コディの事情
――敗けた…………………。
稽古場が静まり返る。コディもゼクスも言葉を失っていた。
荒く呼吸しながら膝を付くシェイラを、セイリュウは冷静な眼差しで見下ろしていた。
「――――以前より、僅かに剣先が鈍くなったな」
図星をつかれ、シェイラは苦く笑んだ。
「……やっぱり、セイリュウにはバレちゃいますか」
「正規の型を、習ったからか」
確信を込めた口調に小さく頷く。
これが、シェイラの不調の理由だった。
従来通り自由に動いているつもりだが、正規の型が体に馴染んできているために、次の動きに迷いが生じることがあった。正規の型と自由な動きの間で体が判断を決めかね、動作が鈍くなってしまうのだ。
「……このままでは、いられません。早く勘を取り戻さないと」
シェイラはクローシェザードの苦しげな表情を思い出した。彼が懸念していた通りになったら、あの時大丈夫だと笑い飛ばしたことが無意味になってしまう。
授業の一貫なのだから、正規の型を教えるのは教師として当然のことなのに、彼はきっと自分を責める。己の型を見失って使い物にならなくなったという、彼の戦友達に重ねて。
悔やんでほしくない。シェイラに指導したことを、間違いだと思ってほしくなかった。
焦りのまますぐに立ち上がったシェイラの腕を、セイリュウが掴んだ。
「どこへ行く?」
「ちょっと走ってくる。まだまだ鍛練が足りないから」
「無茶だ。さっきゼクスと対戦したばかりだろう」
心配しなくても、シェイラの体力はまだまだ有り余っている。苦笑しながら掴まれている腕を揺らした。
「大丈夫ですよ。セイリュウ、手を離してください」
更に進もうとすると、腕を掴む力が強くなった。手首をすっぽりと覆う手は皮膚が硬く厚く、既にできあがったそれだ。
羨ましくなって気を取られていると、いつの間にかセイリュウの黒瞳が苦しげに細められていたことに気付いた。
「セイリュウ……?」
「――――何をそんなに焦ってるんだ」
ドキッとした。見透かされている。
「……別に、焦ってませんよ?」
シェイラが笑顔で答えると、彼は俯いて唇を引き結んだ。なぜ、セイリュウの方が苦しそうな顔をするのだろう。
「……こんな時、自分の口下手さが嫌になるな」
口中での自嘲は、切なさを帯びている。
けれどセイリュウは、次の瞬間には眼差しの強さを取り戻していた。彼の愛用する太刀のように、優美でありながら潔い強さ。
シェイラは逃げ出したくて、無意識に手を引き抜こうとするも失敗した。力の入りすぎた手が戦慄く。
「シェイラ、どうか話してほしい。少しでもいいから、お前の苦しみを分けてほしいんだ」
セイリュウの瞳は、どこまでも真摯にシェイラを見つめていた。彼の誠実さに覚悟が揺らいでしまいそうになる。
「苦しみ、なんて、」
「シェイラ」
「だって強く、ならないと。僕がダメになったら、いけないんです」
シェイラは彼の視線から逃れるようにして、何度も頭を振った。自分に言い聞かせるように、何度も。
「お前はまだ四年生だ。そんなに焦る必要なんてないんじゃないか?」
「それじゃダメなんです。――――負担に、なりたくない」
頑なに閉じ籠ろうとするシェイラの殻をこじ開けたのは、聞き慣れた軽い口調だった。
「誰の負担になりたくないかは聞かねぇけど、そいつだってお前がどれくらい頑張ってるか、分かってくれるだろ」
「…………ゼクス」
いつの間に回復したのか、彼はいつも通りの面倒くさそうな仕草で、乱暴にシェイラの髪をかき混ぜた。
シェイラは痛みを堪えるみたいに、ぐっと歯を食い縛る。
「どれだけ頑張っても、結果を出せなきゃ意味がないよ……」
「だーい丈夫だって。お前は駄目になんてならない。絶対だ、俺が保証する」
全くの気休め。保証にもならない保証。けれどあまりに気軽な調子に、思い悩んでいたこと自体が馬鹿馬鹿しくなっていく。
コディが進み出て、焦げ茶色の瞳を優しく細めながらシェイラの肩を叩いた。
「シェイラ。一緒に強くなっていこう?一人でどんどん先に行かないでよ。必要なのは団結力だって、君が僕達に教えてくれたんだよ?」
「コディ…………」
そうだ。焦って和を乱してはいけない。ようやく四年生全体が、まとまってきたところなのだ。
「ごめん、僕…………」
「謝ることじゃないよ。何か理由があるのは分かったから。でも、君が一人で強くなる必要はない。僕達にも、きっと手伝えることはあるから」
「――――――――」
にこりと微笑まれ、シェイラはとうとう陥落した。
込み上げる思いをぶつけるように、彼らの胸に飛び込んだ。胸当てに当たって額がごちんと音を立てたけれど、痛みなどどうでもよかった。届かない手を精一杯回して、三人でぎゅうぎゅうにくっつき合う。
「コディ……ゼクス……ありがと……」
シェイラはようやく顔を上げ、小さく笑った。
ギリギリ涙を堪えた瞳は潤み、ウサギのように赤くなっている。それを見て、コディとゼクスはいつもの神妙な面差しで目を合わせた。
「絶対こいつを、他の奴らの前で泣かせちゃいけねぇ……」
「うん、僕も心からそう思った……」
「二人共、何で微妙に顔色が悪いの?」
三人のやり取りをずっと眺めていたセイリュウが、苦笑ぎみに肩で息をついた。
「全く、敵わないな…………見せ付けてくれる」
彼の呟きにはゼクスが答えた。
「当たり前っしょ。いつもつるんでるのは俺達なんだから」
ゼクスが敬語を使わなかったことに驚き、シェイラはセイリュウを見た。彼は特に違和感を感じている様子もない。そういえば、コディもいつも親しげにしている。
「……コディもゼクスも、セイリュウと親しいよね。何か、昔からの友達みたいだ」
シェイラがポツリとこぼした疑問は、場に沈黙を呼んだ。
ゼクスが気まずげに頭を掻きながら、何かを言おうと口を開く。それを遮ったのはコディだった。
「いいよ。シェイラには、いずれ話さなきゃいけないと思っていたから」
そう言うと、コディは深呼吸した。静かな瞳がシェイラに向けられる。
「僕は――――――――庶子なんだ」
穏やかな声にそぐわぬ内容に、シェイラは一拍遅れて息を呑んだ。
穏やかな声、穏やかな表情。けれど、コディのこぶしは僅かに震えている。荒れ狂う感情を必死に圧し殺しているのだと分かった。
「母は、アスワン家で働くメイドだった。アスワン家は男爵家であまり家格が高くないから、行儀見習いとして受け入れる貴族の子女も少なくて、平民が雇われることはさほど珍しくないんだ」
コディの母は、平民のわりに美しい人だった。穏やかで控えめだけれど、一生懸命な働き者だった。
「貴族にとって、平民は人ではない。当然、父との接点なんてなかった。けれどある時父は、本来ならありえない気まぐれを起こした。働いている母を、手籠めに――――ってシェイラ、手籠めの意味、分かる?」
笑い交じりに問われ、シェイラはコクコクと頷いた。話の邪魔をしてはいけないと思った。
「たった一度きりの過ちで妊娠したと知られた瞬間、母は正妻に屋敷を追い出された。そして、王都の実家に帰って僕を産んだんだ。当然白い目で見る人達もいたけど、優しい人も沢山いたよ」
コディは懐かしむように目を細めた。嘘のない表情から、当時の彼が幸せだったことを窺えた。
「そうして僕は下町で育ったんだ。ゼクスとも、アックス……寮長とも、セイリュウとも、その頃からの友達なんだ」
「そう、だったんだ……」
彼らの親しげな空気には立ち入れないような年季を感じていたけれど、それほど長い付き合いだったのなら頷ける。
けれど疑問が一つあった。今の彼が、コディ⋅アスワンであることだ。
「何で今はアスワン家の……?」
シェイラの質問に、コディは再び厳しさを取り戻した。
「父の正妻に男児が産まれなかったのが原因だよ。アスワン家は、直系の男児しか継ぐことができないんだ。しかも都合のいいことに、僕にはたまたま微弱ながら魔力があった」
ある日突然アスワン家に引き取られることになったコディは、下町から引き離され、貴族の子息としての教育を無理やり詰め込まれたという。
「コディのお母さんは…………?」
「引き離されたよ。父がまた無理やり雇用して、今度は地方の屋敷で働かせているんだ」
「それって……」
雇用と言えば聞こえはいいが、体のいい人質だ。
逆らえばどうなるか分からないから、母の身の安全のためにも従順でい続ける必要がある。
もしかしたら、一度くらい逆らったことがあるのかもしれない。コディがアスワン家を語る時の冷たさは、半分血が繋がっているとは思えないほど苦渋に満ちていた。
「…………でも、いずれは必ず会いに行くよ」
コディの真っ直ぐな瞳には、迷いがなかった。
沢山悩んで、苦しんで、もがいてもがいて手に入れた覚悟。
壮絶な半生が、彼を強く大きくしていた。
戦っている時よりもずっと、コディが格好よく見えた。いや、ある意味彼は、ずっと戦っているのだ。
シェイラは再びコディに抱き付いた。
「コディはもう、十分強いよ。ずっと辛かったね……偉いね、頑張ったね」
シェイラを受け止めながら、コディは苦笑した。しがみつく手も声も、明らかに震えている。
「何で僕のことで君が泣くの。さっきはあんなに我慢してた癖に」
「誰かのためなら、泣くのは恥ずかしいことじゃないもん……」
言い訳がましく返すシェイラの背中を、コディが宥めるように叩く。これではどちらが慰められているのか分からない。
それでもシェイラは、少しでもコディの慰めになればと、しがみつき続けるのだった。