第10話 精霊1
理央は侍女に手を貸してもらって自分の部屋に戻った直後、たぬ吉に変化を解いてもらった。
途端に体の中からたぬ吉が飛び出し、自分の容姿があっという間に元に戻る。
姫は腰までの長い銀髪だったが、一瞬で髪は黒くなり、長さも肩当たりにまで短くなる。
肌の色も、少し黄色がかったものになり、見慣れた自分のものになる。
「はあ」
緊張が一気に抜け、溜まった気疲れのせいで、思わずため息が出た。
広くて贅沢な造りの部屋に置かれた鏡台。そこに映る自分の姿を遠目から確認する。こちらを見つめる目は黒い。姫はクリッとした、まるでお人形のように丸い目をしていた。それとは対照的に理央の目元はおとなしい印象を与える奥二重だった。
豊満すぎた胸元は、少ししぼんでいる。理央もそれなりに大きかったが、オルビア姫はさらに上回っていた。
「つかれたぽん」
たぬ吉は床で伸びをしながら大欠伸だ。そのリラックスした呑気そうな様子に思わず笑みがこぼれる。
「たぬ吉、ありがとうね」
やっと本来の自分の姿になって、気分が落ち着く。尻尾は理央にとっては馴染みのないもの。ない方がやっぱり心地良かった。
それにしても、アディード皇子に抱き着いたときの感触がまだ残っていて、緊張と胸の鼓動がまだ止まらない。顔から火が出そうになるほど熱くなっているような気がする。
しかし、慌てて自分に言い聞かせる破目になった。
(勘違いしちゃだめよ。相手は私をオルビア姫だと思って接してくれているんだから。……ほんと、美形が相手だと、困るわよね)
あくまで自分は代理だ。オルビア姫の。
だから、どんなに相手が優しくしてくれても、魅力的でも、誤解しては駄目なのだ。
そう考えて、冷静になろうと努めていた。
「失礼します」
振り返れば、オルビア姫の侍女たちが近づいてきた。ドレスを脱がすために後ろの紐を緩めてくれる。
「お疲れ様でした、理央様。今日も完璧な変身でございましたわ!」
侍女たちの中でも一番年かさの女性が気さくに声を掛けてくれる。名前をイリアと言っていた。彼女は理央よりも一回りほど年上のように見える。気丈な感じで、いつも堂々とした印象を受ける。長い金髪を一つにまとめ上げ、自国であるヤッサムの衣装を身につけていた。おとなし目のワンピースだ。
「うん、ありがとう。なんとか乗り切ったよ」
長年側に姫に仕えていた彼女たちにそのように評価されると、理央も一安心だ。
「本当に、理央様がいなければ、私たちは今頃どうなっていたのか」
「本当に」
他の侍女たちも口々に理央に感謝してくれる。それにイリアも全力で頷いていた。
「それにしても不思議ですわね。声だけは変わらないんですね。皇子たちの前で、あまりお話しができないのも大変ですわね」
姫の真似が大変だったのは本当なので、イリアの労いの言葉を嬉しく感じた。
「声もそうだけど、姫様ご本人と性格が違うと言われても困るから、あまり話せないのは変わらないけどね」
理央は姫のように人を指図することに抵抗があった。貴族らしい所作にも全然自信がない。姿かたちは同じでも、雰囲気は恐らく全然違うだろう。
侍女たちは手慣れた様子でドレスを脱がすと、代わりにガウンを着せて、理央のために椅子を用意してくれる。
それに座って待っていたら、次は「お湯のご用意ができました」と手際が良い。理央がそこで顔と手を洗うと、気分がだいぶすっきりした。
たぬ吉はというと、テーブルに置かれた果物で遊んでいて、ゴロゴロと転がしていた。たぬ吉は精霊なので食べなくても平気のようだが、美味しそうなものを食べたいという欲求はあるようだ。理央の中にいると、同じように味わえるらしい。
控えている侍女たちは、転がる果物に驚いて目を丸くして見つめていた。
「たぬ吉が触っているだけだから、大丈夫よ」
「やっぱり、そうだったんですね。安心しました」
彼女たちには、たぬ吉の姿が見えないようだ。初めのうちは、今よりも不安そうだった。
今回も理央が事情を説明して、やっと理解してもらえたが、やはり慣れないことには変わりはないのだろう。精霊を崇めているとはいえ、勝手に物が動けば、理央だって不気味に感じる。
今のところ、たぬ吉を目視できたのは、同じように精霊の加護を持つオルビア姫だけだった。
「理央様も何か召し上がりますか?」
「うん、ありがとう。さっきは全然食べられなかったから……」
話した途端に理央の腹の虫が鳴り出して、侍女と顔を見合わせて苦笑した。
こちらの建物でも調理はできるらしく、姫のお供の人が軽食をすぐに提供してくれた。
もぐもぐとサンドイッチらしいパンを食べ終わり、足首の状態を診てもらっていたら、誰かの寝息がいきなり聴こえてきた。そちらを見れば、たぬ吉が日の当たる窓辺の床で、ごろりと横になっていびきをかいて寝ていた。
理央は再びガウンから普段用のワンピースに着替えて、叔父と打ち合わせをしていた。
滞在している建物は石造りの豪邸で、室内も見事な装飾をふんだんに施されている。お付きの人も休める部屋もたくさんあるようだ。その中の応接室のような部屋に理央は呼ばれていた。側には侍女のイリアが控えている。きっと叔父からも彼女に対して信頼が厚いのだろう。
「もしかしたら、私のことがバレたかもしれないです」
尻尾のことでアディードに気づかれたのではと、叔父に相談していた。
テーブルの向かいに座る叔父はため息をつく。
「まだ証拠を押さえられた訳ではないから、言い逃れはいくらでもできると思います。それよりも、今日のような第一皇子への勝手なお言葉は控えていただけますか?」
「ごめんなさい。後で気づいたんですけど、まずかったですよね」
理央は彼が指摘した自分の失言について思い当たるところがあったので、すぐに謝った。
目を伏せると、目の前に置かれたカップが視界に入る。淹れたばかりのお茶から温かそうな湯気が上がっていた。
「ああいう風に褒められては、あちらを気に入っていると誤解される恐れがあります。それに、姫様ご本人は、あまりアムール語を流暢にお話にならないので、できるなら相槌くらいでお済ませください」
「ごめんなさい、気をつけます」
叔父は無言で頷く。
「こちらこそ申し訳ない。色々と口出ししてしまって。理央様には、善意で助けて頂いているのに」
叔父が本当に申し訳なさそうに謝ってくる。彼が頭を下げた際に、彼のサラサラの銀髪が頬の横で揺れていた。
注意されたのは理央なのに、全然気に障らなかった。
国王の弟で、しかも理央よりも全然年上なのに、こちらに対して丁寧に接してくれる。この人をとても誠実で信頼できる人だと感じていた。
魔法みたいに便利な力がない世界では、精霊の加護の力は貴重だとは思うが、それでもここまで真摯に対応できる人はいないだろう。
それなのに、どうして叔父に何も言わずに姫は居なくなってしまったのだろうか。
「ハロルド、わたくし、こわい、こわいわ」
初めて姫と出会ったとき、馬車の中で、姫は従兄にしがみつきながら、美しいアメジストのような瞳から涙をほろほろと流していた。とても可憐で儚げだった。
「私がお守りします。姫」
そんな姫を従兄は騎士の誓いのような力強い言葉と共に姫を抱きしめていた。その彼の目には、姫だけしか映っていないようだった。
ハロルドは目の前にいる叔父によく似ていた。さすが親子なだけある。銀色の短髪に、優男風な整った顔をしていた。ただ、姫には優しい顔を向けるのに、理央には警戒をして胡乱な目をよくされた。いきなり化け物に変身した上に裸で外にいたので、こちらが胡散臭い存在なのは仕方がないとは思うが、不安だったところを叔父と姫には優しくしてもらっただけに、理央はあのハロルドが苦手だった。
確か、彼は叔父の四男坊だと聞いていた。
「爵位は長子に継がせる予定なのです。なのでハロルドには己で道を開いてくれればと。だから先々で役立てられるようにアムール行きに同行させたんです」
そう叔父が言っていた。一方、当のハロルドは、親心を理解しているのか分からないが「姫も親しい人間が多いほうが安心すると思いまして」と言って姫を喜ばせていた。
姫とは互いの精霊の話で、道中盛り上がったものだった。それのお陰で、少しは姫の気持ちが落ち着いたと安心していたのに。
しかし、姫は従兄のハロルドと共に、目的地に着く直前のバルムの街で、突然宿から姿を消してしまった。目が覚めたら姫と彼がいなくなっていたのだ。
「父上、故郷ヤッサムよ、どうかお許しください。愛する人と生きます。ハロルド」
「ハロルドといます。心配しないで。オルビアより」
その二つの置き手紙をそれぞれ残して。
手紙があったからこそ、二人は駆け落ちしたのだと、みな判断した。
(でも、何か引っかかるのよね――)
その違和感の正体が何なのか、未だに判明していない。