脱出
鎧戸の隙間からうっすら差し込む日差しが、茜色に染まっていく。
そんな時、外の裏路地が辛うじて見下ろせる壊れた部分から、犬の姿が見えた。あまり体の大きくない白い雑種犬は、吠えもせず二階を見上げて尻尾を振っている。
「あの子です。うちのミックです」
「よし、見取り図を下に落とそう」
シェイラは、鎧戸の隙間にシーツの切れ端を突っ込んだ。平民の家の窓には、高価な硝子が使われていないために可能なことだった。
何とか隙間を通しきった切れ端が、風にあおられてヒラリヒラリと舞い落ちていく。ミックはそれを嬉しそうに追いかけた。
彼が上手に受け止めた時、シェイラは思わずこぶしを握ったが、次の瞬間鎧戸にへばりついた。
隣で覗き込んでいた主人のリィナも情けない声を上げる。
「ダメよミック。舐めちゃダメ、読めなくなっちゃうでしょ。もう、何でそんなにおバカなの~……」
ミックは、シーツをべろべろに舐め回してしまっていた。遠目で分からないが、最早判別不能になっているかもしれない。
本当の意味で血の滲むような思いで書いたのに、末路は悲惨だ。
よだれでべっちょりしている布をくわえて嬉しそうに駆けていくミックの後ろ姿を見送りながら、『あれ、どこかに埋めちゃうんじゃないかなぁ……』と誰もが遠い目になった。
◇ ◆ ◇
夜も更け、子ども達とディリアムも寝静まっている頃、シェイラはスッと目を覚ました。
王都の歓楽街は中央通りを挟んで反対側にあるため、喧騒は遠い。この近辺は朝早く起き出す職人が多く住む区域だから、街自体が息をひそめたように静かだった。
そこに、統率のとれた軍靴の音が響いたのだ。
気配を殺しているようだが、鎧のぶつかり合う音は消しきれるものではない。――――ついに救出部隊が来たのだ。
シェイラは素早く立ち上がり、子ども達を起こし始めた。彼らは比較的素直に従ったが、ディリアムの熟睡ぶりには呆れてしまった。
いつ救援が来るとも分からない状況で、子ども達を誘導する責任があるというのに、よくぞここまで寝入れるものだ。
「ディリアム先輩、今を逃すと不利になります。すいませんが、失礼します」
眠りこける耳元で一応断りを入れてから、シェイラは彼の横面を軽く張った。
衝撃と、何が起きたのか分からない混乱で、ディリアムは慌てて飛び起きた。
「な、何だ?今何が起きたのだ?」
「そんなことよりも先輩、救援が近くまで来ているみたいです。僕達も急いで行動に移りましょう」
「待て、そんなこととは何だ。私の頬がヒリヒリするのは気のせいなのか?」
「間違いなく気のせいでしょう」
シェイラは手足の縄を外すと、メルヴィスに預ける。鍵と格闘している間に、彼には全員分の縄を集めてもらうつもりだった。
すぐに階段を駆け上がり扉へと向かう。
右手に握っているのは、ディリアムが武器にならないかと持ってきた鎧戸の板切れだ。小さすぎて武器としては使い物にならないが、この薄さが何かの役に立ちそうだと手元に残しておいたのだ。
板切れはカンナでよく削られており、端は細すぎて鋭利ですらある。そこを、扉の隙間――――錠の部分に差し入れた。
少しずつ、慎重に手を動かす。かんぬきが僅かに動く手応えがあった。
――…………いける。
何度も何度も板切れを出し入れし、小刻みに動かしていく。やがて、シェイラは板切れを胸ポケットに戻した。
扉に手をかけ、音を立てないよう細心の注意を払って押す。
果たして、扉はあっけなく開いた。
「まさか、本当に成功するとは…………」
頭を切り替えたディリアムが、目の前の光景に唖然とする。
貴族の彼には分からないだろうと、シェイラは苦笑した。
「この形の鍵は、まだまだ鍵受けとかんぬきの噛み合わせがイマイチだったりするんですよね。貴族街の錠前師は技術も確かですけど、平民街のものは意外と仕事が適当だったりするんです」
かんぬき式の鍵は多く出回っているが、鍵受けにかんぬきが引っ掛かってかかりが甘いものは結構ある。
盗まれるものが少ない平民は危機意識が薄く、こんなふうに時間さえかければ開いてしまう錠前を平気で利用していたりするのだ。子ども達の教育によろしくないので、できれば見られずに済ませたかったが。
「とにかく、もうすぐ突入になると思います。多分カラスや仮面の男も外の気配に気付いてる。彼らがこちらに来る前に脱出しましょう」
シェイラを先頭に、ディリアムを殿にして、室外へと踏み出した。まずは手筈通り、アビィの救出だ。
ここではないかと推測していた物置のような部屋の扉を、ほんの僅かな力で叩く。深夜ということもあって気付かないのか、部屋自体を間違えているのか。
扉が分厚いからか、中から人の気配が感じられない。
ここももちろん施錠されている。開けるには時間がかかるので、もたもたしていたら見つかってしまう。目標は一つに絞るしかない。
「僕はやっぱり、ここにアビィがいる気がします。この鍵を開けたい。いいですか?」
「――――分かった。鍵を開けることができるのはお前なんだから、反論は無意味だ。私は見張りをしていよう」
頷くディリアムの隣に、メルヴィスも進み出た。
「俺は念のため、この辺りの部屋を確認してみる。兄ちゃんみたいに静かに確認するから安心して」
リィナ達は邪魔にならないように待機する。
シェイラ達はすぐに動き出した。時間との勝負になる。
ここの錠前も閉じ込められていた部屋と同じ造りだったが、こちらの方が出来がよさそうだ。なかなか深くかんぬきが掛かっている。
焦る気持ちと気温の暑さから、汗が顎へと伝い落ちていった。夜ともなれば夏でも涼しい場所で育ったシェイラには、考えられないような熱気だ。
しかし、何とか解錠に成功する。
すぐに扉を開くと、ベッドもない部屋に小さな人影があった。
「――――アビィ!」
薄茶色の髪が粗末な布の上にこぼれている。少し疲労でやつれたように見えるが、そこに眠っていたのは間違いなくアビィだった。
肩を揺さぶると、焦点の合わない瞳がシェイラに向けられた。
「……お、ねい、ちゃん?」
「――――だからお兄ちゃんだってば」
寝ぼけているだけで、意識の混濁は見られない。おかしな薬を投与されていることはなさそうだ。
思わずきつく抱き締めながら答えると、腕の中でアビィがモゾモゾと動いた。
「……やっぱり、おねいちゃんじゃん」
「………………え?」
視線に込められたアビィの意図を察して、シェイラはすぐに腕を解いた。すっかり忘れていたが、今はさらしをしていない状態なのだ。見た目にはさっぱり分からなくても、さすがに触ればバレる。
シェイラはディリアム達に合流する前にと、急いで言い訳を始めた。
「ごめんアビィ。騙してたことは、ホントにごめん。でも、騎士になるためにはこうするしかなかったんだ。今バレたら退学どころの騒ぎじゃなくなると思うし、できれば黙っててほしい……」
澄んだ眼差しでシェイラを見上げていたアビィは、笑って頷いた。
「分かった。おねいちゃんが騎士様だから、こうして助けてもらえたんだもん。黙ってるって約束する。そのかわり、今度絶対遊んでほしいな」
可愛い脅迫に、シェイラは喜んで屈した。そのかわり、『お兄ちゃん』または『シェイラ』と呼ぶことも約束させる。
ベッドがない以外の待遇に問題はなかったらしく、アビィはすぐに元気を取り戻した。ディリアム達に合流するために廊下に出る。
リィナとは顔見知りだったらしく、二人は再会を喜び合っていた。けれどすぐディリアムに急かされ、廊下を決められた通りに進み始めた。メルヴィスの記憶はとても正確で、戸惑うことはほとんどなかった。
シェイラ達は、そこそこ広い邸内を順調に進んでいた。進路を塞ぐ人影に気付くまでは。
「兵団の突入前に、人質になりそうな子ども達を逃がしておこうなんて、ホントにできすぎたいい子ちゃんだね~」
真っ暗な闇の中から、闇そのものを切り取ったような影がぬらりと現れた。
金緑に光る一対は、まるで夜行性の猛獣のようだった。しなやかな足取り、口元に浮かべた笑みはまさに獰猛。
彼がギルグナー伯爵に戦闘要員として雇われているのなら、戦いを避けられないことくらい分かっていた。
それでもなるべく戦いたくないと思っていたのは、彼の境遇を知ってしまったからと――――圧倒的な戦闘力の違い。
「――――――――カラス」
「全く、相棒が元締めのところに行ってる時にガサ入れがあるなんて、オレも運が悪いな~。一人も逃がさず、かつ傷付けずに捕まえとくなんて、どう考えてもムリでしょ」
言いつつ、カラスは両手に短刀を構えた。
本当に無理だと、本心から言っているのか否か。
カラスと対峙するように、シェイラは進み出た。
「みんな、先に行ってて。ここは僕が食い止める」
左に曲がっても、少し遠回りになるが階段にたどり着ける。むしろ彼の言う通り人が出払っている今なら、特に障害もなく兵団と合流できるはずだ。
ディリアムが巡回兵団に状況を報告すれば、すぐにでも援軍が来るだろう。
「ディリアム先輩、大丈夫ですね?」
背後にいるディリアムをチラリと確認する。彼もシェイラの意図を察したのだろう。左に曲がる通路に子ども達の誘導を始めた。
「誰に物を言っている。――――貴様こそ、死ぬなよ!」
駆けていくディリアム達に視線をチラリと向けたけれど、カラスが追撃することはなかった。
ゆっくりとシェイラに視線を戻す。
――――美しい獣を食い止めるための戦いが始まった。