戦闘
子ども達を追う気配もないカラスの真意が分からなかった。
思えば、訊いた訳でもないのに『伯爵』とこぼしたり、ギルグナー伯爵自身は断固として認めなかった『人身売買』という単語を使ったりしていた。
単なる彼の不用意だと思っていたが、カラス以外が出払っていることも、わざとこぼしたような節がある。
ここまで重なると首を傾げざるを得ない。彼は一体、何を考えているのだろうか。
じっと見つめる先で、カラスが口を開いた。
「食い止めるとか簡単に言っちゃって。可愛いシェイラちゃんは、武器もないのにどう戦うつもりなのかな~?」
余裕綽々の笑顔に腹が立ち、シェイラはいきなり仕掛けた。
カラスは戦いに身を置き続けてきた経験則から、咄嗟に左側へ身をかわす。
「!」
鋭く飛来したものは想像以上に長い。後方に避けていたら確実に当たっていただろう。
投げた張本人が再び引き寄せたことで、カラスはようやくそれが何であるのかを認識することができた。
それは、ごくありふれた――――麻縄だった。
「それって……」
無防備に目を見開いているカラスに、シェイラはニッと不敵な笑みを見せた。
「そう。手足を縛ってた縄だよ。みんなの分と合わせて、丁度いい長さに調整してもらった」
麻縄は重量がそこそこあるし、幾つも作った結び目が固いから、当たれば結構な凶器になるのだ。
武器になりそうな物を探しても成果がなく、困り果てていたところで手足を縛る縄に目を付けたのだ。十分な凶器が手元にあったとは、本当に灯台もと暗しだった。
「兵団員だからって剣しか使えないと甘くみてるようだけど。僕は山で獣を狩ってたから、投擲系の武器も得意なんだ」
「山育ちって……そりゃまた規格外な」
心底呆気に取られた様子の声音に、してやったりという気分になる。彼らが武器を提供したようなものなのだから、驚くのも仕方あるまい。
シェイラはカラスめがけて、麻縄を鞭のようにしならせた。
気持ちを立て直したカラスが、正確無比に短刀を振るう。
シェイラは手首を返し、すぐに縄を引き寄せた。あのままだったら縄を切り落とされていただろう。麻縄の弱点は、強度の低さにある。
カラスは動体視力も抜群のようで、かなりの速度で飛んでくる縄の動きを完全に見切ってしまえるらしい。
彼は短刀を投擲することも可能だ。シェイラは再び距離を取った。
――やっぱり、強敵だ……。
こんなに精霊術が使えないことを歯痒く感じることはなかった。
今はただ、子ども達が救出されるまでの時間稼ぎができればいい。必ず勝たねばならない訳ではない。
――…………でも。
ぐっと顔を上げた時、シェイラの瞳がギラリと輝いた。
素早く一歩踏み込み、横に払うように縄を振った。
カラスは既に縄の射程範囲を把握していたが、シェイラが踏み込んだ一歩分、間合いが変わる。後方へ退き回避はできたものの、僅かによろめいた。
けれど彼は、反撃の隙を与えるような男ではなかった。よろめきざまに何とか短刀を放ち、シェイラの動きを封じる。
足元に飛んできた短刀を縄で弾き飛ばした時には、カラスは既に体勢を立て直していた。
シェイラは追撃の手を緩めることなく縄を振るう。間断なく一振り、二振り。カラスはそれを余裕を持って避ける。
五度目の縄が迫ってきた時、速度に慣れたカラスの瞳は縄の先端さえ捉えていた。
再びかわすために体を動かそうとした時、先ほどまでの攻撃と質が違うような違和感を覚えた。
先端が、伸びている。
いや、そうではない。カラスはすぐに気付いた。
縄が、丸ごと飛んできているのだ。
想定外の事態に、体が一瞬硬直した。
シェイラが狙っていたのはこの一瞬だった。
縄を見切る早さ、視線の動きを見て、彼の動体視力が想像以上に高いことは分かっていた。縄はカラスに届かない。何か奇策を練らねばならなかった。
シェイラはわざと単調な攻撃を放ち、彼がしっかりと縄の先端を追うようになったのを確認した。そして振るうと見せかけた縄を、思いきって手放したのだ。
カラスは作戦通りに動きが鈍くなった。
縄を投げると同時に走り出し、彼の懐に飛び込む。
武器を捨てたシェイラはこぶしを振り上げ、渾身の力を込めてカラスを殴り飛ばした。
「…………っ」
軽い体はよろめき、大きな音を立てて壁にぶつかった。彼は唇の端に滲んだ血を拭いながら、呆然とシェイラを見る。
シェイラは痛むこぶしをプラプラと振りながら、スッキリとした表情になった。
「――――言ったでしょ。あとで絶対殴るって」
晴れ渡った空のような改心の笑みに、彼は今度こそ目を丸くした。
「―――――――――ハハッ」
やがてカラスは腹を抱えて笑い出した。体を折り曲げて肩まで震わせ、ヒイヒイと苦しそうに呼吸している。それは今まで見た中で一番幼く、年相応の表情だった。
シェイラはとりあえず、放り投げてしまった縄を回収した。何がそんなに面白いのか、その間もカラスは笑い続ける。打ち所が悪くて壊れてしまったのかもしれない。
微妙な気持ちになっていると、突然邸内の隅々まで届くような大音声が轟いた。
「巡回兵団だ!王命により、これより屋内を改めさせていただく!」
待ちわびていた救援だ。本当に来てくれた。
信じていたけれどどこか不安で、子ども達を励ましている時も、自分に言い聞かせているような気分だった。
手首を撫でながら安堵のため息をついていると、視界にカラスの黒い靴が映った。
「あ~あ。せっかく楽しかったのに、ジャマが入っちゃったね」
「僕は楽しんでない。……君は、そんな怠惰な感じでいいの?巡回兵団があんなに堂々と突入合図をするってことは、子ども達が全員保護されたってことでしょ?」
カラスは秘密めいた笑みに変わった。真意は誰にも教えない。そういうことなのだろう。
廊下に並ぶ窓の一つを、カラスが開け放した。ぬるい夜風がシェイラの元まで届く。満月が晄々と地上を照らしていた。
「じゃあ、オレは逃げよっかな。どうせギルグナー伯爵なんか、とかげの尻尾切りするに決まってるし」
やはり、ギルグナー伯爵との間に信頼関係が成立している訳ではなさそうだ。カラスはあっさりと見捨てる宣言をした。
シェイラはほとんど反射で縄を構えた。
「逃がすと思う?」
「……捕まえられると思う?」
自信満々な返しに悔しくなるが、力量で敵わないのは揺るがない事実だ。
歯噛みするシェイラに近付き、カラスが囁いた。
「――――羨ましいよ。あの子ども達には、君がいて」
彼の表情は、最早悲しそうですらなかった。ただ静かに、何かを手放すように微笑む。まるで天に輝く白々とした月のような。
シェイラは何も答えなかった。彼が窓から身を翻したあとも、どう答えればよかったのか分からないまま。
やるせなくて、しばらく窓枠に手を掛けて項垂れ続けた。
……なぜ、こんな理不尽な犯罪が起こるのだろう。
身勝手な理由で子ども達を拐った伯爵も。
人を売り買いする組織自体も。
一度堕ちてしまえば、犯罪でもしないと生きていけない世の中も。
何もかも悔しくて、虚しい。
――これが、犯罪なんだ……。
今回は伯爵のように分かりやすい悪人がいたけれど、誰も悪くない犯罪だって世の中にはある。それぞれに大切なものを抱えて生きているだけなのに、人はぶつかり合ってしまう。
山奥で、みんな仲良くぬくぬくと育ったシェイラは知らなかった。こんなに胸が痛くて、苦しくなることを知らなかった。
……やがて、一組の足音が聞こえてきた。それが誰であるか分かる気がして、足音がたどり着く前に顔を上げて待つ。
「――――――――馬鹿者」
月光を浴びて冴々と輝く白銀髪。感情を映さぬ孔雀石色の瞳。近付くことを躊躇うほどの硬質な美貌は、一見無表情のようでいて、その実かなり立腹していることが分かった。
「ただの研修で、なぜこのような大ごとに巻き込まれるのだ、君は」
普段なら冷や汗ものの状況だったが、シェイラはすがるようにその人の名前を呼んだ。
「――――クローシェザード先生」
まるでこの館の主のような風格で歩み寄るのは、ずっと待ちわびていたクローシェザードだった。