遭遇
一人図書館へ続く廊下を歩いていると、向こうからヴィルフレヒトが護衛の騎士を引き連れてやって来た。
通り過ぎざま、僅かに目配せをする。約束の月の日はまだ先だった。
彼には性別がバレていると確信している。それでもシェイラが動揺しないのは、口止めの必要がないためだった。
ヴィルフレヒトが性別の秘密に気付いたのは二ヶ月以上前のはずなのに、誰にも話した様子はないから。
彼の後ろ姿を見送りながら、シェイラは開け放たれた窓辺に寄りかかった。そして、令嬢シーナとして会った日のことを思い出す。可憐な姿は、むしろ女装をしなければ勿体ないと思えるほどの美しさだった。
――本当に素敵だったな……。できれば町娘姿じゃなくて、綺麗なドレスを着ているとこが見たかった。
窓から入る生ぬるい風を受けながらうっとり考え込んでいると、背後からぬっと腕が伸びてきた。驚きで動きが遅れた一瞬の内に抱き込まれてしまう。
「なっ、」
『久しぶり、会いたかったよ。愛しいシェイラ君』
耳元近くで意味深なことを囁いたのは、とても聞き覚えのある声だった。彼の顔を見るのも一ヶ月ぶりだ。
「ヨルンヴェルナ先生…………」
振り返ると、間近から華やかな笑みを向けられた。青灰色の髪に、紺碧の瞳。見る者を惑わす妖しい美しさには、衰えも陰りもない。
窓越しに拘束されるとは思わなかったが、周囲を混乱に陥れる突拍子のなさは相変わらずのようだ。しかも囁かれたのは古代語での挨拶。
――これは、正しく返さないと何かがまずい気がする…………。
『……僕は、別に会いたくなかったです』
シェイラがまともに話せるとは思っていなかったのか、ヨルンヴェルナは意外そうに眉を上げた。
『会えない間、少しは僕のこと思い出してくれた?』
『あぁ~、そうですね。意外と役に立ちましたよ』
ギルグナー伯爵と対峙した時、彼の雰囲気や表情を参考にしたのは記憶に新しい。
『僕はいつでも君を思っていたよ。君がいないと、何だか世界が色褪せて見えてね』
『からかう相手が減って、残念ですたね』
シェイラの返答に、ヨルンヴェルナがゆっくりと笑みを広げていく。久しぶりに再会した恋人へ向ける笑みにも見えるが、実際はネズミをいたぶる猫と同じ。上手く発音したつもりだったが、シェイラは己の失敗を悟った。
『――――惜しい。やはり週に二度は補習が必要なようだね』
『勘弁してください…………』
嫌な予感は的中した。
研修期間中は免除されていた補習が。このまま自然消滅してしまえばいいのにと邪な気持ちで願っていた補習が。
……無事、復活することが決定した。
世の中甘くないなと感じ入りながら遠い目をしていると、少し伸びた髪を掻き上げられた。露になったうなじに、何か柔らかいものが当たって体を強ばらせる。
「何するんですかっ」
「間違えたから、お仕置き」
ヨルンヴェルナが喋ると、うなじに温かな吐息がかかる。つまりこの柔らかな感触は――――唇。気付いた瞬間ゾワリと一気に総毛立った。
咄嗟に腕を捻り上げようとすると、サッと距離を取られる。
シェイラの勉強のために彼の時間を削ってしまっていることは申し訳ないと思っているが、流石にこれは文句を言っていいはずだ。
勢いよく振り返り、キッと睨み付ける。
「それがお仕置きなら、他の生徒にも公平にしてるんですよね?」
「生憎、可愛い君のうなじ以外には興味が持てなくてね」
「それじゃ拷問と同じです」
「拷問に例えるなんて、酷いなぁ」
クスクスと、ヨルンヴェルナは至極楽しそうに笑った。
「……相変わらず元気そうでよかったよ。誘拐事件に巻き込まれたと噂で聞いて、心配していたんだ」
彼の紺碧の瞳には親しみさえ浮かんで見えるから厄介なのだ。本当の感情はもっと奥深く、慎重に隠していることをシェイラは知っている。
「…………本当に心配してる人はそんなふうに笑いません」
「なるほど。次から気を付けよう」
「次の災難があると思ってる辺りがまずいんですって」
冷静に指摘するも、彼はますます嬉しそうに笑うばかりだった。
「――――やはり、君だね。この斬新な切り返しがないと、からかい甲斐を感じなくなってしまったんだ。君なしでは生きていけない体にさせられて、災難なのは僕の方だよ」
また妖しいことを言い始めたヨルンヴェルナを、シェイラは半眼で見つめ返した。
「斬新な切り返しをしてるつもりはないですが、それがからかわれる原因なら即刻修正します」
「無理じゃないかな?君って天然だし。だからこそ取り繕ったところがなくて面白いんだよ」
「天然?天然とは、ありのまま…………つまり、野生児って遠回しに貶してるだけじゃないですか」
廊下の真ん中で言い合っていると、突然腕を引かれた。
「何をしている!?」
シェイラを引き寄せたのは、血相を変えたレイディルーンだった。相当焦っているようで力加減も忘れている。掴まれた手首が痛かった。
「いっ……」
「すまない!大丈夫か?」
彼は大げさなほど慌てて手を離した。それをヨルンヴェルナが、顎に指を当てて面白そうに眺めている。
「レ、レイディルーン先輩……」
シェイラとしては、絶体絶命の状況だ。ずっと邂逅を避けていたレイディルーンに、こんなところで捕まってしまうなんて。
しかしなぜか彼は、ヨルンヴェルナに突っかかり始めた。
「ヨルンヴェルナ、何かまた卑猥なことでもしていたのではあるまいな?」
「人聞きが悪いなぁ。単に抜き打ちテストをしていただけなのに」
ぐいっと胸ぐらを掴まれながら、ヨルンヴェルナはヘラヘラ笑っている。一応教師である彼に対して乱暴な振る舞いをしていいのだろうか。
レイディルーンが暴挙に出るという珍事に、シェイラは動揺で硬直してしまった。
「僕はシェイラ君の補習担当なんだよ」
「お前が補習?……二人きりでか?」
「あ。今何を想像したの?嫌らしい子だなぁ」
「やかましい」
何だか、口を挟む余地もないほど慣れたやり取りだ。彼らは教師と生徒以上の関係なのだろうか。
「――――教師と生徒以上の関係……」
思わず呟いてしまったのは、ヨルンヴェルナに毒されてしまったからだろうか。
しっかり聞き咎めていた二人が、同時にシェイラを振り返った。
「それこそ人聞きが悪すぎる」
「僕だってこんな目付きの悪い子はお断りだなぁ。一線を踏み越えるなら、ぜひシェイラ君にお相手願いたい」
「お前、とうとう本音を出したな」
「僕はいつでも本能のままに生きているけれど?」
「それが周囲を困らせていると何度言えば分かる!」
言い合いは加熱するばかりで、何だか一行に終わる気配を見せない。このままどちらからも逃げてしまっていいだろうか。
二人から少しずつ距離を取り始めていたシェイラに気付き、レイディルーンが振り返った。
「シェイラ⋅ダナウ。その、話が――――」
「さぁ行きましょうヨルンヴェルナ先生!今すぐ補習をしなければ!」
シェイラはレイディルーンの声を掻き消すように叫んだ。フェリクス直伝の有無を言わせぬ笑顔でグイグイとヨルンヴェルナの手を引く。
慌ててシェイラを引き止めたのはレイディルーンだった。
「駄目だ!その不埒の権化のような男と二人きりになるなど――――」
「でも、授業ですから!」
シェイラの大きな声が廊下に反響する。
今まで親しげに接してきた相手からの拒絶に、レイディルーンは目を見開いた。淡い紫の瞳が、雄弁に『なぜ』と語っている。
……滅多に表情を変えない彼が露にした感情に、どれほどの思いが込められているだろう。
胸がズキリと痛み、咄嗟に言い訳しようとしたが、シェイラは視線から逃れるように背中を向けた。レイディルーンは追って来ない。
ずんずんと進むシェイラのあとに続きながら、ヨルンヴェルナが呟いた。
「君達、何だか面白いことになっていそうだねぇ」
「………………」
茶化すようなことは何もない。
八つ当たりだと知りつつ、楽しそうに笑うヨルンヴェルナを肩越しに睨む。
――…………あ。図書館。
シェイラはつと立ち止まった。
「えっと。そういえば、僕、用事が…………」
言いかけるシェイラに、ヨルンヴェルナは完璧な笑みを浮かべた。
「僕を言い訳に使っておいて、逃げられると思うの?」
「…………ですよね」
……とりあえず、シェイラは今日も図書館へは行けないらしい。