とある再会
研修が始まり、二週間が過ぎた。
夏の一の月も半ばになると、季節はすっかり夏めいてくる。
頭上に広がる吸い込まれそうな青い空。目映くきらめく白い雲。ギラギラの太陽に熱された王都は今日も気温が高い。
道の向こうに揺らめく陽炎が見える。吸い込む空気まで熱く、鉄板の上で調理される食材のような気分だった。
王都の夏は、山奥の村と比べ物にならないくらい暑い。
本格的に暑くなるのは夏の二の月だから、シェイラは今から憂鬱になりそうだった。
「それにしても意外だな。君にこんな弱点があるなんて」
「コディこそ、こんなに熱いのによく平気な顔でいられるね。僕、もう溶けそう」
王都の巡回中。ふらふらと歩くシェイラに、コディは苦笑した。
周りをよく見て歩かねばならないことは分かっているが、どうしても散漫になってしまう。
「王都って、こんなに暑いんだね…………熱気と湿度がこもってて、山とは暑さの種類が全然違う」
「デナン村は、確か北東の方角にあるって言ってたもんね。ここよりは涼しいんだろうな。僕は王都育ちだからすっかり慣れてしまったけど」
詰め襟の制服をきっちり着こなす友人の姿に、こちらの方が暑くなりそうだ。少数派の着崩している兵団員にならって、シェイラは胸元までボタンを外していた。
ゾラなどは上衣を腰に縛り、潔くシャツ姿になっている。借り物の制服でさえなければ、シワを気にせずシェイラも真似ていただろう。
「どうしよう。こんなんじゃ何か起きた時も対処が遅くなっちゃう……」
腑抜け事件から日が経ち、すっかりいつもの調子を取り戻したイザークが笑った。
「しっかりしろって言いたいとこだが、慣れてないんじゃ仕方ないな。だがいつまでも腑抜けてちゃ話にならないからな?」
「はい、頑張って慣れます……」
ちょっと前まで彼の方こそ腑抜けていたのに、というツッコミは茹だった頭では浮かばなかった。
イザークはあの直後の休日、再び来店していた。なるべく顔を合わせないようにとカウンター下に隠れていたが、痛み止めと抗炎症薬を追加で買っていったことは把握している。その翌日の仕事中、どこか気落ちしていたのが少し気になったが。
あの時、イザークは誰と戦っていたのか。
どこで怪我をしたのかに触れても曖昧にぼかされてしまうため、いまだに詳細を知らずにいた。
誤魔化されるということは、例の失踪事件と何か関わりがあるのかもしれない。学院生には情報規制がかかっているから、おおっぴらには打ち明けられないのだろう。そう悟ったから根掘り葉掘り聞くのはやめた。
何事もなく巡回ルートを進んでいくと、噴水のある大広場に出た。
初めて王都を散策した時のように噴水の周りは賑わっていた。
大道芸人や、リュートを構えた吟遊詩人、手品師や占い師までいる。けれど炎天下の今日、最も人を集めているのはやはり大噴水だろう。
子ども達が服をびしょ濡れにしてはしゃいでいる姿が酷く羨ましい。
「混ざってきちゃ駄目だからね?」
羨望の眼差しに気付いたコディに、先回りして釘をさされた。シェイラは唇を尖らせる。
「分かってるよ、仕事中だもん……」
「仕事が理由じゃないからね?もう15歳なんだから噴水遊びなんかしちゃいけないよって言ってるの」
「えぇ?まだ成人前なのに?」
「――――じゃあシェイラ、想像してごらん。あの子達の輪に混ざって、半裸で水遊びをする寮長を」
慈悲深くさえある笑顔のコディに優しく肩を叩かれ、シェイラは子ども達と戯れるアックスの姿を思い浮かべた。
うなる筋肉、水滴を弾く小麦色の肌。むさ苦しい笑顔。王都の気温を上げているのではないかと疑いたくなるほどの熱気。
まだ幼気のない子ども達に筋肉の素晴らしさを刷り込み、いずれ筋肉同盟にと訳の分からない勧誘をする姿が容易に想像がつく。
禍々しい未来しか描けなくなる光景だった。
――寮長を野放しにしてたらシュタイツ王国は滅びる。たぶん筋肉王国とかにされちゃう……。
シェイラはグッタリと項垂れた。
「更に暑苦しくなるものを想像させないでよ……」
「でも、周囲にどれだけまずい感じで映るか、分かっただろ?」
「そうは言っても寮長は、一般人とは別枠だと思う…………」
疲れた顔でぼやき合う少年達を見下ろし、イザークは苦笑した。
「おいおい。人の弟を引き合いに出しといて、失礼な反応だなぁ」
コディはにこやかに微笑み返した。
「すいません。いかにもやりそうな人じゃないと、想像するのが難しいと思って」
「……コディそれ、謝ってないからね」
この程度のことで無礼だと言い出す相手ではないと研修を通して知っているが、凄みのある笑顔になった彼はいつもより大胆で、問題児扱いされるシェイラですら心配になる。
くだらない会話をしながら噴水の横を通り過ぎようとしていた時、喧騒に負けない声が広場に響いた。
「おねいちゃん!」
噴水の中から、水浸しで駆けてくる小さな女の子には、どこか見覚えがあった。
薄茶色の髪、気の強そうな青い瞳。けれど出会った時その瞳は、心細げに潤んでいたことを思い出す。
「――――アビィ?」
「おねいちゃん、久しぶり!会いたかった!」
濡れた服のまま飛びつかれたが、涼を感じられてシェイラにはありがたかった。むしろ少女の体が冷えきっていて心配だ。
何か拭くものはないかと探していると、タオルを持った女性が慌てて駆け寄ってきた。
「すいません!この子ったら、びしょ濡れのまま……」
タオルを万端用意していたということは、おそらくアビィの母親だろう。女性が差し出すタオルで、シェイラはアビィを包み込んだ。
少女の水気を拭き取っていると、母親が恐縮そうに手を振った。
「まぁ、そんなことまで。うちの子は後回しでいいですから……」
「僕こそ後回しでいいですよ。むしろ彼女のおかげで涼めたので幸運でした」
話している間にも、アビィの髪の毛をごしごしと拭き続ける。少女が楽しそうに、高い笑い声を上げた。
アビィはタオルの隙間から、シェイラに向かって微笑んだ。
「あのね、あのあとすぐにお母さんに会えたんだ。兵団さんとおねいちゃんのおかげだよ!おねいちゃん、本当にありがとう!」
「……どういたしまして」
胸が熱くなって、それ以上の言葉が出てこなかった。
あの時シェイラはほとんど何もできなかったけれど、こうして一人の少女の笑顔を取り戻せたのだ。
ほんの少しでも、誰かの役に立てた。
――これが、巡回兵団の仕事なんだ。
街に暮らす人々の笑顔を守る。それは、王族を護るためだけに存在する騎士団の仕事とは決定的に異なっていた。
研修という名目なのに、行きたい職場を選べないことにずっと疑問を感じていた。けれどその存在意義を、今初めて分かった気がする。
仕事の内容だけなら聞けば理解できる。そうではなく、実際体験することでその本質を知るために、この研修という学びが用意されていたのだ。
密かな感動に胸を震わせているシェイラの背後から、ポツリと誰かが呟いた。
「…………『お姉ちゃん』?」
一気に現実に戻りぎこちなく振り向くと、ハイデリオンの動揺をはらんだ浅羽色の瞳と目が合った。
まずい。アビィの呼び方にすっかり慣れてしまって、男だという訂正を忘れていた。
「こ、この子、何度訂正しても覚えてくれなくて。本当に困ってるんだ。アハハー……」
取って付けたような乾いた笑い。どうしようもなく気まずくなりそうな状況で、空気の読めないディリアムが発言したのは、シェイラにとって救いだった。
「この生意気な猿が女であるはずないだろう!」
一点の曇りもなくキッパリ断定する彼に、少々複雑な気持ちになりながら、シェイラも自棄になって続いた。
「そうそう。僕みたいな野生児が女の子だったら、世の中の猿はみんなメスだよ」
最早自分でも何を言っているのか分からない。だがこの自虐発言が功を奏したのか、ハイデリオンの視線も外れた。
「おいお前ら、行くぞ」
ゾラが巡回ルートに戻ろうとしていた。シェイラも慌てて立ち上がる。
「ごめん仕事中なんだ、すぐ行かないと。アビィ、今度はお母さんとはぐれないようにね」
「うん。私だって、もうついてったりしないよ」
背を向けかけていたシェイラだったが、アビィの切り返しに言い知れぬ違和感を覚えた。
一見会話が成立しているようで、全く認識が食い違っているような。
改めて彼女の容貌を観察する。
くりくりの大きな瞳。今は湿っているけれど、薄茶色の髪は日に透けると金髪にも見えた。柔らかそうな頬。綺麗な形の唇。
不意に、ゾラの声が頭の中で甦った。
――拐われるのは、顔立ちの整ってる子どもが多い…………。
ずっと頭に引っ掛かっていた疑問があった。
何かに夢中になった子どもが親から離れてしまうのはあり得ることだが、彼女がいた辺りには子どもの目を引くようなものは決してなかった。
ではアビィは、なぜ母の手を離したのか?
その時だけ、好奇心を刺激する何かがあったということではないだろうか。
……アビィの気を惹くためだけに。
シェイラは座り直すと、少女の細い肩に手を添えた。
「ちょっと聞かせてほしいんだけど、もうついてったりしないって、どういうこと?」
アビィは悪戯がばれたような顔になりながらも、渋々答えた。
「迷子になった時、綺麗な髪飾りとリボンを売ってるおじさんがいたの。お代はいらないって言うから怖くなっちゃって、逃げたら、おねいちゃんが声を掛けてくれたんだよ」
――――糸口が、ここにあった。