困ったこと
初日は平和に終わったが、二日目にはスリに二度遭遇した。職人同士の殴り合いを止めに入ったし、酔っぱらいが用水路に落ちかけているのを救助した。
大きな事件や事故は起こらないけれど、充実した慌ただしい日々が過ぎていく。
研修が始まって六日目、一日の流れにも少しずつ慣れ始めた頃、シェイラはある問題に直面していた。
それは、コディ達と所定のルートを巡回していた時のこと。
兵団の制服を見て、平民街の住民は気軽に挨拶をしたり会釈をして、続いて制服に着られているようなシェイラ達に目に留め、微笑ましげな視線を送る。
誰もがそうしてスッと避けていく中、彼らの足を止めるように立ち塞がる者がいた。
ひょろりと長身だが、半袖から伸びる腕には職人らしくしっかりと筋肉がついている。
茶色の瞳に驚愕を映しているのは、エイミー薬店に芍薬をお裾分けしてくれたノーマンだった。彼は真っ直ぐシェイラだけを見つめている。
経験上、シェイラは心底不思議そうな表情を顔に張り付けることができた。ここでギクリとして不自然に目を逸らしてしまえば、話は一気にややこしくなる。
「………えーと?」
心持ちいつもより低めの声を出す。するとノーマンは弾かれたように我に返った。
「あっいや、すいません不躾に。知り合いに、あまりに似ていたもので……」
彼の低い声には明らかな動揺があり、心に申し訳ない気持ちがよぎった。ノーマンの動揺の理由はこちらにあるのに、しらを切り通さなければならないのだ。
「そうなんですか」
素っ気なく頷いて話を終えようとするシェイラに、ノーマンは食い下がった。
「その……お姉さんか妹さんはいらっしゃいませんか?」
「――――兄弟は、兄だけですよ」
ごめんなさい、ごめんなさいと心の中で平謝りしながら、あくまで他人の顔をしてノーマンの横を通りすぎた。無理矢理にでも話を打ち切らないとボロが出てしまいそうだった。
未練げな視線を背中に感じるが、彼は追いかけては来なかった。シェイラは知らず詰めていた息を吐き出す。
「……大丈夫?」
成り行きを見守っていたコディが、気遣わしげに覗き込む。
シェイラは急いで笑顔を作った。
「うん、ありがとう。ごめんね、足止め食っちゃって」
「そんなことは気にしなくていいんだけど……何だか多いね、人違い」
「………………」
コディの言う通りだった。
巡回中、こうして引き止められるのは、実は初めてではなかったのだ。
「よっぽどシェイラに似た人がいるんだろうね」
「そうかもね…………」
大変になるのは研修が始まってからという自覚はないのか、と以前クローシェザードは言っていた。
――予言めいたあの発言は、こういうことだったのか……。
薬店を訪れる客の数は多かった。下町を歩き回れば顔見知りになった人に遭遇してしまうと、なぜ気付かなかったのだろう。
せめて働き始めるにしても研修期間を終えたあとにすればよかったと、今さらながらに後悔している。
薬店で働くシェイラを知る者を回避しようにも、不審者のように顔を隠す訳にもいかないため困り果てていた。唯一違和感なく顔を隠せそうなものといえば眼鏡だが、それではむしろ薬店の真面目シェイラに近付いてしまうため、打開策が見つからない。
既にトマスやロイ、ジェレミーなどの常連客を、他人の空似作戦で騙している。嘘が苦手なシェイラにとって、別人であると誤魔化すのは精神的に堪えていた。
――エイミーさんに、今月いっぱいは休ませてほしいって、ちゃんと言えばよかった…………。
どうしてもと頼み込まれて断りきれず、月に一度、薬の材料が大量に搬入する日だけは、休みだったら出勤することを約束してしまっていた。そしてその日は、兵団に入って初めての休日――――明日だった。
――休日も潰れて、地獄のように忙しくなるだろうなって、それだけで気が遠くなりそうなのに…………もし薬店に巡回兵が来たら、ますますややこしいことになりそうだよ……。
頭の痛い問題に、知らずため息がこぼれる。それを聞き咎めたのは、今日は殿を歩いていたイザークだった。
「巡回中に気を散らすべきではないぞ」
厳しい叱責に、シェイラは慌てて姿勢を正した。確かに俯いていては、どこかで起こっているかもしれない異変を見逃してしまう。
「すいません、イザーク様。そうですよね、何が起こるか分からないのに私事で気を取られ、軽率でした」
すぐに謝罪するシェイラに、イザークが軽く笑んで頷き返した。
「シェイラ、俺に様はいらないぞ。ゾラと同じように呼んでくれ。お前らもな」
イザークが学院生を見回して言った。ディリアムもハイデリオンも恐縮そうに頭を下げている。
無駄な爽やかさのせいで弟のアックス同様何も考えてなさそうに見えるが、年のためか意外としっかりしている。頬に浮かぶ笑みにも頼りになりそうな力強さが窺える。
「とはいえお前らの研修中には、何も起こらないのが一番いいんだがな……」
歩き出しながら、イザークがぼやくように呟いた。
シェイラは首を傾げる。既にスリや喧嘩など、些細ながら事件は起きているのに、何だかおかしな台詞だ。
「――――それって、何か不穏な事件が起きているってことですか?」
何の気なしに放った質問は、どうやら核心をついてしまったようだ。イザークの横顔がはっきりと強ばった。
彼は先頭を歩いていたゾラと一瞬だけ視線をかわすと、シェイラに苦笑を向けた。
「……お前は全然話を聞いてなさそうな気の抜けた顔をしている癖に、やけに鋭いな」
「よく言われます」
「なら直せよ。せめて真面目な顔くらい作れるようになっとけ」
「これでも精一杯真剣な顔をしてるつもりなので、不本意な評価なんですよ」
軽口を叩き合っているものの、お互い目は真剣だ。
おそらくイザークが言っていたのは、巡回兵団全員が知っている情報。
けれどその内容を学院生に漏らしてはならないと申し渡されているのだろう。生徒を関わらせるにはあまりに危険な内容だから、研修期間は何事もなければいいと言った。
既に事は起こっているのだ。しかも彼の口振りからおそらく、数度に渡って。
静かに見つめ合う二人を、コディ達は固唾を飲んで見守っている。
立ち止まる巡回兵団に、王都民も訝しげに注目しつつあった。
先に口火を切ったのは、イザークだった。
「……ゾラ、俺は話すぞ」
名指しされたゾラが太い眉をしかめる。
「お前自ら規律を乱してどうする。学院生の規範となるべき立場だっつーのに」
「俺は元々黙っていること自体、反対だったんだ。向こうはこっちの都合なんか考えちゃくれねぇ。こいつらがいる間に事件が起こる可能性は皆無じゃないんだ。何も知らなければおかしな巻き込まれ方をするかもしれない。でも知っていれば、ちょっとはまともな判断ができるかもしれない。そうだろう?」
ゾラとイザークは厳しい視線をかわし合う。
年齢差はあるが、彼らはおそらく親しい仲なのだろう。本音をやり取りできる点に信頼が窺えた。
ゾラは腰に片手を当て、眉間を軽く揉んだ。
「……そう言ってくれるなよ。オレだって思うところはあるが、団長命令は絶対だろ?」
「でも、こいつらは気付いちまった。中途半端に知ってるより、ちゃんと教えた方が絶対いい」
イザークの言葉に、ゾラは固そうな髪をガリガリと掻く。次に顔を上げた時、彼の瞳にははっきりと覚悟が宿っていた。
往来で立ち止まっていたシェイラ達を、ゾラは裏路地に誘導する。ひと気が少なく、密談にはもってこいの環境だ。
先導していた彼がくるりと振り返った。
「よしお前ら、これはあくまで一人言だ。聞くも聞かないもお前らの自由。黙ってられない奴、単純に怖いと思った奴は耳塞いどけ」
ディリアムとハイデリオンが視線をかわした。コディも足元に視線を落としている。
シェイラだけは、ただゾラを見つめていた。
イザークが言うように、何も考えていないようにさえ見える気の抜けた表情。けれどそれは、どんなことが起きても冷静に切り抜ける、クローシェザードの泰然さにも似通っていた。
コディ達はそんなシェイラを見て、スッと心が鎮まっていく。
……結局、誰も耳を塞ぐことはなかった。
ゾラが一つ頷き、ひそめた声で告げる。
「――――最近王都で、幼児の失踪事件が頻発しているんだ」