断罪
シン、と静まり返った中庭に、ナイフを取り落とす音がやけに響いた。
ギルグナー伯爵はクローシェザードに羽交い締めにされていた。今や、彼の顔色は真っ青になっている。
筆頭公爵家の子息に刃を向けてしまったのだから当然と言えるだろう。
レイディルーンは、無感動に傷口を見下ろした。左腕から多少出血しているのを確認し、ひたとギルグナー伯爵に視線を据える。伯爵は蛇に睨まれた蛙よろしくビクリと飛び跳ねた。
「……これはどういうことだろうな?」
「ヒッ!」
後ずさる伯爵を追い詰めるように、レイディルーンが一歩踏み出した。
「まさか、ギルグナー伯爵に切りつけられるとは思わなかった。貴殿の家とは良い関係を築けていると認識していたが、どうやら勘違いだったらしい」
「そんな!滅相もない!」
焦燥もあらわに辺りを見回したギルグナー伯爵は、ピタリとシェイラに目を留めた。
「これは間違いです!そう、何もかもあの少年の策略なのです!」
シェイラは悪あがきをする男を無表情に見返した。
この頃にはクローシェザードとレイディルーン以外の人々もシェイラの意図を察し、誰もが口を噤んでいた。当然ながら、伯爵を援護する者は一人もいない。
レイディルーンが冷酷に追い討ちをかけた。
「何でも人のせいにすれば言い逃れができると思っているようだが、私に傷を負わせたのは間違いなく貴殿であろう。それはこの場にいる全員が証明できる。お望みの物的証拠も、このようにしっかりとあるしな」
レイディルーンは拾ったナイフをかざして薄く笑った。
「――――ギルグナー伯爵におかれては、これからありとあらゆる方法で追い詰めさせていただこう」
伯爵は、へなへなと地面に座り込んだ。圧倒的有利な立場が、まさかひっくり返されると思っていなかったのだろう。
人身売買については立件できずとも、これを足掛かりに伯爵邸内の捜査が可能になる。洗い出せば証拠は出てくるだろう。
人身売買の罪は、後々立証される。いわゆる別件逮捕という奴だ。
「―――――この、卑怯者!」
伯爵に、火のような眼差しで睨み付けられる。それすらもシェイラは平然と受け止めた。
「卑怯?あなたにされた数々の非道をやり返しただけですよ。あなたに売り飛ばされそうになっていた僕らには、これくらいの権利あると思いませんか?」
シェイラのやり方は、法的に見れば間違っている。けれどそれを問い質す者は、この場においてギルグナー伯爵のみ。
どうか、悪辣な行いに対する罰を。
みな、心の底で思っていることは同じだった。
巡回兵団の簡単な身体検査を受けてから、項垂れた伯爵が丁重に連行されていく。
それを眺めることもせず、シェイラはレイディルーンに向き直った。
「レイディルーン先輩、大丈夫ですか!?」
「それはこちらの台詞だ。全く、無茶をする。俺が目配せの意味に気付いたからよかったものの」
「あの目配せは、筆頭公爵家の先輩に意見の誘導をお願いしたかっただけで、怪我を負わせるつもりは決してありませんでした。学院生の僕が負傷すれば、それを皮切りに伯爵を追い詰めることができると思ったんです」
シェイラの影響力など、たかが知れている。けれどレイディルーンが追及すれば、ギルグナー伯爵も反論ができないだろうと考えたのだ。
破れかぶれの作戦だが、彼さえ味方してくれれば何とかなると決行に踏み切った。
この役割は兵団員の誰にもできない。公的な立場がなく、身分もないシェイラだからこそできた荒業だった。
けれど作戦の共有をおろそかにしたばかりに、レイディルーンに怪我を負わせてしまった。左腕の出血を見て、シェイラは顔を曇らせる。
「…………すみませんでした」
怪我をしたというのに、レイディルーンはシェイラを責めたりしなかった。
「そういう作戦だったならば尚更、お前より俺が負傷した方が好都合だろう。仮にも筆頭公爵家の人間を傷付けた罪は重い。それにこの程度の傷ならば、治癒魔法ですぐに治る」
気を遣わせない物言いに、シェイラの心が少しだけ軽くなった。
「先輩…………ありがとうございます」
「さっさと戻るぞ。一度本部に寄って報告を済ませねばならない」
「あ、でもみんなは」
先ほどまでコディ達がいた場所には、姿がなくなっていた。
「彼らは手伝いを志願してここにいるから、仕事が終わるまで持ち場を離れられない。ディリアムももう帰ったのだし、お前も早く休んだ方がいい。負傷した俺が連れ帰れば手間もないだろう」
レイディルーンも治療があるため、今は手伝いをしている場合じゃない。確かにと納得して先を歩く背中を追い、ふと振り返った。
視線の先には、巡回兵団に何やら指示を出すクローシェザードがいた。
彼は、シェイラが無茶をすると勘づいていながら止めなかった。むしろこちらの意図を素早く察し、一撃以上の攻撃がないようにと伯爵を拘束したのだ。
クローシェザードから信頼を置かれているようで、何だかとても嬉しかった。
巡回兵団の研修を見に来たと言っていたから、明日いきなりいなくなるということはないだろう。話す機会はきっとある。お小言を頂戴するかもしれないが、それさえも懐かしく感じてしまっているのだからどうかしている。
働く姿をしばらく眺めると、シェイラは再び歩き出した。
◇ ◆ ◇
公爵家の馬車は、噴水前に待機していた。
月明かりにキラキラと弾ける水滴が幻想的で、その風景を壊さない馬車の壮麗さにシェイラは動揺した。
黒馬の毛並みは艶やかに輝き、主人の到着を静かに待っている。優雅な曲線を描く馬車の外装も黒塗りだ。それでも陰気に見えないのは、贅を尽くした彫金のためだろう。
芸術のような美しさを目の前にして、先ほどまではどうとも思っていなかったことが気になってきた。
多分シェイラは一日汗を流してない。この格好で仮眠をとったから制服も着崩れてボロボロだ。果たして、これほどみすぼらしい人間が、この素晴らしい馬車に相応しいか否か。
「ぼ、僕、やっぱり歩いて帰ろうかな」
即座に答えを弾き出して回れ右をしたシェイラの肩を、レイディルーンがしっかりと掴んだ。
「いいから乗れ」
「…………はい」
底冷えのする声に、シェイラは呆気なく屈した。
二人を乗せた馬車がゆっくりと走り出す。
居心地はすこぶる悪かった。振動をほとんど伝えない快適な座面も、フワフワのクッションも、滑らかな革の感触も最上級と言えるのに。
――き、気まずい…………。
そういえば、あまり親しげに接するのはよくないと思ったばかりなのに、なぜこんなことになっているのだろう。流されやすいにも程がある。
けれど今はこの沈黙を打破することに全力を注ごうと決め、何とか口を開いた。
「僕、本当に何もしなくていいんですかね。少しは寝てるからまだまだ動けますけど」
「お前達二人は、明日、明後日はゆっくりと休んでいいらしい」
頭を掻きながら笑ってみるも、レイディルーンは淡々と返すのみだった。
「えぇ~。別に疲れてないから平気なのに」
「そう思うのは今が興奮状態だからだ。しばらくして落ち着けば、どっと疲れが出る」
「レイディルーン先輩達はお休みできないんですか?」
「我々は志願して来たのだから、明日も巡回だ」
「そうなんですか……」
再び沈黙が訪れ、シェイラは頭を光速で動かした。とにかく話題が欲しくて仕方ない。
意外なことに、次に沈黙を破ったのはレイディルーンだった。
「……戦闘員の足止めをしたと聞いたが」
一人言のような声音に気付いて、シェイラは頷き返した。
「はい。あまりに力の差があったので、足止めとしての役割を果たせたのかは疑問ですが」
「そこまで強かったのか。どのような相手だった?」
こういった話題ならばネタには困らない。お互い騎士を目指すほどには戦闘が好きなのだから。
シェイラは嬉々として身を乗り出した。
「俊敏で、動体視力が抜群でした。短刀を使っていましたが、もしかしたらそれ以外にも武器を隠し持っていたかもしれません。それほど強いのに、これが何ともふざけた性格をしていて、基本ヘラヘラと笑ってばかりでした。言動も無責任というか物凄く適当で――――――」
カラスのことを思い出している内に、記憶の底に封じ込めたはずの悪夢が甦ってきた。
そう、あの男はよりにもよって――――。
「――――とにかく!最低の男でした!」
シェイラが思わず立ち上がった時、運悪く車輪が小石に乗り上げた。不安定に馬車が揺れ、ぐらりと体が傾く。
慌てて捕まる先を探したシェイラの手が、ぐいっと引かれる。レイディルーンが咄嗟に引き寄せ、抱き留めたのだ。
しかしこれまた運悪く、立ち上がったシェイラの胴体部分に彼の顔が埋もれた。正確には、ささやかな胸の膨らみに。
……輪をかけて間の悪いことに、あの悪夢の出来事以来、シェイラは胸を押さえる道具を所持していなかった。
ふに。
「……………………」
「……………………」
馬車の中は、三度目の気まずい沈黙が横たわり続けたのだった――――。