涙
かなり前になるが、クローシェザードにヨルンヴェルナとの関係を訊いたことがあった。彼はやけに潔い様子で知り合いだと言い切っていたから、それ以上詮索することはなかった。
しかし今目の前に、当たり前のようにヨルンヴェルナがいる。
シェイラ以外訪れる者はないと思っていた教員室の、ほとんど専用になっていた椅子にくつろぎながら。青灰色の髪を掻き上げ、紺碧の瞳を楽しそうに瞬かせながら。
これはもう、クローシェザードが何と言おうと、ただの知人では済まされないのではないだろうか。
「も、もう一度言わせてください。何で、ヨルンヴェルナ先生がここに……?」
「いやだなぁ。何で二回言う必要が?」
「大事なことだからです」
「アハハ。君って本当に面白いなぁ」
シェイラの質問に、ヨルンヴェルナは実にいい笑顔で返した。
しかし会話を重ねた末に得られたのは、彼からの面白人間認定のみ。質問はすっかり行方不明になっている。
――この徒労感……。久しぶりのヨルンヴェルナ先生だ……。
彼は技術披露大会で得られた記録を研究に反映させようと奔走していたので、話すのは実に二週間ぶりだった。
時間が経っているせいか、慣れていたはずのシェイラでさえ目眩がする。流石ヨルンヴェルナといったところだろうか。
そもそも生徒達の晴れ舞台を自分の研究に利用しようという考えが悪魔すぎる。そのおかげで精霊術の研究が休止しているため、シェイラとしては助かっているのだが。
大きく息をつくと、再び同じ質問をする。彼のペースに巻き込まれたら迷惑を被るばかりだとよく分かっているのだ。
シェイラが購入した紅茶をシェイラのティーカップで楽しみながら、ヨルンヴェルナは優雅に立ち上がる。
ゆっくりとクローシェザードに近付き、背後から肩を抱くようにすり寄った。
「――――実はね、僕達は人目を偲ぶ仲なんだよ」
「え、」
シェイラが驚ききる前に、クローシェザードの肘鉄が炸裂した。ヨルンヴェルナの顎を容赦なく攻めた一撃は、ヒラリとかわされる。
クローシェザードは至極不機嫌そうに、苦虫を何十匹も噛み潰したような顔で口を開いた。
「紛らわしい言い方はやめろ。お前のような男といかがわしい関係なのだと、誤解されることすら気持ちが悪い」
この学院では珍しくないという男同士の恋愛を目の当たりにしてしまったと一瞬どぎまぎしていたシェイラだったが、続く言葉に更に目を見開いた。
「我々は、あくまで学院に在籍していた頃の同級生にすぎない」
「――――――――えぇっ?」
「……なぜ恋人同士と聞いた時より驚く」
クローシェザードが手を休め、呆れたように顔を上げた。
「う、いや。別にそんなことないですよ…………」
「何だその含みは」
クローシェザードの追及に誤魔化しきれず、シェイラは白状した。
「……すいません。正直、ヨルンヴェルナ先生が若作りすぎるのとクローシェザード先生が老け顔すぎるせいで、まさか同い年とは思わなくて」
クローシェザードが三十代にみえるのはいつものことだが、ヨルンヴェルナの年齢なんて考えたこともなかった。黙っていれば二十代半ば、つまり年相応に見えるのだが、言動のためか年齢不詳の雰囲気があるのだ。いい年なのにここまで周囲に迷惑をかけられる大人を、シェイラは見たことがない。
とはいえ、正直に打ち明けたから許してもらえる、なんてはずもなく。
「――――どうやら君は、私に喧嘩を売りたいようだな」
「しかもその発言、僕にまで飛び火しているよねぇ。若作りなんてしていないのに失礼しちゃうよ」
クローシェザードは絶対零度の瞳で、ヨルンヴェルナは腹の底の知れない笑顔でシェイラを震え上がらせた。
平気で他人を実験動物扱いする変態の方が、どちらかといえば脅威かもしれない。ただクローシェザードに相談をしようと思っただけなのに、何だか散々な目に遭っている。
――まぁ、少し気分が晴れたけど。
現実逃避気味に乾いた笑みを浮かべていると、ヨルンヴェルナが手元にある紙束を掲げた。
「僕はね、技術披露大会で手に入れた試験結果について、クローシェザードの考察を聞きに来ていたんだよ。いやぁ、本当に実のある素晴らしい大会だったよね」
「……僕らにとってだけじゃなく、ヨルンヴェルナ先生にとっても素晴らしい大会だったでしょうね」
主に研究面で。犠牲者の姿がまざまざと目蓋の裏に甦り、シェイラはやるせない気持ちになった。
「という訳で、僕の用はもう済んだから。シェイラ君と愛し合いたいのはやまやまだけれど、これで失礼するよ」
「長居したところで愛し合おうなんて、万が一にも思わないですけどね」
「そんな君のつれないところも好きだよ」
愛嬌たっぷりに片目をパチリとつむり、ヨルンヴェルナは颯爽と部屋をあとにした。
――…………あれ? もしかして、気を遣ってくれた? いやでも、悩んでますって顔に書いてある訳でもあるまいし……。
あのヨルンヴェルナにかぎってあり得ないだろうと結論付け、はたと我に返った。
彼がいなくなるだけで、急に部屋が静かになる。クローシェザードと二人きりだ。
「……先生…………」
「どうした、情けない声を出して。技術披露大会では堂々と私を『クローシェ様』呼ばわりした癖に」
「そっ、それを今さら言いますかっ?」
シェイラは一気に真っ赤になった。あの時は、勢いだけで親しげに呼んでしまったのだ。あとになって死ぬほど恥ずかしくなって、ベッドの上を一人転げ回ったりした。
後日緊張しながらも会ってみたが、特に彼からの反応はなかったので油断しきっていた。むしろ無反応だったことにほんの少しだけモヤモヤしていた、昨日までの自分を呪いたい。
クローシェザードは書類を見つめたまま、底意地悪く片眉を上げた。
「時間を置いた方が衝撃も多かろうと思ってな」
「何て陰湿な作戦ですか……」
ガックリ項垂れると、彼はますます楽しそうに瞳をきらめかせた。僅かな変化だがシェイラには分かる。教師としてかなり問題のある反応だ。
「――――六年生がいなくなるのが寂しくて、困ってますっ」
恥ずかしさより腹立たしさが先に立ち、シェイラは鬱憤をぶちまけるように口を開いた。
「セイリュウにも寮長にも会えなくなっちゃうの、嫌です。置いていかれるみたいで、不安とか焦りもあって。ただでさえ、みんなが躓かないようなところで足踏みしてるのに。いまだに正規の型は体に馴染まないし」
早くクローシェザードを安心させたいのに、気持ちとは裏腹に遅々として成長しない。そんな自分自身に苛立ってしまう。
「色々、もう頭の中がごちゃごちゃで。どうしたらいいのか、分かんないんです……」
悔しさをにじませて俯くシェイラに、クローシェザードは怪訝顔を上げた。
「君は、何を言っている?正規の型ならば、とうに物にしているではないか」
「…………へ?」
シェイラは一拍ののち、間抜けな声を上げてしまった。彼は気にしたふうもなく滔々と続ける。
「御前試合での君の動きは素晴らしかった。正規の型通りに動きつつ、速度は以前と同じ。踏み込みも速く剣筋も鋭い。あれを物にしていると言わず、何と言うのだ」
「え、だって…………え?」
「あれでまだ遅いと感じているのなら、まだ成長の余地があるということか。ふむ、実に興味深い」
勝手に話を進めるクローシェザードを、止めることができない。というより、酷く混乱していた。
自分は以前の速さを、既に取り戻している?
そんなこと考えもしなかった。だって、まだ手足の動きを持て余しているのだ。これ以上はあると、感覚で分かる。
「わ、私……」
全身を緊張させていた苦悩があっけなく消え去り、シェイラは呆然としてしまう。
気がゆるむと同時に、ホロリと涙が転がり落ちた。一度流れると塞き止めることができなくて、あとからあとから溢れてくる。そして、頬を拭いながらようやく気付いた。
――そうか、私……泣きたかったんだ…………。
泣き場所を探していただけなのだと、今なら分かる。格好悪い愚痴や弱音を、許してくれる場所を求めて。
自然とここに足が向いたのは、クローシェザードには号泣する姿を既に見られているからだろう。鼻水を垂らしても、服がシワになるほどしがみついても、彼ならば何も言わず背中を撫でてくれるから。
ぎこちなくも慎重にあやしてくれたことを思い出す。まるで生まれたての雛鳥になったような、何もかも包み込まれているような、心地よい手。
どこまでも甘えて、手を伸ばしそうになっている自分が怖い。顔を覆って衝動を堪えていると、優しい温もりを感じた。
「先生…………」
クローシェザードはやはり慣れない動きで、そっとシェイラを抱き締める。けれどあやすように髪を撫でる手付きは、以前よりずっと滑らかになっていた。犬の毛並みを楽しむような撫で方であることが、若干気になるが。
「君は存外、泣き虫だな」
彼の口振りは本当に小さな子どもを扱うようで、シェイラは唇を尖らせた。
「……そんなこと、初めて言われました」
そういえば、昔ならどんなに悲しくても人前で泣こうとは思わなかった。
傷付いていることを誰にも知られたくなくて、家族にすら涙を隠していたのに。なぜ、クローシェザードの前では泣いてしまうのだろう。
――私が、弱くなったのかな……?
礼を告げて、すぐに離れるべきなのだろう。
でも、クローシェザードの腕の中はあまりに居心地がいい。どうにも抜け出せない、抗いがたい何かがあった。
だから今は、少しだけ。
沢山泣いてスッキリしたら、また進もう。
大切な仲間達に置いていかれないよう、いつまでも共にあれるよう。
元気を取り戻したら、また歩き出せるから。