ヨルンヴェルナの研究室
翌日の放課後、シェイラは約束通りヨルンヴェルナの研究室に向かっていた。
学術塔に出入りするのは初めてのことなので、いささか緊張している。
学術塔は、職員棟より更に奥にあった。学院の敷地の端と言ってもいい。ある魔術師が大爆発を起こしたことが原因で北端に隔離されているという噂もあるが、真偽の程は定かではなかった。
広いエントランスの螺旋階段を上る。上階まで歩くのは骨が折れそうな、どこまでも続く階段。学術塔に籠りきりの魔術師が多いと聞くけれど、単に昇降が面倒なだけではないだろうか。
ギリギリ息が上がらずに済む五階に、ヨルンヴェルナの研究室はあった。木造の扉を叩く。
「失礼します」
「――――今少し手が離せないから、勝手に入っておいで。鍵は開いているから」
中から、ヨルンヴェルナのくぐもった声が応える。本当に開ける気はないらしく、人の気配が近付いてくることはない。少々躊躇ったが、仕方がないので言われた通り扉を開いた。
「では、本当に失礼します」
恐るおそる踏み込むと、ヨルンヴェルナは机に向かって何かを書き付けていた。話し掛けては邪魔になると思ったシェイラは、気配をひそめて室内をぐるりと見回す。
想像していたよりずっと広々とした空間に、まず驚かされる。隣室には仮眠用の寝台があるし、トイレも簡易式のシャワーも完備されており、職員棟とは待遇が格段に違う。
しかしヨルンヴェルナが物臭なのか、どの扉も全開状態というのはどうなのか。こちらには彼の私生活を垣間見る気など一切ないというのに。
しばらく待っていると、ヨルンヴェルナはようやくペンを置いた。
「待たせてしまったね。ようこそシェイラ君、僕の研究室へ。君とこの空間を共有できる日を、一日千秋の思いで待ちわびていたよ」
「そりゃ光栄なことで。でもさっさと帰りたいので無意味な前口上はやめませんか」
近付いてくる彼から逃げるように、部屋の隅へと移動する。シェイラの素っ気ない反応を見て、とても寂しそうに眉を下げるから性質が悪い。
「つれないことだね。寝室だってきちんと調えておいたのに」
「え。この会話続く感じですか?ていうか明らかに寝起きのままでシーツもグシャグシャですし」
「激しく寝乱れた、ということだろう?」
「同意を求められても困ります」
呆れながらも、もう一度部屋を見回した。
「……こっちがこんなに豪華なら、そりゃ誰も職員棟なんて利用しないでしょうね」
騎士の育成のために在籍しているクローシェザードでは、学術塔に部屋を与えられない。あの簡素な職員棟に今もいるだろう彼を、少し不憫に思った。
シェイラの独り言みたいな呟きに、何かの計算を始めていたヨルンヴェルナが顔を上げずに答えた。
「あぁ、これは僕が勝手に改造したんだよ」
「え」
「研究に集中していると、生理的な現象すら面倒になるよね」
「あぁ…………」
没頭するあまり、この部屋を一歩も出ないヨルンヴェルナが容易に想像ついた。不思議な道具が乱雑に置かれた台には、よく見ると非常食代わりのクッキーなどがある。
「こんな改造、よく許されましたね。両隣の方々に迷惑でしょう」
「元々、ここの両隣は空室だったのだよ。なぜだかね」
「…………」
なぜかって、理由など決まっている。彼とてあえて素知らぬふりを決め込んでいるはずなので、シェイラは賢明にも口を噤んだ。
「とはいえ、改造の許可はなかなか下りなかったのだけれどね。その当時研究室で爆発を起こしてしまって、両隣の壁が綺麗に吹き飛んでしまったんだよ。それを境に学院側からもあっさり許可が下りたんだ。今思い出しても、僕にとって都合がよすぎる展開だったなぁ」
「…………それはまた、素晴らしい脅しですね」
「脅し?何のことかな?」
許可が下りるまで実力行使を続けるぞ。
爆発を受けて、学院側がヨルンヴェルナの笑みに感じた圧力は、そんなところだろう。きっと彼はまた爆発を起こす。許可が下りるまで何度でも。むしろ、壁が吹き飛ぶ程度の威力で収めている内に条件を飲んだ方が身のためと、直ぐ様意見を翻したに違いない。
眉唾物だと思っていた噂が現実味を帯びてきたところで、ヨルンヴェルナが仕切り直すように笑みを深めた。
「まぁ、時間を無駄にする暇はないから雑談はこれくらいで。シェイラ君、早速こちらへ」
「……はい」
いちいち話を長引かせていたのはヨルンヴェルナの方だ、という言葉は呑み込み、彼が座る作業台へと近付く。既に馴染んでいる魔力封じの腕輪を、シェイラはするりと引き抜いた。
「クローシェザードがいなくても、外せるようになったのだね」
「研修から帰ってすぐに改良してくれたんですよ」
改良を施した腕輪は、シェイラの意思によっても解除ができるようになっていた。その代わり解除の際はクローシェザードに居場所が分かるようになっているため、不用意には外せない仕組みだ。
今日のことは事前に話してあるため、解除をしても彼が駆け付けることはないだろう。
「それでは。――――風の精霊よ」
室内でも害のない、風の精霊術を選んだ。
突風を起こしたい訳ではないので威力を調整する。シェイラが描くイメージに沿うように、春風のように柔らかな微風が吹いた。一瞬後に、ヨルンヴェルナの青灰色の髪が舞う。
「――――これが、精霊術」
彼の瞳がきらきらと好奇心で輝く。嬉しい反応に、シェイラは少し調子にのった。
「他の術も、見せましょうか」
手近にあった空のティーカップに水を生み出し、火の精霊の力を借りてお湯に変える。村でできない人はいないくらい当たり前の力なのに、ヨルンヴェルナはいちいち新鮮な反応を見せる。呪文の短さに驚いたり、お湯の温度を確かめたり。まるで大きな子どもだ。
「素晴らしい。素晴らしいよ、シェイラ君」
感情が高ぶったのか、ヨルンヴェルナがぐっと腰を引き寄せた。小動物でも可愛がるみたいに抱き込められてしまったが、シェイラは焦らなかった。
バチッ
突然電撃が走り、ヨルンヴェルナは弾かれるように体を引いた。感動冷めやらぬ精神状態では何が起こったか分からないようで、珍しく呆然としている。
「……何だい、それは」
シェイラはニンマリと笑みを作った。
「精霊術がバレてしまったことを相談したら、クローシェザード先生に持たされたんですよ。『ヨルンヴェルナ避け』だそうです」
「…………酷いなぁ。まるで危険人物扱いだ」
「まるで、ではなく事実そうなんです」
「思っていても、そんなにハッキリ言う人間はとても稀だよ。だからこそ君は面白いのだけれどね」
ヨルンヴェルナは髪を掻き上げてシェイラに向き直った。
「とにかく、披露してくれてありがとう。精霊の可視化が進んでいないから何とももどかしいけれど、これが精霊術なのだね。見た目には魔法とほとんど変わらないようだ」
研究者としての顔を取り戻した彼の言葉に、シェイラは兄が言っていたことを思い出した。
「ある人が、魔術より精霊術の方が使い勝手がいいと言ってました。魔術は人によって得手不得手があるし、生まれもっての魔力量にはどうしても限界がある。でも、精霊術は精霊の助けを借りて行うから、術者の力量に依るところがない、とか」
フェリクスが精霊術を使えるようになるのは、シェイラより早かった。けれど最近聞いたところによると、当時は魔術を行使していただけだったらしい。祈りの習慣を取り入れたのが六歳だったので、本当に精霊術を使えるようになったのはだいぶ後年だったとか。
「なるほど……。今度ぜひ、その人ともお近づきになりたいなぁ」
その実現は難しいだろうと思った。フェリクスはシェイラとの関係自体を隠したいようなので、安易に紹介もできない。
ヨルンヴェルナは、気を取り直したように質問を重ねる。
「君は、どの属性も扱えるの?」
「光と闇だけは難しいです。精霊自体の数が少ないみたいで」
「なるほど。だから治癒は人に頼っていたのか」
「……そんなところまで観察しないでくださいよ、気持ち悪い」
クローシェザードやレイディルーンに治癒術をかけてもらっている場面でも見られていたのか。正直怖すぎる。
「精霊術の原理というのも実に面白い。我々は自ら大気中の魔素を集めているけれど、君は精霊に補助してもらっている。魔力を封じる腕輪のこともあるし、そこから先は僕らと同じような出力が可能なのだろうね」
「? どういうことですか?」
突然難しいことを言い出すから、頭がついていかない。シェイラが首を傾げると、ヨルンヴェルナは理知的に目を細めた。
「その腕輪の機構は、集めた魔素を魔力に変換させないところにある。魔力を封じる腕輪が君に有効ということは、精霊術での魔素を変換する方法は、魔術と同一である可能性が高いということさ」
「あー……、なるほど?」
よく分かっていないまま頷くも、ヨルンヴェルナは気にしたふうもなかった。
「うん、まぁ、君は理解できなくてもいいよ。その代わり、色々調べさせてくれれば十分だ」
「理解できない代わりに身を差し出せって、理不尽すぎません?」
幾らシェイラが間抜けでも、それが悪徳金融並に暴利な条件だということくらいは分かる。
ヨルンヴェルナはやけに輝かしい笑顔になった。
「ところで君は、冬期には実家に帰るのかな?学院に残ることも可能だけれど」
「あ、話反らした」
「色々な事情で帰省できない生徒のために、寮に残る選択肢も用意されているんだ。三ヶ月みっちり頑張れば、君の学力は同級生と遜色のないものになっているかもしれないね」
「――――え、本当ですか?」
あからさまな話題替えだと分かっているのに、シェイラはつい乗ってしまった。まんまと引っ掛かった獲物に、ヨルンヴェルナは笑みを深める。
「もし君が残ると言うのなら、勉強を見てあげてもいいよ。食事面に関しては手配が必要だけれど、それも僕が何とかしよう」
破格の待遇に、乗り出していた身を引いてしまった。ここまでくると話がうますぎて逆に胡散臭い。
「……………………つまり、僕にどうしろと?」
「君の手が空いている時、ほんの少し実験を手伝ってほしいだけだよ」
「それって、つまり人体実験…………」
「嫌だなぁ、人聞きの悪い言い方をして」
ヨルンヴェルナはあくまでにこやかだが、断る道は用意されていないように思えた。
恥ずかしい言葉を操って他者をからかう彼も悩ましいが、研究者としての飽くなき探求心も実に扱いづらい。
逃げられそうもない情熱に圧倒され、シェイラは疲れきったため息をついた。