密会
シェイラが女であることを、元々知っていた。
ヴィルフレヒトはそう言ったのだろうか。
にわかには信じられなくて、シェイラは呆然と目を見開いた。彼は静かに続ける。
「あなたが入学する時、あらかじめ連絡を受けていたのです。…………フェリクスから」
「――――――――フェ、フェリクス?」
意外な人物の名前に開いた口が塞がらない。つい敬語も忘れてしまった。
ヴィルフレヒトは、困ったような微笑を浮かべた。儚げな雰囲気の美少女にしか見えなくて、シェイラは状況も忘れてうっとりしそうになってしまった。彼の碧眼が真っ直ぐ向けられたことで、すぐに我に返ったが。
「彼は、『あなたに万一のことがあれば、力になってあげてほしい』と言っていました」
「そ、それは……万が一、性別を疑われるようなことがあったら、ということですか?」
「危険があれば、という意味で言っていたと思いますが、一番はそれでしょうか。でなければ、性別を明かす理由がありませんから」
「――――――――」
以前、フェリクスが言っていた。『沢山の情報源がある』と。もしかしたらヴィルフレヒトも、彼の大切な情報源の一つだったということか。第二王子殿下が情報源。何だか途方もない話だ。
大切な兄が、不敬罪に問われないか。今度はそんな心配が沸き上がってきた。
「えっとあの、フェリクスがすいません。失礼なことをしてしまったかもしれませんが、あの人も決して悪気がある訳ではなく……」
混乱で敬語があやふやになったことに焦りは増して、頭の中がますます収拾つかない事態に陥っている。自分が何を喋っているのかさえ分からない。
頭を抱えて俯くシェイラをなだめるように、ヴィルフレヒトが優しく微笑んだ。
「あの、フェリクスのことなら大丈夫です。彼とは友人のようなものなので。それにあなたも、あまり堅苦しくせずともいいですよ」
「いいえ、そのような訳には。貴族や王族の方々に礼を尽くすのは、当然のことですから」
失敗続きの聞き苦しい敬語を咎めない配慮はありがたいが、だからといって彼の言葉を額面通りに受け取ってはいけないことくらい、シェイラにだって分かる。
ひれ伏すように深々と頭を下げると、彼が僅かに身を乗り出す気配がした。
「……あなたがヨルンヴェルナ先生と話しているところを、見掛けたことがあります。失礼ですが、あまり敬意を払っているようには見えませんでしたが?」
「それは、実際敬意を払っていないからでございましょう」
きっぱり失礼なことを言い切ると、前方からため息が漏れ聞こえた。
「そのように言い合える関係が、とても羨ましいのです。…………僕にも、そうしてほしい」
思いもよらない言葉に、シェイラは思わず顔を上げた。ヴィルフレヒトは唇をすぼめ、恥ずかしそうに俯いていた。頬が紅色に染まっている。
「あなたのことは、何度か遠くから拝見していました。あなたの周りはいつも賑やかで、笑いが絶えない。僕は、その輪に入ってみたかった」
美少女にしか見えないヴィルフレヒトがこぼした、小さな本音。拗ねた表情の愛らしさに目が潰れそうだった。
――この人は私を殺す気なのかもしれない。
胸を抑えて悶えるシェイラを、不思議そうに見下ろす姿さえ小リスのように可愛いらしい。好みど真ん中の綺麗で可愛い人のお願いを、誰が聞かずにいられようか。
一線を引いて接せねばならないという理性的な考えが、脆くも崩壊した。
「……………………では、殿下。二人きりの時は、一人の学友として接することを、お許しくださいますでしょうか」
ヴィルフレヒトが、ぴょこりと顔を上げた。大きな瞳をこぼれんばかりに見開いていた彼は、やがてほどけるように笑った。
「――――はい。許します」
頬が上気し、花びらのような唇から白い歯が覗く。知的で控えめな印象の彼が不意にみせるあどけなさ。この落差に屈しない者はいないだろう。
ぐったりとカツラの髪を耳に掛けながら、シェイラは気分を変えるために息をついた。
「……ありがとうございます。正直、敬語って苦手なんで、助かります」
「フフ。僕も、堅苦しいのはあまり好きではないんです。だからこうして、たまに薬草を売りに来て息抜きをしたりして」
「道理で、その格好も慣れたカンジですもんね」
シェイラが頷いて返すと、ヴィルフレヒトは途端に恥じ入ったように俯いた。
「……これは、目立つ訳にもいかないので、仕方なく変装しているだけです。シーナというのも亡くなった母、シーナルナマリアから何となく付けただけで、決して好んでしている訳ではありませんから」
「そうなんですか……」
嫌々というのは何だか勿体ない気がする。これだけ似合っているのだから、ドレス姿など色んな格好を見てみたいと思っているのに。
彼の母親の名前は、月の女神⋅セイルナマリアが由来しているに違いない。星の神にちなんだヴィルフレヒトの母親らしい名だ。
「ところで殿下。あの薬草、もしかして…………山で栽培しているものじゃないですか?」
なぜ知っている、と問いたげに目を瞬かせるヴィルフレヒトの表情に、シェイラは確信を深めた。
「実は、以前薬草を採取しようと山に入ったことがあるんです。そこで、あの薬草畑を見つけて。その時バジルを少しだけ、拝借してしまいました」
シェイラの言葉を受けて、ヴィルフレヒトの瞳に理解が広がっていく。
「――――あぁ。あのカタクリを置いていったのは、あなただったのですね」
無断で収穫することへの詫びにもならないが、せめてもと置いていったカタクリに気付いてくれていたらしい。シェイラは改めて謝罪を口にした。
「殿下の畑とは知らず、重ね重ね申し訳ございませんでした」
「やめてください、堅苦しくしないでほしいと言ったはずですよ」
シェイラがおずおず顔を上げると、彼は嬉しそうに微笑んだ。
「活用してくださるのなら、その方が嬉しいのです。植物を育てるのが趣味というだけで、僕には生かす知識もありませんから」
「えぇ?あの広い畑を、殿下がお一人で管理してるんですか?」
山の起伏が少ない斜面を切り開いており、結構広大な規模だった覚えがある。
ヴィルフレヒトは、疲れを欠片も見せず頷いた。
「はい。元々、この学院で司書をしている方から譲り受けたものなのです。ここ何年かは腰が痛むようで、畑仕事に難儀していて。手伝っている内に、すっかりはまってしまいました」
「あ、多分図書館で会ったことありますよ。へぇ。あの方が」
シェイラは、初老の穏やかな紳士の顔を思い出した。彼が薬草を栽培していたなんて驚きだ。
「今は多くのハーブが最盛期ですよ。特にカミツレなんて結構な量になってしまって、収穫がとても忙しいです」
「カミツレを沢山育てられるなんてスゴいですね。丈夫だけど、土壌には結構うるさいですから」
忙しいと言いながら、ヴィルフレヒトはとても楽しそうな笑顔だった。本当に育てるのが好きで、日々充実しているのだろう。
シェイラも、久しぶりにまた薬草採取をしたくなった。そろそろ山に自生しているウツボグサやオミナエシが花の盛りを迎えている頃だろう。
「そういえば、殿下の畑ではアマチャも栽培してますよね?」
以前の山歩きで見かけたことを思い出して問い掛ける。ヴィルフレヒトは、目を瞬かせながら首を傾げた。
「アマチャ、ですか?」
「紫陽花に似ているものです」
「あぁ。あれはアマチャと言うのですね。ずっと紫陽花だと思っていました」
見た目は普通の紫陽花と変わらないため、分からなくても無理はなかった。司書から管理を任された際、育て方以外は詳しく教わらなかったのかもしれない。
「アマチャは、山紫陽花の変種と言われています。洗った葉を日干ししてから、揉んだり蒸したり幾つかの行程を行うと、薬草茶の材料になるんですよ。ほんのり甘いんです」
薬草茶を甘く飲みやすくする材料の一つだったため、シェイラには馴染みが深かった。村中で協力し合ってお茶を作っていたことを思い出し、自然と頬がほころぶ。
村での思い出を話して聞かせると、ヴィルフレヒトもキラキラと瞳を輝かせた。
「うわぁ、何だかとても楽しそうですね。それに、あの葉が甘くなるなんて信じられません。薬草って奥が深いのですね」
相手が一国の王子だと言うことも忘れ、つい薬草談義で盛り上がってしまった。思いの外楽しい時間だったのは、互いに植物好きという共通点があったからだろう。
シェイラとヴィルフレヒトは、にっこりと微笑み合った。
「今度薬草園に、ぜひ遊びに来てください」
「はい。その時は、カミツレの収穫を手伝わせてくださいね」
二人の会話は、エイミーが申し訳なさそうに保管庫へ顔を出すまで、絶えることがなかった。