えっ!?」
皇子の思考回路をこのときばかりは、真剣に疑った。
いや、しかし。とすぐに考え直す。
彼の機転の良さならば、この場を上手くまとめるために切り出した口実だったのかもしれない。己を道化にしてまで、理央を庇ってくれた可能性も考えられた。そう考えると、彼を一概に悪く思えなかった。
(でも、本当にふざけて言っているのかしら……?)
そう疑いたくなるほど、皇子の表情は真剣でこちらに何かを訴えるようだった。
美貌の男子たちの熱い眼差しを一身に受ける破目になり、理央はパニックに陥りそうになる。
理央を見つめる皇子たちの顔つきが、出会ったときと変化していた。
一体、何が彼らをそうさせているのか、理央にはさっぱり分からなかった。