第33話 たぬきの誇り2
突然のたぬ吉の声に理央は混乱する。
「え、こんなときに?」
今はそんなやりとりをしている場合ではないと思った。風もないのにぶらぶらする話題は、今は控えて欲しかった。ところが、たぬ吉の様子が明らかにおかしい。まるで珍しいものを発見したみたいに、かなり興奮気味だ。
(す、すごいぽん! 新しい変身が増えるぽん!)
「ええ!?」
(ぼく、これもらうぽん! きっと役に立つぽん!)
「分かった! たぬ吉、変身してみて!」
もう絶対絶命のピンチだ。たぬ吉の言葉を信じてみようと思った。
(たぬきの誇り……傘差し狸ぽん!)
理央の右手が天に向かって伸ばされる。その手には、一本の傘。和紙と竹で作られた昔風な簡素なものが、いきなり現れた。
理央の体が途端に小さくなっていく。どんどん縮むが、毛むくじゃらのたぬきのままだ。兵士たちよりも、やや小柄になったときに、変化は止まった。
だが、その他に何も変化が起きない。傘が現れただけで、何も効果が現れず、理央は逆に不安になってきた。
「たぬ吉、この傘差し狸って、他に何かできないの?」
思わず心配になって尋ねてみた直後、急に視界が暗くなった。周りを見渡すと、空に異変が起きていた。いつも通り雲一つない青空だったのに、急に黒い雲が端から現れて、空を覆っていく。今にも落ちてきそうなほど重い不吉な色をしていた。
(傘差し狸は、雨のときに現れるぽん!)
たぬ吉の説明を聞いて、理央は彼が言いたいことに気づいた。
「そっか! 無理やり雨にしてしまうのね!」
理央がそう言った瞬間、地面にポツリと水滴が落ちた。理央の顔にも一粒。
それからあっという間だった。雨粒がまた一粒、また一粒と繰り返す内に、シャワーのような量となって、空全体から大雨が降り始める。
突然の恵みの雨に、周囲から歓喜の声が上がる。
「リオ!」
声がした方を振り向けば、アディードが側に立っていた。袖が破けていて、覗いた肌には血が滲んでいる。
「アディさん、大丈夫?」
理央が塀から落ちたときに彼も一緒に落ちたのだろう。心配になって尋ねるが、彼は自分のことよりも、この現状に興奮して傷を気にしているどころではないようだ。
「リオ、見てくれ! 黒い化け物たちが消えていく!」
アディードが指差す方を見れば、光輝く塊があった。元は化け物だった塊に雨が直に当たり、次から次へと、光の玉が生み出されていく。空に向かって嬉しそうに飛んでいく光景は、とても幻想的だ。まるで花火のように打ち上げられていくみたいだ。
「アリガトウ」
感謝の歌を口ずさみながら、光の玉が飛んでいく。
一部の光の玉は、理央たちの周りを囲むように飛び回り、満足したように去っていく。
しばらく立ったまま見守っていると、黒い影は綺麗になくなり、全て光となって去っていった。
もう脅威はなくなっていた。
ふと気づくと、理央の手が軽くなり、忽然と傘が消えていた。
(理央ぽん、ぼくつかれたぽん……)
眠そうなたぬ吉の声がしたと思ったら、突然理央の姿が変わった。一瞬で全身の毛がなくなり、素肌が見え始める。
「きゃあ!」
真っ裸な自分の格好に気づいて、理央は慌てて両手で大事なところを隠す。恥ずかしくてしゃがみ込むと、「リオ!」と叫ぶアディードの声がした。
あっという間に頭の上から何か大きな布をかぶせられる。
「私の服で悪いが、これで隠してくれ」
「うん……」
理央は急いで服の穴に自分の体を通す。襟から頭をすっぽりと出すと、上半身裸で側に立つアディードの姿が目に入った。
彼と目が合った途端、彼はくしゃりと顔を嬉しそうに崩して、こちらに手を伸ばしてきた。恐る恐るといった感じで理央の頬に触れる。
「無事で良かった」
しみじみと安心したように呟いた声を聞いて、理央も今さらながら安堵が胸に訪れた。冷たい自分の頬に彼の温かい指を感じる。理央は自分の両手をそっと彼のものに重ねる。
「ありがとうございます」
気が抜けた途端、我慢していた感情が溢れて、頬を涙が濡らしていく。
怖かった。本当に怖かった。けれども、ずっとアディードを待っていたからこそ、持ちこたえられた。
彼が現れたとき、どれほど嬉しかったことか。
信じていた通り、彼は来てくれた。感謝が体の奥からどんどん溢れて、その強い想いは彼への信頼へと繋がっていく。揺らぎないほどに。
「遅くなってすまない」
理央を見下ろす彼は、申し訳なさそうな表情を浮かべると、すぐにしゃがみ込んで、ぎゅっと理央を頭ごと抱きしめてきた。
伝わってくる彼の温もりが、とても愛おしく感じる。とても心動かされる。
理央の胸の鼓動が一際跳ねた気がする。気持ちが高揚して、彼以外に何も考えられなくなる。服からも彼の匂いを感じて、否応なしに意識してしまう。
いつまでも彼に触れていたい。そう願わずにいられなかった。けれども、その願いは決して叶わない。だからこそ、理央は決意した。
「アディさん、私、この国に残って、あなたの手伝いをしたい」
――決して彼と結ばれないと分かっていても。
この国の問題を自分なら手助けできると思った。
たぬ吉も言っていた。頑張るなら、自分のためがいいと。きっとこれなら理央は後ろめたい思いをすることもない。無事に成し遂げられたら、多くの人に感謝される。とてもやりがいのある仕事となるだろう。
「それは嬉しいが……、リオ、一体どうしたんだ?」
アディードの戸惑った声が、頭越しに伝わってくる。
「うん。前から考えていたの。身代わりの仕事が終わったら、どうしようって。だから、こんな便利な力があるなら、多くの人に役立ちたいって思ったの。そう決意できたのもアディさん、あなたのおかげよ」
「そうか……」
理央が顔を上げて相手を見上げると、ぶつかりそうなほど近くに彼の顔があった。彼の長い睫毛と、綺麗な青い目が良く見える。
顔同士がくっつきそうなほどの近距離である。少し動いただけでキスしてしまいそうだった。
「あの、誤解されるから、そろそろ離れたほうが……」
理央が慌てて身を引いてアディードに離れるように促すが、彼はムスッと不満そうな顔をする。願いとは裏腹に逆に力を込められて抵抗されてしまう。
「リオは誤解している」
「え? どういうことですか?」
「私は側妃も持つつもりはない」
「え、でも……」
「でもじゃない」
王族という立場上、側妃を持たないのは難しいと思っていたが違うのだろうか。
「リオ、今は私を信じて欲しい。後で、ちゃんと説明するから。いや、その前に私には言うべき言葉があった」
アディードは理央から少し体を離すと、こちらの顔をじっと見つめる。
「リオ、あなたが好きだ。これをもっと早く言うべきだった」
「アディさん……!」
突然の告白に理央の頭は真っ白になる。すぐには言われた事実を信じられず、まじまじと相手を見つめるだけだったが、じわじわと言葉が脳内に伝わっていき、少しずつ理解していく。
けれども、まだ喜ぶのは早いのかもしれない。
「それは、友達として好きってことですか? 私がサルグリーアだからですか?」
早合点して、ぬか喜びしたくはなかったので、慎重に確認してしまう。
すると、アディードは驚いたと思ったら真剣な顔をして、「一人の女性として、好きだ」とはっきりと断言した。
それを聞いた途端、理央の顔が火がついたみたいに熱くなった。
「あの、私も、アディさんのことがす、好きです……」
驚きのあまりに、呼吸が止まりそうになる。
理央は返事をするだけで精一杯だった。
「そうか。それは良かった」
アディードは蕩けるように微笑むと、再び理央のことを抱き締めてきた。とても大切に宝物みたいに。
嘘みたいな展開に理央はまだ頭の整理が追い付かない。呆然として、何も考えられなくなっている。
気付いたら、アディードが理央から離れて立ち上がっていた。
「名残惜しいが、そろそろ行こう」
「え、ええ」
アディードが手を差し出してくれたので、それを頼りに理央がよろよろと立ち上がる。彼の上衣は丈が長く、理央が着ると、膝上くらいの長さのワンピースみたいになっていた。
歩き出そうと足を踏み出したとき、「裸足じゃないか」とアディードにすぐに気づかれた。
それから、あっという間に彼によって抱き上げられた。以前と同じようにお姫様抱っこの格好で。
「あ、あの……!」
顔が一気に熱くなる。アディードも怪我をして疲れているだろう。遠慮しようと思ったが、彼の泣きそうな顔を見た瞬間、何も言えなくなる。
「離れたら、またいなくなってしまいそうで不安なんだ」
その言葉とともに、大事そうにぎゅっと抱きしめられた。
理央の心臓は、壊れそうなくらい激しく鼓動する。もう二度と彼と触れ合うことはないと思っていたのに。思いがけない幸せに、まだ落ち着けなかった。
まだ不安はあるけれど、彼は信じて欲しいと言っていた。だから、理央は彼のことをまた信じるつもりだ。
伝わる温もりが、彼の存在が、何よりも愛おしかった。
だから、理央も彼に応えるように、彼の首に自分の手を回して強く抱きしめ返した。
アムドたちは、理央を解放した後、騒ぎを利用して上手く逃げられた。
市内はパニックだ。化け物だらけで、市民は阿鼻叫喚で、逃げ回っている。怯えた人間たちの姿だらけだ。未だに対応できない王宮の不満の声すら聞こえる。
アムドたちが何もしなくても、アムール一族は窮地に陥っていた。作戦は失敗に終わったが、口元の笑みが止まらない。
だが、わずかに引っかかるのは、あのリオという女のことだ。
アムドですら、あの女のことは、未知数だった。彼女の言葉が当たるたびに、神のような恐れを抱くようになっていた。だから、彼女の力を試してみる気になった。
もし、本当に彼女の言った通りなら、少しだけ彼女の言葉を信じても良いかもしれないと、考えが変わっていた。
理央の黒い真摯な瞳を思い出す。彼女はどうしてと、アムドに尋ねていた。そこから相手を理解したいという彼女の想いが感じられた。拒絶ではない、歩み寄りの姿勢。だからこそ、アムドの心がわずかに揺らいだのだ。
そんな中、アムドたちが走っている最中、重い雲が現れて、突然の雨に降られた。
水不足の被害が深刻な状況での奇跡の恵み。
「まさか」
アムドは思わず立ち止まり、周囲を見渡した。
「若様、あれを!」
指差す方を見れば、黒い化け物たちが浄化されるみたいに雨に打たれた端から、透明な光の玉へと変わっていく。
遠くになった倉庫群に視線を向ければ、天に向かって立ち昇るような光の筋が発生していた。
アムドの体が震えた。目にした光景に心うたれる。足元から畏敬の念が沸き起こり、その強い想いは理央へと向かっていく。
喜びの声があちこちからも上がり、事態は沈静化していく。
嬉しそうに浮遊する光が、街を優しく照らしていた。




