第18話 小説の話をするのは楽しい
昼休み。ご飯がのどを通らない。コンビニで買ったサンドイッチが、机の上で6月の日差しをガンガン受けてる。
「イテテテ!」
新井葉の声が聞こえた。見ると、右手はギプスで固められ、食べにくそうだ。
「左手じゃ食えネーから、星良、食べさせテー!」
新井葉があーんと口を開ける。星良は箸でシュウマイをつかみ、新井葉の鼻の穴に押しこんだ。
「ウゴー!」
出産するブタみたいな声が響く。シュウマイって鼻に入るんだね。それを知れただけでも、新井葉が右手をケガしたかいがあったよ。
右手? ケガ? なんだろう、なにか思い出しそうなんだけど……。教室に、新井葉の悲鳴が響いてる。これ、どこかで聞いたような悲鳴だけど。
まあいいや。いまの僕には、よけいなことを考えてるヒマはないんだ。
締切という呪い。なにをしても心の隅に残りつづける恐怖。この呪いを解く方法は……
新井葉がシュウマイを鼻から出しながらあげる悲鳴を聞きながら、僕は教室をあとにする。
*
図書室に入り、通路を歩く。昨日見つけた禁断の聖地へ。図書室の奥の奥、知られざる秘境に、なにかを求めて。
「なにか」ってぼやかしてしまったけど、そう、わかるよね。今日もあの子、いるのかなって。
暗闇のなかに、明るい光が見える。
ドキドキする。こんなにもわかりやすく、自分の心と体が反応するなんて。
歩く速度がはやくなる。ああ、でも、緊張する。いてほしいって気持ちと、いたらどうしようっていう気持ちが、振り子のように揺れ動く。
本棚が途切れた。そこに彼女は……
いた。今日も原稿用紙をひろげ、小さい体で、おおいかぶさるような姿勢だ。1文字1文字を懸命に書いている。その背中。
北条かな……さん。たしかそういう名前だった。
聖地に一歩、足を踏み入れる。センサーにかかったみたいに彼女の手が止まり、ふり返る。
僕を見て、ハッとした。その顔が……。かわいい。
僕の方はいったい、どんな顔をしてるだろう。マシな顔ならいいけれど。
彼女はパッと飛びつくように原稿用紙に向かい、書きはじめる。
僕は邪魔しないよう、机の逆側、つまり窓側に行き、イスに座る。
カリカリカリ……。
今日もこの音を聞く。執筆の美しい調べ。
いつまでも聴いていたいけど、今日の僕は、コンサートを聴きにきたわけじゃないんだ。
カリカリカリ……。
僕だってこの演奏に加わりたい。締切まであと1日。書こう。ここでなら、きっと書けるはずだ。
カバンから、原稿用紙とペンを出す。
カリ……。
ペンの音が止まる。
え? 見ないようにしてたけど、思わず彼女の方を見てしまう。
彼女も、僕を見てる。
「原稿、用紙?」
その言い方には、宇宙人が、自分たちとおなじものを、おなじ名前で呼んでいたような、驚きとうれしさがあった。
僕たちはそのまま動かない。なにをしゃべっていいか、わからない。
彼女が、顔を赤らめ下を向いた。
「あ、ごめん……」
僕もあわてて横を見る。結果的に僕たちは、しばらく無言で見つめあってた。恥ずかしいよね。
窓の外を食い入るように見つめる。だけど景色が頭に入ってこない。気になるのは僕のうしろ。
ペンの音は聞こえてこない。おかしいな。
ふり返ると、彼女はまだ、はずかしそうに下を向いてる。
勇気を出して、僕はひとこと、
「あの、ごめんね……」
「いいんです、ただ……」
「ただ?」
「驚いて。それ……」
「原稿用紙?」
コクッとうなずく。
「そうだよね、こんな物騒なもの出したら驚くよね。警察に捕まるよね」
「え! そうなんですか?」
彼女が真剣に僕を見る。
「えっと、冗談……です」
今度は僕の方が赤くなる。冗談だとわかってもらえなかったときの、恥ずかしさ。
「ご、ごめんなさいっ!」
「僕の方こそ!」
なぜかおたがい謝った。6月、放課後。図書室の、僕たちだけの時間。また訪れた沈黙を、破ったのは彼女で、
「じゃあ私も、捕まるかも……」
そう言って、原稿用紙をそっと指さした。彼女なりの冗談だ。
僕は彼女に向き直り、真顔で、
「え? そうなの?」
ボケ返し。
彼女はあっけにとられてる。まさかそんな風に返ってくるとは思わなかったんだろう、頭のなかで必死に演算してる。僕の言葉の意味と、それに対してどんな反応をしたらいいのか。
そうしてようやく、セキをするみたいに口を軽く押さえる。よく見ると、笑ってる。
やった! 心のなかでガッツポーズだ。
「あの、僕、白滝オサム、です」
突然の自己紹介。タイミングがおかしいとか言わないでほしい。タイミングなんて考えたら、永遠に話しかけられないんだから。
彼女が僕を見る。
「私は――」
「北条かな、さんでしょ? 表紙に書いてある」
指をさす。
「あっ」
「小説書けてすごいね」
「そんなこと、ないよ」
「でも書けてるよ」
「ダメなの、わたし、書いても書いても、コンテストに落ちてばっかりで……」
「じゃあたくさん応募してるの! すごいね!」
ぶるんぶるんと彼女は首をふる。そんなにふったらモゲそうだよ!
「全然すごくない……。何度も出したんだけど、そのたびに落ちちゃって……」
彼女の目に涙がたまりはじめる。いまにも決壊しそうだよ。
「書けるだけすごいんだよ! それだけで才能だよ!」
「ほんと?」
「うん、だって見てよ、僕なんかほら、全然書けないんだ。それに、学校に原稿用紙を持ってきたら、バカにされるしまつでさ」
「え? どうして?」
彼女の表情が変わる。
「やなヤツがいてね、『素人が小説書いてなにになるンだ? プロでもネーのにヨー』って言われてさ」
「プロじゃなきゃ小説書いちゃダメなんですか!」
ハッとする。そんなに大きな声を出す子だと思わなかった。
彼女は、自分の熱さに自分で恥ずかしくなって、
「ごめんなさい……」
下を向く。彼女の気持ちがとてもとても伝わる。なぜだろう、胸がしめつけられるんだ。
「いいんだよ、僕だってそう思うよ。だれだって小説を書いていいんだよね」
「うん!」
キラキラした目で僕を見る。あんまり、そんな目で見ないでほしい。じゃないと僕は……
「こ、この場所、いいよね!」
無理矢理に話をふる。
「うん、だれにも邪魔されないから!」
「僕、邪魔してるよね? いなくならなきゃ」
「……」彼女が僕を見て、「冗談?」
「うん」
「やっぱり!」
最高の笑顔をくれた。なんだろう、不思議だ、不思議なんだ。ふたりで笑うと、とても楽しい。
「小説、好きなの?」
彼女に聞いてみる。
「うん、はじめは読むだけだったけど、だんだん自分でも書きたくなって」
「すごい。うちにもたくさん本があるけど、1冊も読んだことないんだ」
「もったいない! 読まなきゃ!」
力説だ。心の底から本が好きなんだ。
「ねえ、どういう本が好きなの?」
「えーと、たくさんあるんだけど……。鹿羽根はじめ先生、とか」
「え!? 鹿羽根はじめって、しかばね先生のこと?」
「うん! 学校にいるんだよね! 本を1冊出してるんだよ」
さすがしかばね先生、やっぱりちゃんとした作家だったんだ。
「じゃあサッカ部に入らないの? 小説を書くのが好きで、しかばね先生の本も読んでるんなら」
「う、うん……」彼女の顔が曇る。「部室行くの、怖くて……」
「だよねー!」
これは思いっきり共感するよ。部室にたどり着くだけでホラー映画1本分の怖さなんだ。
「ここで書いてる方がいいよね。最高の環境だし!」
「うん。本に囲まれて書くなんて最高! 調べたいと思ったら、すぐに探しにいけるし。やっぱり本があるだけで、書きたいって気持ちがわいてくるの! あっ、ごめんなさい……私ばっかり……」
自分の熱さに、また顔を赤らめる。
「いいんだよ! 本があったら書きたくなるよね!」
彼女が照れくさそうに僕を見て、
「白滝君はどうして小説を書こうと思ったの?」
やった、僕のことを聞いてくれるなんて!
「殺し屋みたいな編集者に、書かないと殺すって脅されたんだ!」
キョトンとしたあと、彼女が今日いちばんの笑顔で笑って、
「白滝君の冗談って面白いね!」
「で、でしょ……」
これは冗談じゃないんだけどね……。
そのとき、ジーというあの音が聞こえてくる。ああ、僕たちの楽しい時間はこんなにもあっというまなの?
昼休みの終わりを知らせるチャイムが鳴りはじめる。僕はきっと、露骨に残念そうな顔をしてると思う。
「また放課後にね」
彼女が言う。放課後! そうだ、今日という日はまだつづくんだ。
僕たちは荷物をまとめ、図書室を出る。ならんで歩くと、ああ、彼女の背の低さを実感する。こんなにも小さい彼女が、あんなにも力強く書くなんて。
廊下に出ると、
「放課後、またここで」
唱えるごとに強くなる呪文のように、僕は何回目かの念を押す。
「大丈夫」彼女はうなづいて、「あ、そうだ!」
なにか閃いたみたいだ。跳びはねてる。
「小説の参考になる本あるんだけど、白滝君、読む?」
「ホント? 読みたい!」
「じゃ、図書室にあるから借りようよ!」
図書室にもどっていく彼女を追おうとしたとき、ぶぶぶ……蠅の羽音のような、不快な震えがカバンを襲う。
携帯の着信だ。こんなときに!
だれからの電話か、察しはつく。きっとあいつだ。でも、どうしてこのタイミングなの? もっと前でも、ずっとあとでもいいはずなのに。
絶妙なタイミング。まるで見計らっていたように。
見られてる? ゾッとしてあたりを見まわす。
だれもいない。静かな廊下があるだけ。
図書室から彼女が、不思議そうな顔で見てる。図書室と廊下、隔てられた僕たち。
たった1本の電話のせいで、ゾワゾワする。確実に近づいてくる死のような感覚。これが、締切に追われるってこと?
「どうしたの?」
彼女の声は心配そうだ。
「うん、携帯鳴ってるんだ」
「出たら?」
「でも……」
「わたしのことは気にしなくていいから。そうだ、本は放課後に読んで。机の下に隠しておくから。わたし、遅くなるから、先に来て読んでてね!」
そう言って彼女はひとり、図書室の奥へ消える。むじゃきな背中を目で追って、
「ありがとう」
僕の言葉は、聞こえただろうか。
カバンから携帯を出す。あれ? 着信は家からだ。
両親は別居中で家にいないはずだし、ザムザか?
ついに電話までかけられるようになったのかと、感心しながら電話に出ると、
「おう、ここがおまえの家か」
寒気が襲う。体の芯から凍っていくような恐怖。
「なんで家に!」
「おまえ、締め切りまであと1日だって、わかってるよな」
すぐに切った。
わけがわからない。混乱した頭をなんとか正常にしようするけど、考えがぐるぐるまわってまとまらない。
ふたたび携帯が震えはじめる。
携帯の電源ごと切った。できればこの場で携帯を破壊したい気持ちだ。
電源は切れたのに、ぶるぶると僕の手は、震えつづけて……