第3話 たぬきを助けて異世界へ3
「……ぽん! 理央ぽん!」
ぷにぷにと頬に柔らかい刺激が何度か繰り返される。理央が目を覚ますと、目の前にあのたぬきの可愛らしい顔があった。
驚いて起きると、たぬきが安心したように目を細める。
「気付いて良かったぽん! 遠くからさわがしい声が聞こえるから、早く隠れたほうがいいぽん!」
理央たちがいた場所は、だだっ広い草原だった。大きな岩や樹木がところどころに点在しているくらいで、今は人の気配すらない何もないところである。
今までいた日本とは全然異なる光景だ。あの神様の力で、本当に異世界に来てしまったようだ。
踏みしめられて作られた道らしきものがあるので、誰も来ないわけではないようだ。ところが、今は自分たち以外に何も姿は見えなかった。
「本当に誰か来るの?」
「早く、こっちぽん!」
たぬきがいきなり走り出すので、理央も慌てて追いかける破目になる。
いきなり知らないところに来て不安なのに、警戒しろと言われては、従わない理由はなかった。
ふと自分の姿を見ると、死んだときと同じ格好だった。ビジネスカジュアルといった風の白いシャツと紺色のスカート。靴も革靴で、ぼこぼこの石が多い地面の上では動きにくいこと、この上ない。
大きな岩陰にしゃがみ込み、たぬきと共に身をひそめる。
「何があっても、ぼくが守るぽん」
心強い台詞だが、こんな小さな動物では、逆にやられてしまうのではと、心配になった。
不安が顔に出てしまったのか、たぬきは理央の肩にポンと前足を乗せた。
「ぼく、たぬきの神様に色々と力を授かったぽん! ぼくが役立たずだと、たぬきのコカンにかかわるって言っていたぽん」
「それって股間じゃなくて、沽券……」
そう突っ込みを入れようとしたら、「しっ!」と、たぬきが慌てて前足を口元に当てた。
「来たぽん!」
遥か地平線のほうを見れば、豆粒くらいの人影がやっと確認された。
「誰かが追われているみたいだぽん」
「え、そうなの!?」
理央の視力では、そこまで分からなかった。
「チャンスぽん。金持ちそうだから、助けてお礼をしてもらうぽん」
「ええ!? 下心で助けるの?」
「弱肉強食の世界ぽん」
そういうたぬきの目がいきなりすっと細められ、眼光に凄みが感じられる。さすが元野生の動物。非常に説得力があった。
けれども、そんなに上手く行くのだろうか。そもそもたぬきが授かったという力を理央はまだ知らない。安心するには、ほど遠かった。
それに加え、揉め事には関わりたくないと決意したばかりだ。かなり抵抗があった。
こちらに近づいてくる人たちを観察すると、相手が近づいてきているお陰で、馬車とそれを馬に乗って追いかける人たちが見えた。すごい勢いなのか、足元から凄まじい砂埃が舞い上がっている。確かにたぬきの言う通り、ただ事ではない様子が伝わる。
「あの、たぬきさん……」
たぬきを止めようと、理央が言いかけたときだ。
「あ、そうだ。ぼくの名前はたぬ吉ぽん。今後ともよろしくぽん」
「ええ、こちらこそよろしくね」
一人よりもずっと心強い。たぬ吉の言葉に頷くと、彼も嬉しそうに目を細めて笑った気がした。
「じゃあ、さっそく変身するぽん!」
たぬ吉がいきなりジャンプして、こちらの胸元に向かって頭から飛んでくる。
「ええ!?」
突然の相手の行動に驚く。
しかも変身と相手が言っていなかっただろうか。気になる点はいっぱいでも、たぬ吉の宙に浮いた体は、勢いを失わずに近づいてくる。
ぶつかる。
そう思ったとき、たぬ吉が理央の体に吸い込まれるように消えてなくなった。
理央は慌てて周囲を見渡すが、たぬ吉の姿はどこにも見えない。
それだけではなく、お尻のあたりがむずむずして違和感があった。何か重たいものがぶら下がっているような気がした。
「たぬ吉、どこなの……?」
(ここぽん!)
聞こえてきたのは、頭の中だった。
(理央ぽんの体の中に入って、力を使うぽん!)
「ええええ!?」
非現実的なことが続き、理央はパニックになって悲鳴を上げる。
そんな最中、理央の視界にこちらに迫ってくる馬車がまず映った。
馬車の御者は必死な形相だ。確かにたぬ吉が言う通り、馬車の装飾が立派で金ぴかだ。明らかに金持ちそうに見えた。
周囲には剣や長いロープを持ち、馬車に攻撃しようとしている物騒な男たちがいる。彼らの肌は褐色で、頭に長い布を被り、口元は布で隠されている。いかにも盗賊といった粗野な格好をしていた。
「オラオラ! 姫を出せ! いるのは分かっているんだ!」
たぬ吉が体の中にいるお陰で、耳まで良くなっているのか、犯罪者たちの罵声がここまで聞こえてきた。馬車の中は見えないが、どうやら身分のある人が乗っているようだ。
その馬車の後方にも、何か団体がいるようだったが、たぬ吉の力を以ってしても、遠すぎて詳細を確認することはできなかった。
「ん?」
突然、体全体に違和感があって視線を体に向ける。むずむずと痒い感覚がすると思ったら、みるみる姿が変わっていく。大きく変形する腕は、ブラウスの袖をビリビリと中から引き裂く。あっという間に地面が遠くなり、遥かに高い位置から見下ろすことになる。
「きゃあ!?」
理央が自分の姿を見れば、人間ではなく、毛むくじゃらの巨大な生き物になっていた。地面が遥か遠くに見える。
たぬきと同じこげ茶色だが、明らかにお腹が出ていて、股の間に立派なものがぶら下がっている。風が吹かなくても、ぶらぶらするものが。パオーンと象さんの鳴き声が聞こえそうだった。
「ええええ!? なんで私の股にこんなものが!」
どうやらこのぶんぶく茶釜に変身したら、オプションでついているみたいだ。
さらに、背中に違和感があって振り返れば、何か茶釜のようなものがくっついていた。
「一体、これは何なの!?」
(たぬきのあこがれ、ぶんぶく茶釜ぽん! さあ、行くぽん!)
「えええ!?」
理央は返事代わりに悲鳴を上げた。
もうこんな巨体では、身を隠して面倒事をスルーすることもできない。
「もう、こうなったら自棄よ!」
覚悟を決めて理央は馬車の前に立ちふさがる。すると、馬車を襲っていた男たちは悲鳴を上げて激しく狼狽した。
「おお、アネルの神よ……!」
賊の中には、恐怖のあまりに神に祈りまで唱える者さえいた。彼らは慌てて逃げ出して、一目散に来た道を戻っていく。
呆気なく敵を退散させられて、理央は心底ほっとした。
それからすぐに元の姿に戻ったのだが――。
「きゃあああ!」
再び理央は悲鳴を上げることになる。何故なら、服がなくなっていて裸だったからだ。
化け物に姿が変わったときに着ていた服が破けてしまったことをすぐに思い出した。
慌ててしゃがみ込んだら、お尻に違和感があった。
「あと、これって……!?」
理央のお尻からたぬきの尻尾が生えていた。
たぬ吉が理央の体の中にいる間は変身していなくても現れるようだ。どうりでお尻に変な感覚があったはずだ。
(痴女や化け物に間違えられたらどうしよう!?)
すぐに馬車の中から中年の男が降りてきた。彼は理央の格好に気づくと、すぐに上着を掛けてくれた。
「先ほどはありがとうございました。変身できるとはすごいですね!」
なんと助けたお礼を言われた。神様のお陰なのか、言葉に全く不自由しなかった。
「いえ、こちらこそ、上着をありがとうございます……」
こうして今度は理央が馬車の人たちに助けられることになった。
それから、馬車の中にいた銀髪の若い女性と顔を合わせることになる。怯えて泣いていた人こそ、オルビア姫だった。
そして、理央に最初に話しかけてくれた中年の男が、彼女の叔父だった。
オルビア姫一行は留学のためにアムール国に行く途中だったらしい。理央は彼らに助けられて、一緒に行動することになった。最初はすごくラッキーだと思っていた。ところが、突然肝心の姫がいなくなったのだ。
理央が最後に見たオルビア姫は、いつもと変わりがないようだった。けれども、彼女は宿屋から従兄と共に消えた。置手紙を残して。
それが分かったときの叔父は、とても冷静で見事だった。
理央に身代わりをすぐに頼んできたのだ。理央の言葉の万能さと、変身能力を見込んで。
「途中ですり替わる必要があるのに、姫様のことをよく知らない人間に身代わりなんて……」
理央はオルビア姫のような上品な貴族になりきる自信がなかった。
「もちろん、教育やフォローは致します!」
「で、でも……」
理央は厄介事には二度と首を突っ込みたくないと思っていた。
オルビア姫の駆け落ちに腑に落ちない点もある。しかも、身代わりの仕事は、悪く言えば相手を騙すことだ。叔父の気持ちは分かるが、正直気乗りはしなかった。
もちろん、彼女の安否は気になってはいたが。
「お見合いを兼ねた留学なので、国交問題になりかねないのです」
「そうですよね、困りますよね」
一大事だということは、理央にもよく分かっていた。叔父から親切にしてもらった恩も感じていた。
だから、スルーすることに罪悪感を覚えていた。
困った人を見過ごせない性分なせいか、正直なところ、断るごとに胸が痛んでいた。
「もし助けて頂ければ、我々の国ヤッサムに国賓としてお招きして、今後の生活の保障をいたします」
叔父はとても魅力的な見返りを提示してきた。
(本当ぽん!? ご飯に困らないぽん?)
「我が国の恩人となって頂けるなら、決して不自由はさせません」
(理央ぽん! ここは頑張りどきぽん!)
「……わ、分かりました! やらせて頂きます!」
たぬ吉が大反応したのもあったが、これは生きるための仕事だ。そう、取引だ。決してお節介ではないはずだ。
理央は自分を納得させて、とうとう引き受けることにした。