魔術と精霊術
とにかく始業式までに詰め込まねばということで、一日休息を取るとすぐに兄の教育が始まった。
とはいえ兄も多忙のようで、付きっきりというわけではない。しかしここぞとサボろうとするシェイラの監視は、執事のリチャードが完璧にこなした。最低限の勉強を終えねば入学の話は取り消す、とまで脅されれば、デスクにかじりつくしかなかった。
今日は三日ぶりに兄の授業だ。
広々としたテーブルに、二人並んで座る。シェイラが羽ペン片手に頭を抱える横で、フェリクスは何やら書類にサインをしている。形式ばっていてシェイラには解読不能だが、どこかの領地の街道の整備だとか、また別の領地の橋の補強だとか、そんなことが書かれているらしい。なぜ兄がそんな書類仕事をしているのか、やはり謎である。
視線を感じたのか、フェリクスが書類から顔を上げた。
「どうやら集中力が切れてきたみたいだね。そのまま続けても効率が悪いし、そろそろ休憩にしようか」
フェリクスが言うことを見越していたみたいに、ルルが紅茶と茶菓子を運んでくる。砂糖がたっぷり使われた焼き菓子は、王都に来てからシェイラの大好物になった。村での甘味は果物か蜂蜜しかなかったし、それだってかなり貴重で贅沢なものだった。
キラキラと瞳を輝かせるシェイラの前に、切り分けられた菓子と紅茶が置かれる。
「今日の紅茶はお嬢様の好みに合わせて、蜂蜜とミルクをたっぷり入れております。ブルーベリーパイとお召し上がりください」
元々薬草茶ばかり飲んでいたため、シェイラは紅茶の味に馴染みがなかった。けれど王都で主流ならば慣れる必要があると思い、我慢して飲んでいたのだが、ルルには見抜かれていたようだ。甘くすることで独特の渋味が気にならなくなるらしい。
貴婦人の手首のように華奢な取っ手を持ち、早速紅茶に口を付ける。
「おいしい!おいしいよルル!」
「喜んでいただけたなら、よかったです」
壁際に下がったルルが控えめに微笑んだ。
「これなら何杯でも飲めそう……」
「はしたないからがぶ飲みは禁止だよ。お前は極端だから、紅茶だけで満腹になりかねないし」
半ば本気でティーカップを覗き込んでいたシェイラだったが、行動に移す前に釘をさされた。さしたフェリクスがあまりに優雅にカップを傾けていたため、反論ができなかった。
気を取り直し、シェイラはブルーベリーパイに視線を移した。つやつやと輝く大粒のブルーベリーがたっぷり載っている。その下にはカスタードが詰まっていて、バニラの香りが鼻先をくすぐる。こんがりとした焼き色といい、織り成す多重な層といい、芸術的なまでに美しかった。
「都会のお菓子って、見た目から楽しめるね」
「シェイラにもそんな女性らしい感覚があるんだね」
「……時々、フェリクスが私を何だと思ってるのか疑問に感じる」
不満満載に呟くと、フェリクスがふと相好を崩した。ブルーベリーパイを一口サイズに切り分け、シェイラの口元に運ぶ。
「可愛い妹だと思っているよ。何を仕出かすかヒヤヒヤして目が離せないところも、お菓子をおいしそうに食べるところも、ね」
目の前にちらつかされた甘い誘惑に耐えきれず、シェイラはパクリと頬張った。おいしいものを食べていると、怒りが持続しない。フェリクスにまんまと懐柔されるのは悔しいが、口いっぱいの幸福感に顔がほころんでしまった。
「フェリクス様、お行儀が悪いですぞ」
「だって、お菓子一つでコロリとご機嫌になるところも可愛いのだから仕方ないよね」
リチャードの咎め立てにも、フェリクスは反省する素振りを見せない。視線は幸せそうな妹の笑顔に注がれている。
「もう少し教養にも時間を割いた方がよかったかもしれないね。もうすぐ始業式だから、今さら言っても仕方ないけれど。とりあえず余計な問題を起こさないために、貴族には近付かないようにするんだよ」
フェリクスの注意に対し、パイに舌鼓を打ちながらこくこく頷いた。
そんなシェイラの口元に付いたカスタードに気付き、フェリクスが親指で優しく拭う。おいしそうに食べる妹を愛しげな眼差しで見つめたまま、指に付いたカスタードを舐める。
さながら恋人同士のような甘い空気に、リチャードは言葉もなく顔を覆った。シェイラが平然としているということは、これがこの兄弟の日常なのだ。いちいち反応していてもきりがない。
「それにしても、難しい書類を読めるなんて、フェリクスはすごいよね。何でそんなに勉強できるの?村には本なんてなかったのに」
デナン村では勉強する環境が整っていなかったはずだ。なのに彼ときたら、分からない箇所を質問するとスラスラ答えてくれるし、噛み砕いて丁寧に教えてくれる。おかげで体を動かす方が好きなシェイラでも何とか勉強を続けていられるのだが、やっぱり不思議だった。
フェリクスは崩すことなく綺麗にパイを食べ進めながら答えた。
「僕は村に行く前に、一通り学び終えていたからね」
何てことなさそうな口振りだが、両親に拾われたのは6歳の頃だと言っていたはずだ。
「嘘でしょう?6歳の子どもなのに、15歳で習う範囲を終えてたってこと?」
シェイラなど、親の手伝いもせず遊びほうけていたくらいの年齢だ。むしろ今現在でさえ難しすぎて頭を抱えているというのに。
フェリクスは、どことなく寂しげに笑った。
「……あの頃は、当時の家族仲が良好とは言い難くてね。誰よりも秀でていなければ、と常に思っていたよ」
デナン村に来る以前の話をする時、フェリクスはいつもこんな顔をする。憂いの混じった横顔は静かで、銀色の睫毛の向こうに隠れた瞳は透徹としていた。
悲しい顔をしてほしくなくて、フェリクスの手に手を重ねた。ぎゅうっと握ると、彼はシェイラを見つめ、やがてふわりと微笑んだ。
「……だから僕はね、あの村で暮らせて本当によかったと思っているんだ。もちろん、平民が術を扱うと知って、目から鱗が落ちたのもある。けれど何より、最低限の衣食住と温かい家庭さえあれば、何もいらないんだと知れた。のんびりと息を抜くことの大切さもね」
フェリクスの笑顔に胸が温かくなる。けれど彼の言葉には、理解できない部分があった。
「平民が精霊術を使うのは、おかしなことなの?」
首を傾げると、フェリクスの眼差しが真剣味を帯びる。
「そうか、シェイラはそれが当たり前で生きてきたから……」
口の中で呟くと、彼はシェイラの肩に手を置いてしっかりと目を合わせた。
「いいかい、よく聞いて。王都で暮らしていく上で、これが一番重要な約束だ。精霊術を絶対に使用しないこと。どうしても使用しなければならない時はばれないようコッソリ使うか、事前に相談してほしい」
「何で?」
「うーん。お前に説明して、果たして分かってくれるか……」
今まで当たり前に使っていたものを禁止される理由が分からない。直ぐ様聞き返すと、フェリクスはがっくりと項垂れた。
「魔法というものは、本来貴族のみが使えるものなんだ。魔力の高い子どもを作るため、貴族達は代々魔術師同士で結婚を繰り返してきた。だから魔法の素養がある庶民は存在しない。庶民には風を操ることも水を生み出すことも、不可能なんだ」
「でも、村中みんなが使ってたよ?」
火をおこす時には火種を、それを煽るために風を起こしていた。土を肥やすために枯れ葉や枝から腐葉土を作ったり。山奥の村なのに食糧にも水にも困ったことがないのは、それゆえだった。
「そうだね。僕も村の一員になった時、驚愕したよ。庶民に魔法が使えるなんてね。魔術とは空気中の魔素を集めて行使するものなんだけど、精霊術は根本的に仕組みが違う。精霊に頼ることで魔素をより容易に集められるようになるから、魔術よりも小さな力で大きな効果が得られるんだ。はっきりいって画期的すぎる。これは革命と言っても過言じゃない。だからこそ、村でも部外者がいる場での精霊術は禁止されていただろう?」
「そういえばそうだったかも……」
「何でそんな決まりがあるのか、一度も考えたことはなかったのかい?そもそもあの村に住んでいたって、この程度のことは知っているはずなんだけれどね。一般常識から教えなきゃいけないなんて、先が思いやられるな」
ぼんやりとした受け答えをするシェイラに、フェリクスはやれやれと首を振った。
「とにかく、もしこれが広く知られれば、貴族が庶民を牛耳っていた今までの方程式が成り立たなくなる。この国は根幹から揺らぐ。君を利用しようとする者、逆に疎ましく思い排除しようとする者、様々な人間が君に近付くことになる。君は無理やり政治の中心に引っ張り出されるかもしれない。僕はそれを避けたいんだ。だから、精霊術を使うのは禁止。分かった?」
しばらく静止していたシェイラが、おもむろに蜂蜜ミルクティを飲む。真っ直ぐフェリクスを見つめ返し、こくりと頷いた。
「難しすぎてよく分からなかったけど、つまりよっぽど緊急の時以外は精霊術を使っちゃいけないってことだね」
「…………うん。まぁそうだね」
だから初めからそう言っていたのに、というツッコミをフェリクスが呑み込んだため、その場に居合わせた全員がそれに倣ったのだった。