温かな居場所
夕方になると、コディが少し早い夕食を持ってきてくれた。
前回の猪肉のお礼にと、食堂のおばさんがシェイラの分だけパン粥を用意してくれたらしい。
ありがたく完食して横になる。体が芯から温まり、すぐにうとうとし出した。
再び目覚めた時、ずっと付いていてくれたコディの姿が見当たらなかった。夕食の時間帯なので食堂に行っているのだろうか。
いつの間にか随分と寝ていたらしい。窓の外には既に夜の帳が落ちていた。
薬が効いてきたのか、熱は大分下がったようだ。汗でベタついた体が少し気持ち悪いが、思考ははっきりしている。
ぼんやり天井を見上げていると、耳がかすかな物音を拾った。もしかしたら人の気配を察して目が覚めたのかもしれない。
扉を静かに開けたのは、レイディルーンだった。
驚きを隠せずに凝視していると、彼は紫の瞳で睨むようにして口を開いた。
「起きていたのか」
部屋に忍び込んでおいて勝手な言い草だと思ったが、シェイラはとりあえず受け入れることにした。
傲岸な振舞いで分かりづらいが、彼とはそこそこ親しくなったつもりだ。勘違いでなければ見舞いに来てくれたのだろう。
「……この部屋に危険物があるという噂を聞いたので、気になって来てみたのだ」
「危険物って。そんな物騒な物を隠し持ってると思います?」
言い訳がましいレイディルーンの物言いに、シェイラは起き上がりながら肩をすくめてみせた。体調が回復してきたため今度は目眩もない。
魔石を加工した魔道具の灯りをつけ、ベッドサイドに置く。部屋全体を照らす光量には程遠かったが、近くにいれば表情くらいは判別できそうだ。
シェイラはいつまでも戸口に突っ立っているレイディルーンに椅子を勧めた。彼は逡巡ののち、渋々といった体で簡素な丸椅子に腰を下ろした。
「まぁいい。ついでに見舞いをと思い、果物を幾つか見繕ってきた。使用人は出掛けているのか?」
「使用人なんていませんよ。僕は平民なんですから」
リグレスといい、貴族にとって使用人がいるのは当たり前という認識らしい。
「では、起き上がれるようになったら食べるといい」
レイディルーンは籐製の籠をベッドサイドのチェストに下ろした。籠の中にはこの時期には珍しい葡萄が入っている。瑞々しい果実を見て、シェイラは途端に喉の渇きを覚えた。
どれほど物欲しげな顔をしていたのだろう。レイディルーンがたじろぎながらも口を開いた。
「……何か食べたいものがあるのか」
「その葡萄が食べたいです。のどが渇いてて」
「のどが渇いているのなら、水を飲めばいいだろう」
「甘いのがいいんです」
「…………つまり、私にどうせよと言うのだ?」
会話の間にも、シェイラの視線は輝く葡萄の実に釘付けだった。普段ならばもう少し気を遣う相手であるのに、言葉が脳を介さず漏れていることに気付かない。
「食べるから、取ってください」
「病床の者に果物の皮を剥かせるような冷たい真似が、私にできると思うのか?」
「じゃあ、食べさせてくれるんですか?」
レイディルーンがこめかみを引きつらせる。
リグレスのように怒鳴らないのは、病人を労る優しさを持ち合わせているからだろう。
我が儘を言ったけれど、本当に彼が葡萄の皮を剥いてくれるとは思っていなかった。こう言えばシェイラに寄越してくれるだろうという、あくまで作戦だったのだ。
だから、レイディルーンが葡萄をぎこちなく剥き始めた時には、熱で頭がおかしくなったのかと思った。
彼の手の中にあると、葡萄が酷く小さく見える。
自分で剥くのは初めてのようで悪戦苦闘していた。力加減を間違えて潰したり、果皮と一緒に果肉まで削げてしまったりしている。飛び散った果汁が彼の顔を汚した時は、流石に何と言えばいいのか分からなかった。
それでもレイディルーンは、何とか皮を剥き終えた。手はすっかりベタベタになっている。
なぜ、とシェイラは不思議に思う。ここまでしてもらう理由はないのに。
「ホラ、口を開けろ」
仏頂面のレイディルーンが葡萄を一粒摘まむ。差し出されるまま、シェイラはパクリと口に含んだ。
冷たい果実が喉を潤す。甘くて、もっと欲しくなる。
「もっと、」
その時、レイディルーンの指先に目が吸い寄せられた。透明な果汁が指を伝って、滴り落ちようとしている。
シェイラは咄嗟に甘い果汁を舐めとった。ついでとばかり、レイディルーンの指もペロッと舐める。
「…………甘い。おいしいです」
体を離して感謝の気持ちを告げる。
なぜか彼はそのままの体勢で固まっていた。
レイディルーンがゆっくり膝に顔を埋め、絶望的な呻き声を上げた。
「………………危険物、か」
何を落ち込んでいるのかサッパリ理解できなかったが、すぐにハッとした。
普通に舐めてしまったけれど、よく考えなくても無作法だった。子どもの頃からフェリクスと当たり前のようにしていたから、気付けなかった。
彼は落ち込んでいるのではなく、怒っているのだ。けれどこちらが病人のために、強く出られないでいる。
シェイラは慌てて頭を下げた。
「すいませんでした。物凄く無礼なことを……」
「いい。そういえば、お前は山猿だった」
「そうなんです。レイディルーン先輩からすれば、僕なんて本当に山猿にしか見えないと思います」
あっさり肯定すると、レイディルーンが少し顔を上げた。
淡い紫の瞳が、まるで野生動物のように、明かりの少ない部屋で静かにきらめいている。宝石みたいだ、とシェイラは思った。
先ほど舐めた紫の果汁を思い出して、何だか特別なものを口にしたような気持ちになる。神聖で、比類なく、極上の。
レイディルーンもまた、じっとシェイラを見つめていた。
暗がりの中にいて、薔薇色の髪も黄燈色の瞳も、特別に際立って見える。それ自体が光を放っているようだった。
闇に溶け込みそうな滑らかな頬、淡く色付いた唇。シェイラを形作る全てに侵しがたい危うさを感じながら、彼の口は勝手に動いていた。
「……いや。生命力の輝きだろうか、お前は初めから――――――」
レイディルーンの言葉は、最後まで紡がれることはなかった。誰かが扉を叩いたのだ。
「失礼する」
冷厳な声が響くと共に、パッと部屋が明るくなる。
扉付近にある魔道具を作動させたのは、孔雀石色の瞳を不本意そうにすがめたクローシェザードだった。
彼は何よりもまずレイディルーンに視線を止め、深々とため息をついた。
「見舞い客が来ているのならば、もっと明かりを付けるべきだ。ぞんざいな対応は失礼にあたる」
「あ、そうですよね。すいません、気が利きませんでした」
シェイラはすぐに頭を下げたが、レイディルーンはまともに聞いていないようだった。入り口に立つクローシェザードをじっと見つめている。
それはいつもの神経質そうな姿で、先ほどまで親しげにさえ見えていたのは、きっと暗かったせいなのだろう。
レイディルーンが無言で立ち上がった。シェイラは歩きだした背中にすかさず声を掛ける。
「あの、お見舞いに来てくださってありがとうございました」
「…………明日までには元気になっていろ」
「はい、頑張ります」
クローシェザードと入れ替わるように戸口に立ったレイディルーンが、肩越しに振り返った。鋭い目元を少しだけ和らげて、シェイラを一瞥してから去っていく。
パタリと扉が閉じると、重い沈黙が室内を支配した。
シェイラは内心、戦々恐々だった。
貴族への対応がなっていないと、また怒られるのだろうか。色々まずい点だらけだろうが、レイディルーンに葡萄を剥いてもらったことだけは絶対に黙っておこう。
あまりにも長く沈黙が続くから、恐るおそる顔を上げる。
驚いたことに、クローシェザードはシェイラを見てすらいなかった。しげしげと、室内を見回していたのだ。
「…………何ですか、ジロジロと」
何の変哲もない部屋なのに、ここまで注目されるのは初めてだ。今まで普通に誰でも通していたが、何だか急に恥ずかしくなってくる。
けれど彼は、特にあら探しをしている訳ではないらしい。その表情からは純粋な好奇心が見て取れる。
クローシェザードがようやくシェイラに視線を向けた。
「いや、すまない。……どことなく私の教員室に、雰囲気が似ている気がしたのだ」
シェイラは呆れて首を傾げた。何を心底不思議そうに言っているのだろう。
「そんなの当然でしょう。クッションも花瓶も、全部私が持ち込んだんですから。前に改造するって、ちゃんと宣言しましたよね?」
窓辺に飾られている花ですら、先ほどまでは同じものだったのだ。
今までクローシェザードの手が一切入っていなかったのだから、シェイラの趣味になってしまうのも道理だった。
「そうか…………それもそうだな」
「何を驚いてるんですか」
いつも冷静な彼にしては珍しい、戸惑った表情だった。そのままベッドの側の丸椅子に腰かけたものの、何だか妙に居心地が悪そうにしている。
シェイラの部屋を見て急激に、教員室のインテリアが気に入らなくなったのだろうか。だとしたらクローシェザードが好きに模様替えすべきだと思うが。
「よく分からないですけど、お見舞いなんていいですから、教員室でも雑貨店でも行けばいいと思いますよ」
「よく分からないのはこちらの方なのだが。なぜ私が今から仕事をしたり、出掛けたりせねばならないのだ?」
シェイラに的確な指摘をしている内に、本来の目的を思い出したクローシェザードは何かの本を取り出した。
「見舞い品だ。受け取りなさい」
「えー……。そんな見舞い品ってありますか?」
合理性を愛する彼が持ってきた本には、でかでかと『貴族名鑑』の文字が踊っている。正直受け取りを拒否したい。
クローシェザードがさも当然と言わんばかりに主張する。
「これは家系図から現在の当主、その家に代々伝わる家紋まで網羅した、とても分かりやすい貴族名鑑だ。これから貴族との付き合いも多くなるし、知っておいて損はない」
「病床の教え子に、何て鬼畜な」
「どうせ君のことだ、読んでいる内に寝てしまうに決まっている。頭が疲れて早く眠れるのなら、体力回復にはもってこいだろう」
その作戦だと体力は回復しても、気力が根こそぎ搾り取られる気がする。本気で悪魔のような発言だ。
「他の人は、果実水とか花とか持ってきてくれたのに……」
「最も気が利いているだろう?」
「最も人道にもとっています」
がっくりと項垂れていたが、膝の上に重い本を載せられた。どうやら逃れられないらしい。
「起きていて大丈夫なのか?」
攻防に勝利すると、クローシェザードが柔らかい声に変わった。
シェイラは大きく頷く。
「大分調子が戻ってきましたよ。朝になったら治ってると思います」
「そうか。授業を休まずに済むのなら、よかった」
これも他人が聞けば鬼畜発言に思えるかもしれないが、シェイラも似たように考えていたから分かる。
これは、嫌がらせをしてくる連中に隙を見せるなという、彼なりの気遣いなのだ。
「絶対に負けないって、今日決意を新たにしたところです。こんなに沢山の人達に励まされて、へこんでる場合じゃありませんから」
「君でもへこむ時があるのか」
「そりゃありますよ。流石に熱のある間は結構落ち込みました。でも、もう大丈夫です」
「そうか」
クローシェザードが、滅多に見せない微笑を浮かべながら、シェイラの頭を優しく撫でる。髪の流れに添うような手付きが気持ちいい。
これこそ、何よりのお見舞いかもしれない。
しみじみと思いながらゆっくりまぶたを閉じた。