秋の足音
シェイラを苦しめた夏の暑さは次第に和らぎ、最近とみに風の冷たさが増していた。澄んだ秋空を、つがいのトンボが気持ちよさそうに泳いでいる。
秋の一の月になり、学院に来てから半年が経とうとしていた。
月の日。シェイラはフェリクスの屋敷にやって来た。いつも通りの報告会だ。
迎えのルルと共に屋敷に入ると、リチャードが迎えてくれた。
「お久しぶりでございます、お嬢様」
「大げさだなぁリチャードさん。たかだか二週間くらいだよ」
先週は薬店勤務だったため遊びに来れなかったけれど、久しぶりというほどの間は空いていない。
笑い飛ばすシェイラに、リチャードはしかつめらしい表情を作った。
「とんでもございません。この二週間、お嬢様の訪れを一日千秋の思いで待ちわびていたのですよ」
「え?」
よく見るとリチャードは心なしやつれているし、失礼ながら毛髪の量も以前より乏しい気がする。決して明言はしないものの、彼の苦労がひしひしと感じ取れた。
「えっと…………フェリクス、だね」
フェリクスには、妹を構えない時は周囲に絡んで遊ぶ、というはた迷惑な習性がある。そういえば研修の時も、堪えがきかず面会に来たことがあった。
壮年の執事は、一体どれほどの無理難題に晒され続けたのか。兄に代わって、シェイラは誠心誠意頭を下げた。「お嬢様が私などに頭を下げてはなりませんよ」と笑って許してくれたリチャードは、まさに使用人の鑑だと思う。
そのまま、フェリクスがいる執務室へ案内された。ルルはお茶の用意のため一度離れる。
「フェリクス、お邪魔します」
窓際の執務机では、秋の陽光を浴びるフェリクスが書類を作成していた。銀髪は透き通って輝き、書類に向かう面差しは繊細な細工のように美しい。
声を掛けることさえ躊躇われるほどの青年が、灰色の瞳にシェイラを捉えた瞬間、甘く笑み崩れた。
「――――あぁ、シェイラ」
立ち上がった彼は、直ぐ様距離を詰めた。勢いのまま胸に抱き込まれ、シェイラは息が苦しくなる。
「ちょっと、フェリクス?」
「ずっとお前に会いたかった。本当に、本物のシェイラだよね?」
「本物に決まってるでしょ、何言ってるの?」
腕を突っ張って彼から逃れると、フェリクスは切なげに揺れる瞳でシェイラを見つめていた。
「会いたい気持ちが高まって、僕は最近シェイラのことばかり考えていたんだよ。そうすると不思議なもので、段々お前の幻覚まで見るようになってしまってね……」
「――――で、書類仕事が手に付かなかったと?」
チラリと見つめる先には、フェリクスが取り組んでいたと思われる書類。そこには、やたらと写実的なシェイラの似顔絵が描かれていた。美男子オーラを撒き散らしながら、一体何をやっているのか。
「そんな言い訳して、どうせお仕事サボりたかったんでしょ?リチャードさんを困らせるためだけに」
「フフ。怒るシェイラも何て愛らしいんだろう」
「適当に誤魔化してもムダだよ」
先ほどまでとはうって代わって、今度はシェイラが兄に詰め寄る。
フェリクスはうやむやにしようにも、メロメロになっているためいつもの手腕を発揮できない。追い詰められたところで、助け船を出すようにルルがやって来た。
「お嬢様、いつまでも立っていないで、おくつろぎになってはいかがでしょう。お茶の用意も整いましたよ」
「でも、ルル」
「いいのですよ、お嬢様。そのお心遣いだけで私は十分幸せでございます」
一番被害を被ったであろうリチャードにまで取りなされれば、矛を収めない訳にはいかない。シェイラは唇を尖らせて引き下がった。
「もう、みんなフェリクスに優しすぎ」
「みんなに優しくしてもらった分を、僕はお前に還元しているんだよ。世の中とはよくできているね」
兄のきらきらしい笑顔を半眼で見つめながら、シェイラは促されるまま席についた。
月の日恒例のお茶会が始まった。
おやつのメインはレモンが練り込まれたチーズケーキ。夏の名残を感じる一品だ。
レモンの爽やかな苦味とチーズのまろやかな酸味を幸せな気分で味わっていると、フェリクスの手が伸びてきた。
「シェイラ、髪が伸びたね。もう少しで結べるのではない?」
春先に切ってから何度かルルに整えてもらっているが、短くはしていない。おかげでシェイラの赤毛は、首の半ばくらいまで伸びていた。
「結べそうだけど、私には難しいんだよね。昔から、適当にくくるだけだったから」
「今のままでも十分可愛らしいよ。とても女の子らしくなったね」
兄の繊細な指先が毛先をくすぐっていく。灰色の瞳が満足げに細められた。
「やっぱり、とても綺麗だ。伸ばしてくれているのは、僕のため?」
「え?あぁ、うん……」
口をモゴモゴ動かしながら、シェイラは視線を盛大に泳がせる。正直、兄に伸ばせと言われたことなどすっかり忘れていた。
綺麗に笑うフェリクスの瞳の奥に、拭いきれない不穏が宿る。ぎゅうっと力任せに抱き寄せられ、シェイラは紅茶をこぼしそうになった。
「…………嫌だなぁ。兄離れの気配がする」
フェリクスの両腕が耳を塞いでいるせいで、彼の声は酷く聞き取りづらい。
「へ?何か言った?」
「いや、何でも。……女の子らしくなったのは、髪が伸びたからというだけではないのだね」
「だからぁ、聞こえないってば」
なぜだかフェリクスの腕が、寂しくてすがり付く子どものように思えた。シェイラは不満を口にしながらも、しばらく兄の胸に身を任せるのだった。
◇ ◆ ◇
花の日。明日はいよいよ技術披露大会というのに、シェイラはヴィルフレヒトと共に薬草摘みに勤しんでいた。
薬草園に秋の風が吹き渡る。収穫を待つリンドウやキキョウ、ワレモコウの花が静かに揺れた。秋は、こっくりと深い色合いの花が多い気がする。
「これらは根茎に薬効があるので、丸ごと収穫しましょう。殿下は、リンドウから作られるリュウタンがどれほど苦いか、試したことはありますか?」
「いえ、一度も。これだけ美しい花なのに苦いのですか?」
「その苦味が薬効に関わってるんです。あまりの苦味に唾液や胃液、胆汁の分泌が促され、食欲不振などに効くんですよ」
ヴィルフレヒトは、手の中のリンドウを見て渋い顔をした。苦味を想像したのかもしれない。可憐な花を咲かせるセンブリは、これよりもっと苦いと教えたら、彼はどんな顔をするだろうか。
思わずクスリと笑ってしまったシェイラに、ヴィルフレヒトは目敏く気付いた。
「シェイラさんは、本当に薬草が好きなのですね。楽しいという感情が伝わってきて、こちらまで楽しくなります」
本当は彼のことを考えて笑っていたのだが、言わないくらいの分別はある。それよりシェイラには気になることがあった。
「殿下、まだたまに僕のこと『さん』付けで呼びますよね」
困った顔で笑うと、ヴィルフレヒト自身は気付いていなかったようで慌てて謝った。
「すいませんっ。…………ですが、僕にはどうしても、あなたが女性にしか見えなくて、」
「男にしか見えないよりは嬉しいですけどね」
ゼクスから『漢の中の漢』認定を受けているシェイラとしては、気持ちが救われるくらいだ。ヨルンヴェルナからの『変人』認定といい、うら若き乙女には不名誉な認定ばかり欲しいままにしている現状に、乾いた笑いしか出ない。
シェイラは気を取り直してヴィルフレヒトに向き合った。
「じゃあ、こうしません?僕達は、友達です。友達なら、男でも女でも呼び捨てにしたっておかしくないでしょう?僕だって、これだけ仲よくなれたのに他人行儀にされるのは、寂しいです」
笑顔で提案すると、彼はハッと顔を強ばらせて頷いた。
「わ、分かりました。友達でしたら、呼び捨てくらい当たり前ですよね」
「そうですよ。じゃあ、練習してみましょう」
ヴィルフレヒトは上目遣いでシェイラを見つめ、何度か躊躇いながらも名前を呼んだ。
「……シェ、シェイラ、」
「はい」
「…………シェイラ」
「はい」
「あ、あの、こんなふうに見つめ合って呼ぶのは、恥ずかしいです。……友達って、本当にこんな感じでしたっけ?」
赤い頬で恥じらうヴィルフレヒトを、シェイラはニマニマしながら見守った。上目遣いからの連続攻撃にすっかり頭がヤられている。
彼は下心満載の視線から逃れるように、収穫作業に戻ってしまった。
「薬草についての話ならば、あまり緊張しないのですけれど」
「殿下も着々と薬草オタクに近付いてますね」
「それは、果たして喜んでいいのでしょうか……」
「僕は、殿下の植物への愛情が伝わってきて、とても嬉しいですよ」
シェイラが心からの笑顔で応えると、ヴィルフレヒトもはにかむように笑った。澄んだ碧眼は、愛しげにリンドウの花を見つめている。
「……一から育て、こうして元気に成長した姿を見ると、嬉しくなるんです。こんな、何も持たない僕の手でも、何かを生み出すことができるのだと」
彼は微笑んでいるのに、台詞は酷く寂しく響いた。シェイラは思わず収穫の手を止めた。
「何も持たないって…………殿下をそんなふうに言う人、いないと思いますけど」
ヴィルフレヒトの笑みが、消え入りそうなほど儚いものに変わった。瞳の奥の僅かな皮肉がありありと窺えて、シェイラは戸惑う。彼の自嘲めいた表情など初めて見る。
「――――僕は、僕の弱さが嫌いなのです……」
その笑みはとても綺麗で――――――――とても悲しかった。