窮地
「――――――――シェイラ?」
無事に着地できたコディは、呆然としながら倒れ伏す友人を見つめた。
いつも無駄に動き回っているシェイラが、指先一つ動かさない。それは、コディにとって酷く衝撃的な光景だった。
ゼクスの上から落ちそうになった時、確かにシェイラと目が合った。
身軽な友人のことだから、怪我なく着地することは可能だったはずだ。なのにシェイラは、コディを優先した。
彼を助けることと引き替えに、地面に叩き付けられたのだ。
コディの胸は罪悪感に塗り潰されそうだった。動かなくなってしまったシェイラをただ立ち尽くしたまま見下ろす。
真っ先に駆け付けて容態を確認したのは、クローシェザードだった。ほとんど同時にレイディルーンもやって来る。
コディもゼクスも、ハイデリオンも。シェイラの一番近くにいたのに、何もできなかった。
クローシェザードの腕の中にいるシェイラは、いつもより随分小さく見えた。くったりと華奢な体を預ける姿に、いつものふてぶてしさは見当たらない。そのことが酷く苦しくて、息が詰まった。
……いつものシェイラに会いたい。
容姿のわりに図太くて、淡々としている癖にちゃっかり者で。世間知らずで、よく食べて、馬鹿みたいに平和な顔で笑う姿が見たい。
「――――とりあえず無事だ。安心しなさい」
混乱する頭に、クローシェザードの冷静な声が届いた。コディはハッとする。
「咄嗟に受け身を取っていたから、外傷はほとんどない。庇いきれずに少し頭を打ったようだが、顔色を見る限り問題はなさそうだ。おそらく軽い脳震盪だろう」
「シェイラは…………大丈夫なんですか?」
「だから安心しなさいと言っている。君がそんな顔をしていれば、せっかく助けた彼の気遣いが無意味になる」
シェイラを慮っての言葉。やはりこの人は厳しくしているように見えて、友人を温かく見守っているのだと確信した。小柄な体を慎重に抱き上げる手付きが、酷く優しい。
クローシェザードがそっと歩き出そうとするのを、レイディルーンが制した。
「運ぶのは、俺が。クローシェザード先生は、こちらに残って引き続き他の生徒を見守るべきです」
確かに、この場にいるのは一般コースの教師と彼の二人だけなので、クローシェザードが抜けたら何かと目の届かないこともあるだろう。
「……では、君に任せよう。くれぐれも慎重に。頭を打っているので、あまり揺らさないように運んでほしい」
「承知しています」
気を失っているシェイラが、クローシェザードからレイディルーンの腕へと移される。それはまるで、実力テストのあとの出来事をなぞらえているようだった。
コディ達は、治癒室に向かうレイディルーンの背中をしばし見送った。
◇ ◆ ◇
シェイラの意識は、ゆっくりと覚醒した。
まず真っ白な天井の眩しさに目を細め、後頭部の痛みに眉をしかめる。
ズキズキする痛みのおかげで、状況をいっぺんに思い出した。技術披露大会の練習中、結構な高さから落下したのだ。コディは無事だっただろうか?
窓が開いているのか、カーテンがはたはた揺れる音が聞こえてくる。相変わらず熱気をはらんだ風に汗が噴き出しそうだ。寝起きには結構堪える。
つらつらと考え込んでいると、視界にぬっと人影が現れた。
「……目が覚めたか」
「――――っ」
鋭い紫の瞳、さらりと風になびく黒髪、貴族然とした佇まい。それは、シェイラがしばらく避け続けていた相手だった。
「レイディルーン先輩……っ」
反射的に飛び起き、ベッドの隅まで後ずさった。頭が少しくらくらしたけれど、気にしていられなかった。
レイディルーンは凛々しい眉を逆立てた。
「頭を打っているのだぞ。あまり急激に動くべきではない」
「お、お構い無く……」
さっと周囲を確かめたが、治癒師として常駐している教師はいない。上掛けに潜り込んだとしても、もう逃げ切れるはずはなかった。分かっていても問題を先送りにしたくて、シェイラは目を逸らし続ける。
気詰まりな沈黙が治癒室に満ちる。
静かに口を開いたのは、レイディルーンの方だった。
「……治癒術は、主に外傷を治すものだ。体の内部まで術の範囲を広げるのは難しい。だが上級治癒術ならば、それも可能だ」
彼の台詞に、疑問が頭をもたげる。シェイラはおずおずと、少しだけ上掛けから頭を出した。
「……えっと。じゃあ、法術は?法術なら、体の内部まで治せるんですか?」
「法術でも難しいとされているが、一部の優れた者は病もたちどころに治す奇跡の人――――『神の愛し子』と呼ばれているらしい」
レイディルーンの声は、比較的穏やかに思えた。クローシェザードが何かを教えてくれる時に似ている。無理やり上掛けから引きずり出されることもなさそうだと安心して、つい質問を重ねてしまった。
「それって、今の大神官ですか?」
「詳しいな」
「勉強したんです。それに、コディからも少し聞きました。その、レイディルーン先輩の――――」
彼の母がファリル神国の出身だと噂されていること、と言い掛け、シェイラは声を途切れさせた。
コディは更に、こうも言っていなかっただろうか。『セントリクス家の者の前でこの話題を出してはいけない』。
――ど、どうしよう。ただでさえ、女なの隠してたことで下がってる好感度が、これで更に下がっちゃう……。
元々大して高くもなかっただろうが、今の状況をいい方向で解決するためには、好感度底辺などもっての他だった。
何でもすぐに忘れてしまう自分が憎い。これでは、むしろ墓穴を掘ってしまったようなものだ。
「…………俺の出自か」
レイディルーンの呟きに、肩が跳ねる。
怖々と彼を見上げると、意外にも紫の瞳は凪いでいた。
「噂の通り、俺の母親はファリル神国の出身だ。しかも、今の大神官の妹にあたる」
親族だ、というのは聞いたことがあったけれど、そこまで近しい血筋とは思っていなかった。つまりレイディルーンは、現在の大神官の甥にあたるということだ。
「だからだろうな。神に祈ったことはあまりないが、俺も治癒術には長けている」
「え?法術と魔術は全然法則が違うって、ヨルンヴェルナ先生が言ってたのに」
法術は、祈りを捧げることによって得られる奇跡の業。魔術は大気中の魔素を操る力。原理が全く異なるのに治癒術が得意とは、一体どういうことだろうか。
「法術と魔術を完全に違うものと言い切れないのは、俺のような存在がいるからだろう。俺は魔力が強いが、とりわけ治癒術が昔から得意だった。だからあいつの興味を引いたんだろう」
「あいつ?」
「ヨルンヴェルナだ。あいつは……親戚なんだ」
「えっ」
思慮深いレイディルーンと、不真面目の権化ともいえるヨルンヴェルナが親戚。
言われてみればどことなく顔立ちが似ているような気もするが、まとう雰囲気が違い過ぎる。
レイディルーンの説明によると、親戚といっても狭い貴族社会で婚姻を繰り返しているため、どこかに必ずと言っていいほど繋がりはあるらしい。
けれどヨルンヴェルナは、レイディルーンが幼い頃から頻繁に屋敷を訪れ、剣術や勉強を教えてくれていたというから、それなりに近しい親戚なのかもしれない。
「あの頃の俺は、気持ちの悪いことに、あいつを『ヨルンヴェルナ兄様』と呼んで慕っていた。異母兄弟はいるが、前妻の子と後妻の子では、なかなか気を許し合えなくてな」
レイディルーンは、まるで生き恥をさらすようなボロボロの声音で呟いた。
「いつも遊びに来てくれることを、純粋に喜んでいた。向こうも、兄弟のように愛してくれているのだと疑わなかった。だがある時、奴ははっきり言った」
「…………」
あまりの迫力に、シェイラは身じろぎした。『あいつ』から『奴』に変わったのは、やはり降格したのだろうか。
「『長年の観察から、魔素を集めやすい血筋があるように、神の加護を受けやすい血筋があるのではという結論に至ったよ。おそらく大神官はその血筋なのだろう。という訳で、君はもう用済みだ。礼を言うよ。君は大神官とセントリクス家の血が交ざった、素晴らしい症例だった』。…………それ以降、奴は二度と屋敷を訪れることはなかった。あの血も涙もない冷血漢は、当時10歳だった俺を、地獄に突き落としたのだ」
「それは……」
幾ら何でも酷すぎる。一言一句違えず覚えているレイディルーンを見ていれば、心の傷がどれほどのものだったのか分かる。
彼は思い出を追い払うように首を振り、再び顔を上げた。
「くだらん思い出話をしてしまった。とにかく、俺は治癒術が得意で、万が一脳内出血をしていた場合でも、治すことができるのだ。つまり何が言いたいのかというと―――――――――さっさとこちらへ来い」
「ひっ」
乱暴に上掛けを引き剥がされ、シェイラは咄嗟に体を丸めた。
どうやら穏やかにしていたのは表面上だけのことらしい。核心に迫らない世間話も、こちらを油断させるためのものだったと知る。
優しい先輩の顔をかなぐり捨てた男の前に、シェイラは憐れにもさらけ出されてしまった。