第12話 たぬ吉の不満
食事会から一週間後。
理央の捻挫は三日ほど安静にしていたら、少し痛みが残るが日常には差し障りがなくなっていた。軽症で済んで一安心だ。
今日もエディルド皇子に誘われて、理央は彼と一緒にお茶を楽しんでいる。
この国では、午後の熱い時間帯を涼しい日陰でお茶を飲んで過ごすのが日常らしい。今日のお茶は香りが強い茶葉で、牛乳みたいな乳製品で淹れたものだ。チャイに味は似ている。
「お味はいかがですか?」
「美味しいです」
エディルドに尋ねられて、理央はそれに答える。実際、理央の口には合い、美味しく感じられるが、本物の姫はどうこたえるのだろうか、と気になって不安がいつもつきまとう。
「アムールでは、茶葉の種類が豊富なんですね」
皇子が理央にさらに話しかける前に言葉を発したのは姫の叔父だ。
姫の故郷ヤッサムでは、未婚の男女が二人きりで会うことは良しとしないお国柄らしいので、姫の叔父が同席している。
「ええ、交易によって、色々な物が手に入るのです」
エディルドはそう自信に満ちた口調で答える。続けて、アムール以外の特産品について、詳しく教えてくれる。叔父は感心したように聞き入っていた。彼の巧みな話術によって、決して時間に飽きは来ない。
人懐こい印象を与える笑み、柔和な態度は、交易中心に栄えるアムールにとって、必要とされる人物に違いない。
この席には、もう一人の皇子であるアディードはいない。彼は普段兵舎にいて、兵と共に寝起きしたり訓練したりしているようだ。
理央は一度も彼からお茶に誘われていなかった。他人と話すのが苦手そうだったので、彼から声をかけられないのは仕方がないのかもしれない。ただ、以前助けられたとき、尻尾のせいで彼に必要以上に抱き着いてしまっていた。それを不快に思われてしまったのでは、それどころか不審がられてはいないかと気になっていた。
今日も話に花を咲かせていたら、あっという間に時間が来て、茶会がお開きになる。
理央たちが席を立つと、エディルドも見送るためにわざわざ立ち上がってくれる。
「またご一緒してください」
「ええ、喜んで」
理央は笑顔を浮かべて快諾した。そのとき、エディルドがさらに一歩こちらに近づいて来る。
(な、なにするぽん!?)
理央の中でたぬ吉が怯えている。以前、彼に抱き着かれて頬にキスされたことをかなり根に持っているようだ。
(理央ぽんに悪さしたら、ゆるさないぽん〜!)
可愛らしい声で、「シュッ! シュッ!」とジャブらしき物騒な素振りの口真似まで聞こえる。
(な、殴っちゃダメよ!)
お互いに警戒の最中、皇子はにこやかにこちらへ腕を差し出してくる。
「掴まってください。入り口までお送りします」
「えっ?」
彼の申し出を受けていいのだろうか。分からなくて、すぐに叔父の様子を盗み見た。すると、彼は無言で小さく頷いていた。
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
恐らく、理央の足を気遣ってくれたのだろう。けれども、まだ気を緩められない。皇子の動きに全神経を傾けながら、理央は部屋の扉まで案内される。前回と同じように彼から微かな香りが漂ってくる。ところが、匂いの種類は以前とは違うようだ。
(今度は別の女の匂いがするぽん……)
たぬ吉の呆れたような声が頭の中に響いて、思わず苦笑しそうになった。
「ありがとうございます」
今回は特に何も起きず入り口まで来たので、心の中でそっと胸を撫で下ろしながら、彼の腕から手を離した。
そのとき、エディルドが悲しそうに眉を下げた。
「前回は突然失礼なことをして申し訳なかったです。実は、あなたが弟に見惚れていた気がして、内心焦ってしまったんです」
「え、あの……」
アディードに目が釘付けだったことは事実だったので、エディルドの言葉に大いに動揺してしまう。彼は神経を尖らせて相手の動向を探っていたのだろう。理央は自分の失態が招いた出来事だったことに気づいた。やはり身代わりの難しさを苦い想いとともに感じた。
「アディードは、同性の私から見ても魅了的だから、負けてしまうと勝手に思い込んでしまって。でも、もうあんなことはしないので、警戒しないでくださいね」
エディルドは敵意など感じさせない満面の笑みを浮かべていた。
理央の振る舞いを、彼はもう気にしてないようだ。けれども、あまりにも完璧な笑顔と隙のない態度のせいで、理央自身も理由は分からないが無条件に信用しても良いのか不安があって怖かった。
それに、彼の言葉を意外にも思った。彼は話術が非常に巧みで秀でた点を持っているのに、それでも弟にコンプレックスを感じているのかと。
「いえ、こちらこそ、殴ってしまって申し訳なかったです」
相手が謝っている以上、理央も怒る理由はない。こちらも頭を下げて、無事に和解を目指した。
「仲直りできて良かったです」
エディルドは、右手をこちらに差し出した。意味を察して彼と握手すると、ぎゅっと想いを込めるように握られる。自分とは違い、彼の少し大きくて硬い手は少し怖い気がした。
「こんなことを言うのは卑怯かもしれませんが――」
そう話し出すエディルドの表情が暗い。
「アディードを選ばないほうが、あなたのためですよ」
こちらを気遣うような視線が、彼から向けられている。
「なぜですか?」
物騒な発言に理央は動揺を隠せなかった。
「――彼は母である皇妃には逆らえませんから」
「……そうでしょうか?」
「宴での皇妃の私への発言をお忘れですか? あの方は気にくわない者に対して容赦しない。だからなのか、アディードは母の発言を私に詫びながら、面と向かって母を諫めることもしなかった。国王ですら、皇妃を止めなかった。アディードは今は側妃もなく、あなたに対して誠実であるように装っていますが、あなたとの婚姻を済ませた後、皇妃方の親族の娘をすぐに側妃として迎えるでしょう」
エディルドは話し終わると、理央からの返事を待たずに離れた。自分の手が自由になったとき、理央は密かに安堵してしまった。
「では、またお会いしましょう」
見送る彼の笑顔が、少し恐ろしく感じた。
姫と叔父は滞在先の館に戻っていく。
理央が自分に割り当てられた部屋に戻った途端、たぬ吉が理央の体からポンっと飛び出す。
「ふう、今日もなんとかやり過ごせた……」
理央の口から重いため息が漏れた。今はたぬ吉と二人きり。周囲に姫の関係者がいないため、つい気が緩んでいた。少しの時間でも、姫としている振る舞っている間は、非常に神経を使って疲れる作業だった。
エディルドの忠告は、本当だろうか。
確かに、誰も皇妃の発言を諫めることもせず、理央以外にエディルドをフォローする者はいなかった。
国王と同じようにアディードも、皇妃にかなり気を遣っている。恐らく、彼女の影響力はかなり大きいのだろう。
けれども、アディードがエディルドに母の発言を謝罪していることから、母の全てを許容しているようにも見えなかった。渋々表面上は従っているようにも感じる。
ただ、エディルドの助言通りにアディードを選ばなくても、皇妃からの報復が待ち構えていそうだ。どっちを選んでも姫は大変そうである。恐らく、エディルドには現在王宮に強力な後ろ盾がいない。そうでなければ、皇妃から宴の場であんな嫌味は言われなかったはずだ。
あのように目に敵にされていたら、誰だって相手を苦手になるだろう。
皇妃がエディルドの母から被害を受けて加害者の息子のエディルドを嫌うように、エディルドも皇妃からの嫌がらせを受けて、その息子であるアディードを嫌っているみたいだ。
双方の気持ちを良く理解できるだけに、理央は頭を悩ますことになった。
ぐったりしてソファに腰を掛ける。
「はあ、早く姫様が戻るといいんだけど……」
残念ながら叔父からはまだ吉報は入っていない。本当に間に合うのだろうかと、不安を覚えずにはいられなかった。
「理央ぽん、もうやめるぽん」
気付けば、たぬ吉が理央の足元にいて、顔を見上げていた。じっと黒いつぶらな目をこちらに向けていた。
「どうしたの、たぬ吉?」
たぬ吉の声が暗かったので、心配になって理央は彼の様子を窺う。
「ずーと、姫の変身ばかりでつまらないぽん。もう理央が助ける必要がないぽん。十分に恩返ししたぽん。どこかに行くぽん」
「えっ、いきなりどうしたの、たぬ吉。ヤッサム国で贅沢生活したくなかったの?」
たぬ吉は今まで理央に素直に従っていたので、突然不平不満を言い出すとは思ってもいなかった。てっきり提示された報酬につられて頑張っているものだと思っていた。何故たぬ吉がこんなことを言い出したのか全然分からない。だから、彼に尋ねることしかできなかった。
たぬ吉は、シュンと悲しそうな様子で、顔を下に伏せた。
「理央ぽんが、辛そうなのがイヤぽん」
その感情を抑えたような声に理央は胸が痛んだ。それと共に彼に配慮が足りなかったことに気付いた。部屋に戻った途端、理央は先ほどみたいに弱音ばかり吐いていたのかもしれない。それをたぬ吉が見て、どう思うかなんて考えもしなかった。たぬ吉からすれば、理央が無理していると思われてしまったのだろう。
「それに目の前にあるおいしそうな食べ物を食べたいぽん。外にもっとあそびに行きたいぽん! がんばるなら、自分のためがいいぽん!」
その純粋な欲求も理央の胸に次々と刺さる。たぬ吉も相当我慢していたのだ。
自分ばかり辛いと思っていた。けれども、大変なのは、たぬ吉もだろう。以前、すぐに寝ていた彼のことを思い出した。疲れていた彼のことも、もっと気遣ってあげれば良かったと今更ながら後悔していた。たぬ吉という相棒がいるからこそ、この難題をこなせるのに。
「たぬ吉、ごめんね。大変なのは、私だけじゃなかったのに。いつも愚痴ばかり言っていて、心配かけてしまったよね? でも、姫様たちを見捨てられないの。だから、もうちょっと一緒に頑張ってくれる?」
理央は言いながら、たぬ吉の頭を優しくなでていた。
厄介事をスルーすると決めたなら、たぬ吉の助言に従ったほうがいいと思う。
でも、一度引き受けた仕事を投げることは理央にはできなかった。
手のひらを跳ね返すくらいふさふさの毛が、理央の手を迎えてくれて、その柔らかい感触が気持ち良かった。
たぬ吉はしばらく撫でられたままでいた。気持ちよさそうに目を細めて、暗かった顔つきが、穏やかなものに変わっていく。
すると、たぬ吉は、意を決したように顔を上げて理央を見た。
「そっか。理央ぽんは優しい人だったぽん。ぼくもそれで助けられたぽん。ご褒美につられたのは、ぼくだったのに、わがまま言って悪かったぽん」
たぬ吉が落ち込んだように首を地面に向かって下げるので、その健気な姿にますます心がきゅんと切なくなり、同時に可愛くて仕方がなくなる。
「ううん、私のほうこそ、たぬ吉に我慢ばかりさせて、気持ちを察せなくてごめんね。私もたぬ吉にもっと合わせれば良かった」
たぬ吉に覆いかぶさるように上からぎゅっと抱きしめる。たぬ吉はしばらくされるがままだったが、そのうち苦しそうに身をよじり始めた。
「じゃあ、食べてもいいぽん? もっと外へ遊びにいくぽん?」
いつもの元気なたぬ吉の声に理央は嬉しく感じずにはいられなかった。
「ええ、もっと楽しく過ごしましょうね」
たぬ吉の言う通りだ。相手のことばかりではなく、自分自身のために頑張ることも大事だった。今の自分は、他人のために我慢しすぎていた。そのことをたぬ吉は感じ取ってくれたのだろう。大事なのはバランスだ。
「うん! じゃあ、あともうちょっと、がんばるぽん! たぬきの神様もがんばれば良いことがあるって言っていたぽん」
たぬ吉の明るい声によって、理央も上向きな気分になっていく。思わず目を細めて笑みを浮かべてしまう。
仲直りできて良かった。
たぬ吉がいてくれて良かった。
この子がいたからこそ、見知らぬ世界で理央はひとりぼっちではないのだから。
そのとき、部屋のドアが突然ノックされた。
「姫様、よろしいでしょうか」
ドア越しに侍女から声をかけられて驚いた。普段、アムールの人がいないときは、理央と名前で呼んでくれる彼女たちが姫と呼んだからだ。何か事情があるのでは。そう構えたとき、「皇妃様から遣いがいらっしゃっております」と続きの言葉が聞こえた。
大ボスが突然現れたような気持ちになり、理央は助けを求めるようにたぬ吉を見る。すると、何も気づいていないたぬ吉が不思議そうに首を傾げ、こちらを可愛らしい目で見上げていた。