誇り
頓珍漢な会話のせいでディリアムが苛立っているように見えた。シェイラは宥めるように答える。
「そりゃ少しは怖いし、ちょっと辛いものもあります。でもここで負けて逃げ帰るわけにはいきませんし、この程度のことで騎士になる道を諦められません」
もちろん恐怖もあるが、シェイラの中に渦巻いている大半は悔しいという感情だった。
平民というだけで差別されなければならない理不尽さ。身分差があるため反論することもできない不満。
わだかまりを抱えたまま対峙しているから、自分でも分からない内に挑発的になっているのかもしれない。ディリアムはまたもやこめかみを引きつらせた。
「この程度、だと?」
「…………この程度は失言だったかもしれません」
相性が悪いのか、どうしても彼の感情を逆撫でしてしまう。
正直、加害者になぜここまで気を遣わなければならないのかと腹立たしい気持ちもあるのだ。水浸しのままいつまでも話し込んでいるのだって馬鹿馬鹿しい。
――でも、ダメだ。ここで反論したら、今までと何も変わらない。一ヶ月頑張って礼儀も貴族との付き合い方も学んだ。ここは、穏便に。
「申し訳ありませんでした」
「貴様、上辺で適当に謝っているだろう! さっきも少し、とかちょっと、とか言っていたではないか!」
「あ」
しっかり聞き咎められていたらしい。素直すぎる自分に困ってしまう。
「ロッカーを水浸しにしたことも、教科書を破いたことも、貴様にとっては大したことではないと?」
「……………………」
対するディリアムも素直さでは負けていない。何だろう、この自白合戦。
しかし教科書を破かれていたとは知らなかった。
ビリビリに破いたのではなく、どこか数ページを綺麗に切り取っていたのかもしれない。後々授業が進んだ時にでもなければずっと気付かないままだっただろう。やはり上品な貴族のやることは一味違う。
「もちろん困ってますが、どうとでもなりますから」
何とか答えると、シェイラは再び頭を下げた。
辞去の合図のつもりだったのに、ディリアムはそうと受け取らなかったようだ。
「私がやったと言っているんだぞ? 目の前に犯人がいるというのに頭を下げるのか」
嘲るような物言いに、心の内を引っ掻かれたような気がした。
以前、少し絡まれただけで苛立ち、無意識に殺気を漂わせてしまったことがあった。そうならないよう必死で心を落ち着かせようとしているのに。反論をせずに受け流し続けるのは、貴族と摩擦を起こさないためなのに。
「……貴族に逆らえば断罪されて、従えばそれすら咎められて。言動が矛盾してません?どう対応するのが正解なんですか?」
爆発しそうな感情に、声がぞろりと低くなる。
対するディリアムもどんどん感情的になっているようだった。
「正解どうこうではない! 騎士になりたいと言うのならば、貴様に誇りはないのかと言っているんだ!」
騎士の誇り。ディリアムがそう口にした途端、怒りに明滅していた頭がにわかに冷えた。
言われるまでもない。シェイラの誇れることはただ一つ。
「僕の誇りは騎士になること。騎士を目指すこと自体が誇りそのものなんです。その課程で起こるどんな問題も、苦難も――――僕にとって誇りを汚すことにはなりません」
淡々と、ただそこにある事実を告げるように。
揺らぐことない黄燈色の瞳に気圧され、ディリアムは後ずさった。
ふと、前髪から流れ落ちた雫に、シェイラが片目をつぶる。まるで美しい獣と対峙しているような、圧倒的な存在感。
ディリアムは不覚にも動揺した。この山猿の気迫に呑まれるなんて、どうかしている。
真っ直ぐ進む道を見据えた姿に敗北感を覚え。庶民に気圧されてしまった己を恥じ入り。ディリアムはその場を退く以外、何もできなかった。
◇ ◆ ◇
「あー……、やっちゃった」
シェイラは肩を怒らせて去っていくディリアムの背中を見つめながら、髪をくしゃくしゃに掻き乱した。
反論は封印したはずだったのに、結局口答えしたも同然だ。彼が怒るのも無理はない。
もしかしたら、こちらが反論するのを待ち構えていた可能性もあるのに。これを契機に弾劾されても、それこそシェイラは反論できない。
――そこまで悪どいこと考えそうな感じでもなかったけど……。
何だかすっかり疲れてしまって、校舎に背を預けてズルズルと座り込む。図書館にはもう行く気になれない。
「こんな格好じゃ、どうせ行けないけど…………」
シェイラはみすぼらしい全身を見下ろした。
濡れて肌が透けるシャツ。ぴったりと貼り付いた下履き。歩くたびに水が染み出す嫌な感触のする革靴。何というか、とても人前に出られる格好ではなかった。
体の線を隠すものが胸当て一つだけでは心許ない。今まで悲しくなるほど疑われたことのない性別だが、これは流石にまずい気がする。
誰に出会うかも分からないのに、部屋に戻ることはできない。かといって、誰かに頼んで着替えを取りに行ってもらうことも不可能だ。
「クローシェザード先生に禁止されてるから、精霊術も使えないし…………」
手首にはまったブレスレットを眺め、ため息をついた。
打つ手なし。幸い、校舎に囲まれた中庭はほとんど人の目に付かない。渡り廊下も腰板が施されているから、こうして座っていれば死角になるだろう。
「面倒だし、このまま乾くまで待つか」
ポカポカと暖かい日差しを浴びながら、シェイラは本格的に休む体勢に入った。居心地のいい角度を求めて体の向きを変えて、腹の上で手を組む。
中庭は今も花盛りだ。クレマチスが紫と白の花を咲かせて、東屋を華やかに彩っていた。始業式の日に、きっと綺麗に咲くだろうと考えていたことを懐かしく思い出した。
同時に、クローシェザードへ宣誓した言葉も思い出す。
必ずあの人に追い付くと豪語した過去の自分が今の状況を見たら、どう思うだろう。夢が叶う位置に立っているだけで十分幸せなのに、贅沢な悩みだと一蹴されてしまうかもしれない。
村にいた時には考えられないくらい、充実した日々。騎士を目指す道がどんなに険しくても、絶対諦めないと誓ったのに。
……心は、こんな些細なことに躓いてしまう。
怖がりたくない。負けたくない。
精一杯の負けず嫌いを発揮してディリアムには平然としてみせたけれど、一人になると震えそうになる。ただの村娘だった時には、人の悪意がこんなに恐ろしいものだなんて、知らなかった。
怖い。しっかり繋ぎ止めておかないと、心が逃げ出しそうになるくらい。
一緒に怒ってくれる人も、辛い気持ちを分かってくれる人もいる。なのに、いつまでこの苦しい時間が続くのかと、容易く絶望しそうになる。
穏やかな午後とは裏腹に、心は千々に乱れていた。疲弊した体が休息を欲している。
うとうとと微睡み始めたシェイラの頬を、ゆっくりと涙が伝った。泣きたくなんてないのに。
――涙は、この一粒だけにしよう…………。
顎から伝い落ちた雫が手の甲に当たる感覚を最後に、シェイラは意識を手離した。
ふと起きると、目の前に広がる光景から状況を直ぐ様思い出した。
久しぶりに、泥のように眠った気がする。日の傾き具合から推測してもそれほど時は経っていないはずだが、頭は随分とスッキリしていた。
地面に手を付こうとした時、思ったように体が動かないことに気付いた。
「あれ…………?」
パサリと膝に落ちたのは、ベージュのブレザー。一日中稽古着で生活しているシェイラの物ではあり得なかった。確認してみると、自分のものより丈も長い。
誰かが眠っているシェイラに気付き、善意で掛けてくれたのだろうとは思うけれど。
「――――――どうしよう。女だってバレてないよね?」
今はほとんど乾いているものの、濡れている時は体の線がハッキリ出ていた。細身の生徒など他にもいると言えばそれまでだけれど……。
何だか嫌な予感を感じながらも、厚意のブレザーを放っていくという選択肢はなく、シェイラは丁寧にたたんで持ち帰るのだった。