約束の日
月の日。いよいよ約束の日がやって来た。
薬店の仕事は午後からなので、午前中の空いた時間は鍛練にあてていた。コディ達に触発されて、体を動かしていないとどうにも落ち着かなかったのだ。
軽い柔軟のあとに素振りを始める。空を裂く音が耳に心地いい。
――焦る必要はない。でも、コディ達とは、ずっと一緒に歩いていきたいから。
切磋琢磨し合える仲間がいるというのは、心強いものだ。こうして互いを高め合える関係が築けたことはシェイラにとって幸運だった。おかげで鍛練も辛くない。
暑さと運動で絞れるほどの汗を掻いた頃、シェイラはようやく素振りをやめた。袖で適当に汗を拭っていると、頭を覆うように何かが降ってきた。
「わっ」
遅れて、ふわりと石鹸の香りが鼻先をくすぐる。それは、柔らかなタオルだった。
シェイラが来た時、稽古場には誰もいなかったはずだ。集中していたため人の気配に気付かなかったらしい。
頭からタオルを外すと、少し離れた位置に呆れ顔のリグレスが立っていた。
「リグレス先輩?」
「全く、いつまで素振りをしているつもりだ?しっかり休憩を挟まなければ、また倒れるぞ」
ピンクブロンドの巻き毛を揺らしながら歩み寄るリグレスとタオルとを交互に見比べながら、シェイラは難解に眉を寄せた。
「……えっと。タオルを投げることに、何か貴族的な意味があるんでしょうか?例えば、決闘とか」
「何?」
二人して首を傾げていると、クスクス笑う声が聞こえてきた。声のした方を振り返ると、稽古場に歩いてくるセイリュウの姿があった。
「あれ?セイリュウ」
彼の手には模造刀があるので、少し体を動かしに来たのだろう。苦笑するセイリュウはリグレスに視線を送った。
「タオルは、普通に汗を拭えばいいだけだ。リグレスは君の心配をしているんだろう。昨日倒れたばかりなのに、そんなに動いて大丈夫なのか?」
頭をくしゃりと撫でられ、シェイラはあたふたしてしまった。汗で髪の毛が湿っていて、何だか恥ずかしい。
視線を向けられたリグレスも、彼の言葉に似たような反応をしていた。
「う、うるさいよ、セイリュウ⋅ミフネ」
「失礼いたしました。けれど、その真心が正しく伝わらないのは、勿体ないことだと思いました」
「真心……」
シェイラはタオルを見下ろし、もう一度リグレスを見る。苛立たしげな横顔を見せているが、頬骨の辺りがうっすらと赤く染まっていた。
――もしかして、照れてる?
ということは、セイリュウの言葉が図星だったのか。本当にシェイラの体調を心配してくれた?
穴が開くほどじっと見つめていたからか、リグレスは何も言っていないのに何やら言い訳を始めた。
「勘違いするなよ!?この僕が、わざわざ平民なんかの心配をするはずないだろう!」
「あ、ですよね。すいません、ちょっと期待しちゃいました」
「き、期待っ……!?」
リグレスが険しい顔を真っ赤にさせた。また何か失言をしてしまったらしい。
けれど、とシェイラは、手の中のタオルを見下ろした。
心配は勘違いだったとしても、このタオルは、正真正銘リグレスの優しさだ。セイリュウにも確認しているから間違いない。
「それでもタオルを貸してくれて嬉しいです。スゴくフワフワで、何だか使うのが勿体ないくらいですけど」
笑って、そっと頬を拭った。肌触りがよくてとても心地いい。
「ありがとうございます。ちゃんと洗ってお返ししますね」
リグレスは、再びそっぽを向いてしまった。
――私のこと嫌ってるはずなのに、お見舞いにも来てくれたし。もしかしたら、少しずつだけど仲よくなれてる?
一日中愛でていられるほど可愛らしいリグレスと親しくなれたら、毎日はきっと華やぐだろう。筋骨たくましい男だらけの学院において癒しになるに違いない。
素敵な想像をしていたら、シェイラは無意識にデレデレにやにやしていたらしい。リグレスが不審げに顔をしかめた。
「……シェイラ⋅ダナウ、本当に大丈夫なのか?頭を打ってますますおかしくなっているんじゃないか?お前は分かりやすいようで意外と表情が読めないから、どこか悪くても察してやれていないのではと不安になる」
「ますますって、元からおかしいみたいな言い方されても。心配されてるのか悪口言われてるのか微妙な気持ちになります」
「だから、心配などしていない!」
「ですよね。…………あれ、じゃあ完全にただの悪口なのか」
絶対心配してくれていると思ったのに、勘が外れた。
しかしこれだけ本音を隠さず生きているのに、分かりづらいと言われるなんて思わなかった。デナン村の幼馴染み達が聞いたら大爆笑するに違いない。
苦い笑みを浮かべていると、面白そうに成り行きを見守っているセイリュウが目に映った。
「……セイリュウは、あの時僕が焦ってるって、よく分かりましたね」
リグレスの言葉を受けると、強くなりたいという焦りを見抜かれたのは意外な気がした。コディとゼクスのように、毎日顔を合わせている訳ではない。
セイリュウが、穏やかにシェイラを見下ろした。温かみのある漆黒の瞳が優しく細められる。
「俺は、戦っている時の君が好きだ。目の前の敵を倒すことしか考えていない、ひたすら真っ直ぐな眼差しを綺麗だと思う。だがあの時の君は、酷く息苦しそうに戦っていた。だから気付けたというだけのことだ」
シェイラもリグレスも、揃って目を丸くした。愛の告白もかくやというほどの直接的な表現だ。
「……セイリュウって、意外と情熱的な感じなんですね。男の僕でもついドキッとしちゃいましたよ」
感心しながら頷くと、セイリュウはなぜか慌てたようにむせていた。
◇ ◆ ◇
午後になると、シェイラは薬店でエイミーの補佐をしつつ忙しく動き回っていた。
客が引け、一心地ついていた頃。以前と全く同じ時間になると、ついに待ち人がやって来た。
「――――いらっしゃいませ、シーナ様」
豪奢に輝く金髪と、吸い込まれそうに澄んだ碧眼。簡素な町娘のような服装に身を包んだ、絶世の美少女――――もとい、美少年。学院の先輩にしてシュタイツ王国の第二王子でもある、ヴィルフレヒト⋅フォン⋅シュタイツだった。
エイミーにはあらかじめ、彼と二人きりで話がしたいことを伝えていた。持ち込まれた薬草の検分をお願いして、奥へと連れ立って歩く。扉の外にいる護衛はいい顔をしなかったが、ヴィルフレヒトが合図を送って介入を拒んだ。
店の奥へと進むと、薬材の保管場所がある。手狭だがソファとテーブルもあるので、シェイラはここを密談の場に選んだ。外に出れば、流石に騎士達がついてくるだろうと思ったのだ。
薬草茶を淹れ、ヴィルフレヒトと自分の前に置く。焼き菓子は始めからテーブルに並べておいたので、これで準備は整った。
シェイラは言葉遣いに注意しながら、ある包みを差し出した。
「ヴィルフレヒト殿下におかれましては、本日もご機嫌麗しく恐悦至極に存じます。約束通りご来店いただきまして、卑小なるこの身にあまる光栄でございます。まずは、こちらをお返しさせてください」
シェイラが話し出すと、ヴィルフレヒトは変な顔になった。まるで酢でも飲み込んだみたいだ。何か言い間違えでもあったのかもしれない。
「私のようなものまで気に掛けてくださり、光栄の至りでございます。王子殿下の広きお心とご慈愛に、深く感謝をお捧げ申します」
シェイラがうやうやしく差し出したのは、水色のジャケット。シュタイツ学院の制服だった。
ヴィルフレヒトはそれを受け取り、静かに口を開いた。
「……あの時、あなたが無防備に寝ているところを偶然お見掛けして、このまま放置してはまずいと思いました。運んで差し上げたかったのですが、僕が動けばそれだけ目立ってしまう。それはあなたの本意ではないと思ったので、上着を差し出すことしかできませんでした」
彼が言っているのは、特別コースに進んだばかりで、反感も多かった時期のこと。今ではそこそこ良好な関係を築けているディリアムに、頭から水をかけられて困っていた時のことだ。
精神的にも疲れていて、そのままひと気のない中庭でうたた寝をしてしまったシェイラに、上着を掛けてくれる者があった。
それが、ヴィルフレヒトだったのだ。
「とんでもないことです。殿下のお心遣いに、深く感謝しております」
シェイラは顔を上げないまま感謝を述べる。
上着を掛けてくれた何者かの正体に気付いたのは、彼とすれ違った時。
清潔感がありながらどことなく優雅な、森のような香り。彼のつけている香水が、ジャケットの残り香と全く同じだったために気付けたのだ。
「……ただ、なぜ、口を噤んでいただけているのか。それがどうしても分かりません」
彼が善意で貸してくれたことに関しては、全く疑っていない。けれどシェイラには、どうしても分からないことが一つだけあった。
あの日のシェイラは、ずぶ濡れで体型が露になっていた。ジャケットを掛けてくれた何者かには、確実に正体が見破られていたはず。なのに今この時でさえ、シェイラは問題なく学院に在籍している。
ヴィルフレヒトは、シェイラが女であることを誰にも話していないのだ。
「――――――――殿下は、私の秘密をご存知でいらっしゃいますよね?」
確信を突く問いに、彼は金色の睫毛を伏せた。小さく吐息をこぼすと、ゆっくり顔を上げる。
そして、驚きの事実を告げた。
「……あの日が、初めてではありません。僕は元々、あなたが女性であることを、知っていました」