第22話 皇子の気持ち
アディードたちは再び宮殿に戻ってきた。日が傾き始め、もうすぐ夕暮れを迎える。
理央が扮するオルビア姫をいつまでも不在にするわけにはいかない。アディードはまだ明るいうちに理央が滞在する建物に馬車で案内する。
オルビア姫探索の結果は残念だったが、このアムールの街を理央に案内できて良かった。
やはり彼女は表情豊かで、見ていて飽きなかった。皇子という身分に媚びを売るわけでもなく、女を武器にするわけでもなく。適度な無関心さが、アディードには心地よかった。
御者に声をかけられて、目的地近くに到着したことを知る。
姫が滞在している建物の周囲は、生垣に囲まれている。そのため、馬車を建物の側まで近づけられなかった。
先にアディードが降りて、理央に手を差し出した。おずおずと遠慮がちに対応する彼女の仕草が初々しく感じる。慣れていないのだろう。そういえば、理央が足をくじいたときに彼女を抱き上げたときも、同じように戸惑っていた。恥ずかしげに何かを堪える彼女の声が脳裏に甦ったとき、一気に体が熱くなった気がした。
理央の両足が地面についた直後、アディードは何事もなかったように口を開く。
「今日は付き合ってもらって助かった」
アディードが礼を言うと、理央は手を離しながら見上げた。
「いいえ、こちらこそ、ありがとうございました。いっぱい買い食いしちゃって、本当にごめんなさい。おかげで、たぬ吉は楽しかったって、言ってます」
理央はにっこりと笑顔を浮かべる。実際、彼女の食べっぷりは、見ていて気持ちが良いものだった。つい、こちらも調子に乗って色々勧めてしまった感があった。
「そうか、それは良かった」
彼女はアディードが贈ったアムールの服も着ていて、その姿はとてもよく似合っていた。
兵舎にいる仲間に相談したときは、自分に女が出来たのかと誤解されて困ったが、彼らのおかげで良い店を紹介されて、無事に服を用意できて助かった。
理央の顔は、控えめながらも、すっきりとして整っている。アムール人は顔立ちが濃く、目鼻立ちがはっきりとしている者が多い。毎度くどい印象をいつも受けるが、彼女の顔は悪く言えば大人しいが、それがアディードには好ましかった。
見ていて疲れないのである。
じっと見つめていると、理央の視線が泳ぎ始めて恥ずかしそうに顔を伏せられた。
(ああ、しまった。つい、ぼうっとして、眺めていた)
理央にこっそりと尋ねたいことがあったのに、結局周囲には人がずっといて、聞きづらいままだった。
そう残念に思っていたが、ふと周囲を見ると、屋敷の周囲には、背の高い生垣や植木が青々と繁っていた。そのおかげで、あまり人目に触れることはなかった。ここでなら、内密な話がしやすい雰囲気だ。少しくらいなら時間は大丈夫だと思い、近侍たちを人払いして、理央と二人きりになる。
「そういえば、聞きたいことがあったんだ」
「はい、なんでしょう?」
理央はこちらを見つめたまま、数回瞬きする。純粋にこちらの質問をただ待っているように感じた。その裏心のない無邪気な様子にいちいち安心するのは、本当に面倒くさい人間が多かったせいだろう。
「あの、もしかして、私に会いたかったって言ってましたけど、その質問があったからですか?」
理央が訊くので、「そうだ」と答える。
彼女はヤッサム国で保護されている。身代わりの役目が終われば、恐らく彼の国へ戻ってしまうだろう。だから、あまり深入りは避けようと思っていた。それでも、知りたくて仕方がないことがあった。
「以前、抱き上げたときのことだ。右手に感じた違和感が気になったと言ったが、あれは一体なんだったのかと、ずっと気になっていて」
まるで体の一部のように反応していた不思議な物体の正体をずっと忘れずにいた。あれに刺激を与えるたびに自分に抱きついてきた理央の声を思い出さずにはいられなかった。
耳に残る彼女の魅力的な声。
また彼女を抱き上げて、あのときと同じように彼女の声を聞けたら――と想像したとき、自分の中にこんな感情があったことに驚いたくらいだった。けれども、そんな自分勝手な恥ずかしい欲求は許されるはずもない。
訓練中にまで思い出して、持っていた模造刀を遠くへ飛ばしたときなど、周囲になにかあったのかと心配されたが、誰にも口外するつもりもなく、悟られたくもなかった。
アディードが尋ねると、理央の目は大きく見開かれ、顔がぎこちなくひきつっていた。
もしかしなくても、アディードはきいてはいけないことに触れてしまったようだ。
「いや、言いたくないなら、無理にとは言わないのだが……」
「あの、それは、その……。精霊のたぬ吉が体の中にいるとき限定のことなので、あまり気にしないで……と言いたいのですが、あれのせいで、体の線が出る服が着れないのです」
理央が俯きながら、恥ずかしそうに話してくれる。もじもじと体を揺らすので、よほど言いにくいことなのだろう。つい好奇心で尋ねてしまって申し訳なく感じた。
言われてみれば、理央はいつもヤッサムのふんわりとした服を着ていた。
アムールの外套なら、体形は隠せるが、宮殿内にいるときは、ほとんど使用しない。
「そうか。体型を隠すためにヤッサム国の服を……」
ちらりと理央の姿を見下ろすと、今はアムールの長い外套を着て、体の線を上手く隠している。
裾の下に隠されている彼女の下半身を露わにして確かめたい――と邪なことを思わなくもなかったが、流石にそれは彼女に対して失礼だろう。それに、そんなことをしたら彼女に嫌われてしまう。
彼女の態度から察するに、これ以上は踏み込めない内容なのだと察するしかなかった。
精霊の加護が原因だと分かっただけでも良かったと思い、諦めるしかなかった。
聞きたいことは終わったので、これでお別れしても良いはずだった。だが、なぜか離れがたいものを感じていた。
間を持たせられれば良いのだが、こういうときに自分の悪い癖で、焦るばかりで肝心の台詞が浮かんでこない。
「あの、」
アディードがとりあえず言葉を発するが、余計に頭が真っ白になる。
「なんでしょうか?」
理央がアディードの言葉に反応してくれるが、頭の中がごちゃごちゃになって、結局何も浮かばなかった。助けを求めるように理央の様子を窺う。きっと、今までと同じように彼女も訝しげな顔をしながら、内心では苦笑したり呆れたりして、こちらを見つめているだろう。
そう不安に思っていた。
ところが、理央はとても落ち着いた顔のまま、待っていてくれた。微笑みながら、嫌な顔をせず、当たり前のように。
夕日が優しく彼女を照らす。柔らかい日の光に包まれて、こちらを見つめる彼女の目にも陽の光が差し込んで、黒い潤んだ瞳が輝いているように見えた。
彼女を眩しく感じて、アディードは目を細める。けれども、視線を逸らせなかった。目に焼きつくように、ずっと彼女のことを見つめていた。
いつの間にか気持ちが落ち着いていた。壊れた歯車のようにぎこちなかった自分が、きちんと部品が噛み合ってまともに動き出している。自然な状態に戻ることができた。
「また私と会って欲しい。リオ」
「ええ、もちろんです」
アディードは理央の快い返答を聞いて満足した。名残はあったが、これ以上引き止めると悪いと思い、別れを決意する。
「では、館まで送ろう」
そう思って足を踏み出そうとしたときだった。
「あの、アディード皇子」
今度は理央が呼び止めてきた。その彼女の呼び方が、元に戻っている。それを寂しく思ったとき、勝手に口が開いていた。
「アディと」
「え?」
理央が戸惑った表情を浮かべるので、少し微笑んだ。
「これからも他に人がいないときは、アディと呼んでほしい」
「……は、はい!」
心なしか彼女の頬が赤く染まった気がするのは、気のせいではないと願いたかった。
彼女は照れくさそうに微笑み、髪を耳にかけ恥ずかしそうに視線を外す。そのいじらしい仕草を見て、自分の胸の中にこれまで感じたことがない想いが溢れてくる。
「それでアディさん、皇妃様の件なのですが」
理央が困ったように見上げるので、改めて彼女と向き合う。
「ああ、どうした?」
「あのときの、皇妃様のお願いの答えは、保留ということで対応しようと思います」
彼女はとても重い表情をしている。アディードの母は、我が強いので、彼女からの要求をかわすのは一苦労だろう。
「手間をとらせて申し訳ない。いずれ母には私から話しておく。私が望んだことだと」
理央は安心したように頷く。
「あと、エディルド皇子のことですが、彼には何か相談されているんですか?」
「いや。もう何年も二人では会ってもいないし、話してもいないんだ」
そう言うと、理央は意外そうに目を見開いた。
「どうしてですか? 皇妃様はあのように悪く仰っていましたが、アディさんはエディルド皇子に王位を譲るくらいには、信用されているのでしょう?」
「ああ、兄上は私と違って社交的で顔も広い。兄上のほうが、アムールにとって、なくてはならない人なのだ。だから、自分が嫌われていても、兄上を皇太子に勧めるんだ」
理央は自分のことのように悲しそうな顔をした。
「アディさん。そんなにご自分を卑下されなくてもいいんじゃないんでしょうか。お互いに引け目を感じ過ぎている気がします」
「兄上が私に引け目など……」
「エディルド皇子がオルビア姫だった私の頬にキスしたのも、アディさんに負けたくなくて焦ったからだって言ってましたよ。それに、エディルド皇子はあなたがいる前でも仰っていたじゃないですか。私は弟とは違って才能がないから、狩りが下手だって」
言われて思い出した。あの食事会のことを。アディードも確かに兄の言葉を聞いていた。だが、兄が自分に劣等感を抱いているなんて、考えもしなかった。
いつも、兄の巧みな話術に圧倒されて、自分の至らなさを痛感するばかりだった。
だから、自分には王は向いてないと疑いもなく感じていた。
「それに、エディルド皇子は、皇妃様のことがあって、あなたにも嫌われていると思っているかもしれません。だから、今回の件について、エディルド皇子と話し合われて、誤解を解かれたほうが、すんなり話がまとまる気がするんです」
「話し合うか……。そんなことも、考えたこともなかったな」
「ごめんなさい。出過ぎたことを言って不快にさせていたら……」
「いいや、そんなことはない」
正直、まだ理央から言われたことを受け止めきれていない。今までの事実の捉え方が変わるほどの話だったからだ。
けれども、それを一蹴できるほど、根拠のない説明でもなかった。
彼女のおかげで、今まで煙に巻かれて何も見通しのつかなかった事案が、いきなり明瞭になった気がした。
「せっかく二人ともそれぞれ素敵なところがあるんですから、兄弟で協力しあえたら、いいなって思ったんです」
理央の言葉が聞こえたとき、すっと風が肌をかすめていった。夜の訪れを告げるような涼しさは、火照った熱だけではなく長年くすぶっていた想いまでも奪って去っていく。
茜色がますます強くなり、彼女を赤く染めていく。その姿は、まるで彼女自身が燃えて輝いているようで、とても綺麗だった。もっと彼女と話していたい。けれども、そろそろ戻らなければ、暗くなってしまうだろう。
しかし、この離れがたい、後ろ髪を引かれるような想いはなんだろう。
心の奥底から、衝動のような強い感情が生まれる。
壊れ物に触るみたいに彼女に手を伸ばし、そっと彼女の頬に触れる。
驚いたように理央の目が見開く。彼女は緊張したようにこちらを見つめ返す。慎重に彼女の様子を窺っても、嫌がっているようには感じない。むしろ、見上げる彼女の黒い瞳には、自分と同じように期待が満ちている。
柔らかい彼女の感触から愛しさが伝わり、ますます抑えが効かなくなる。
アディードの足が一歩前に動き、彼女の影と重なる。気付けば、自分の腕の中に彼女を抱き締めていた。密着する肌と衣越しから伝わる彼女の温もりに、この上ない喜びを感じる。
どのくらい、そのままでいただろうか。彼女が腕の中で身じろぎするので、ようやく我に返った。名残惜しげに彼女から離れた途端、寒気を感じて失った熱の大きさに気付かされる。
「申し訳ない。立ち話が過ぎたな」
「いえ、こちらこそ、ごめんなさい。引き止めてしまって」
「いや、今日は有意義な時間だった」
そう言って、彼女と共に館に向かおうと思ったら、
「あの、近いですから、見送りは大丈夫ですよ、アディさん。暗くなる前にお帰り下さい」
「そうか」
アディードは彼女の言葉に従い、そのまま生垣がある庭を抜けて、馬車へ戻った。
だから、一人きりの理央を狙っている者がいることに、不運にもアディードは気づくことができなかった。




