第15話 基本中の基本
まさか! 顔をあげると、
「気をつけろよ」
知らないハゲたおじさんだった。そそくさと、なぜか逃げるようにいなくなる。
よかった……。
大きく胸をなでおろす。それにしても僕は、なにをそんなに恐れてるんだ。
もちろん締切だ。それから編集者。このふたつを、お化けか殺人鬼なみに恐れてる。
ビビりすぎだよ、落ちつかないと。
そう思って歩きだして、気がついた。
あれ? お尻のポケットにあるはずの圧迫感がない。手で押さえる。なにも入ってない……ポケットに手を入れる。ない、ない、サイフがない!
ふり返る。さっきぶつかったハゲは、とっくにもう、消えている。
*
「やあ、もどってきたんだ」
サッカ部のドアを開けると、先生はまだそこにいた。静かにイスに座って、部室はもう暗い。
「先生、サイフをスラれてしまいまして……」
「ホント? ちゃんと探した?」
「探しましたよ、制服もカバンのなかも、全部見ました。でもないんです」
「きみ、おっちょこちょいだからなあ」
「じゃあ見てください!」
部室に入って、先生の横にある机にならべていく。
「教科書、ノート、筆箱……原稿用紙にペン。ほら、カバンはもう空です!」
「自慢げに言うことじゃないよ。そもそもなんでサイフなんかスラれるの?」
「わかりませんよ。出会いがしらにドン、とやられて……」
窓から月明かりが入ってくる。スポットライトみたいな月光のなかを、小さな蛾が1匹、ひらひらと舞いおりてきた。蛾は羽ばたきながら、先生の前をいかにも不安げに飛びまわってる。
「で、どうしてもどってきたんだい?」
「だからさっき言ったじゃないですか。サイフをスラれたんですよ」
先生が、細く白い腕をスーッとのばす。手の先に、蛾がヒラヒラ寄ってくる。
「でもきみ、サイフがなくても帰れるよね」
そのとおりだ。
「バスや電車に乗らなくても、いつもは徒歩なんじゃないかな?」
先生は指をひろげたかと思うと、ガバッと蛾をつかんだ……いや、折り曲げた指のなかに、蛾がすっぽり入って、まるで虫かごみたいになってる。
「本当は、ここにもどってくる理由がほしかったんじゃないかな?」
「そうなんです……」
先生の手が、だんだん、せばまっていく。閉じこめられた蛾が、窮屈にそうに羽ばたいてる。
「まだ僕に、教えてもらいたかったんだね」
やさしい口調だ。手がどんどん蛾を……
「先生!」
先生にすがりつく。
「小説の書き方を教えてください!」
「それはもう聞いたよ~」
先生は笑ってる。僕がしがみついたせいなのか、先生の手は開かれて、蛾はヒラヒラと窓の方へ飛んでいく。
「まあ、座りなよ。くすぐったいよ」
「あ、すみません……」
抱き枕みたいに、先生の足をかかえてた。言れるがままイスに座ると、
「教えてほしいの?」
「はい。もう残り時間も少ないし、このままだと絶対書けないと思うんです!」
「その自信には恐れいるけど、まあいい、せっかくだ。『欠落と回復』について教えてあげるよ」
「なんですかそれ!」
「フフフ……『欠落と回復』は文字どおり、欠落したものが回復することをいうんだ。欠落っていうのはたくさんあるけど、たとえば『お腹が減った』とかだね。それが回復すると?」
「えーと、満腹ですか?」
「そう。欠けていたものが満たされたよね。つぎ、貧乏が?」
「回復するんだから……金持ち?」
「いいじゃないか。戦争と?」
「平和」
「トルストイもびっくりだね」
「……」
「きみにはなんのことかわからないと思うけど」
「あ、はい、すいません」
てへへと頭をかく。見あげると、さっきの蛾が優雅に舞っている。
「物語序盤で出てきた欠落が、ラストで回復に変わる。これは基本中の基本。この図式を知っていれば迷うことはないよ」
「じゃあ、欠落と回復を考えれば、物語ができるわけですか?」
「途中も必要だよ。物語の大半は途中なんだから」
「物語の大半は途中……」
「すぐ回復しても面白くないよね? 欠落したものを回復するためにどうするか、その過程を描くんだ」
「過程ですか」
「そう。努力するのか、天才的なひらめきがあるのか。あるいは裏切るのか、スジを通すのか。ある人物が欠落状態になったとき、回復させるためにどう動くかで、キャラ性が浮き彫りになるんだよ」
「なるほど!」
コツ、コツと頭の上で音がする。見あげると、さっきの蛾が窓にぶつかって、外に出せと主張してる。
欠落と回復、それから、その過程……。
「先生! さっそく家に帰って書いてみます!」
教科書やノートをカバンにつめる。
「もういいの? 欠落と回復のつづきは?」
「大丈夫です! こんなにたくさん武器をもらって、もう持ちきれないくらいです!」
「そう遠慮しなくても~」
カバンに荷物を放りこみ、やけに引きとめる先生をふりきって、
「がんばります!」
部室の外に出る。廊下を歩きだしたとき、
「惜しかったなあ……。でも、これがあるからまた来るよ」
先生の声が聞こえる。惜しかったって、どういうこと? それに、だれと話してるんだろう……。
*
家に帰ると、ザムザがぐだら~っと寝ている。お腹を見せてだらしない。
「どうした? 世界一かわいいネコがそんな姿で」
「腹ぺこだニャー」
「そうか、帰り遅くなっちゃったから」
「セルバンテスはニャー、『パンさえあれば、たいていの悲しみは耐えられる』って言ったニャー……」
リビングに行って、ザムザのご飯を用意すると、
「にゃにゃにゃー!」
我を忘れて飛びかかってきた。ネコまっしぐらとはまさにこのことだね。
はぐはぐ食べるザムザのかわいさをひと目見て、部屋に行く。ご飯を食べるヒマはないんだよ。
イスに座り、机の上に原稿用紙を……出そうと思ったけど、カバンのなかに入ってない。あれ? どうして?
図書室で彼女……北条かなさんといっしょのときにはあったよね。スラれたあと、サッカ部に行ったそこで机に出して……
あのときだ。しまい忘れたんだ。帰りぎわの先生の言葉を思い出す。
「惜しかったなあ……でも、これがあるからまた来るよ」
「これ」って原稿用紙のこと? もう、言ってくれたらよかったのに!
取りにもどる時間がもったいない。ノートパソコンで書こう。
電源ボタンを押すと、
バン!
火を噴いた。
「うわっ!」
あわててノートパソコンの上ブタをしめる。
内部からシューッと音がして、焦げたいやな臭いがたちこめる。
なんなんだいったい!
火は見えなくなった。だけど両サイドから煙がモクモクとあがって、気がつくと、煙が充満してる。
ゲホゲホと、セキこみながら窓を開ける。すずしい夜気と入れ替わりで、煙が出ていく。
顔を出して、外の空気をたらふく吸う。部屋を見ると、パソコンの煙はおさまりつつある。
どういうこと? いきなりショートしたの?
こわごわ、パソコンに近づいてみる。
上ブタ、つまりディスプレイの部分を開ける。
ディスプレイとキーボードがひっついて、ピザのチーズみたいに糸を引く。
うわあ……。
あきらめて、フタを閉める。
どうしよう、書くものがなくなってしまった……。
そのとき、電話が鳴る。
「うわあ!」