大地と精霊
月の日の早朝。セイリュウは平日と同じ時間に起床し、朝の鍛練に励んでいた。
まず稽古場を軽く10周し、腹筋と背筋をそれぞれ200回。そして片腕だけで腕立て伏せを100回ずつ行ってから、素振りを始める。模造刀が空気を切り裂く感触が心地よく、神経が冴え渡っていく。
木の葉擦れ以外の音を拾ったのは、五感が鋭敏になっていたからだろうか。まだ遠いが、足音が近付いてきていた。
剣を下ろし、校舎の陰を見つめる。ひょこりと現れたのは、朝焼けよりも鮮やかな薔薇色の髪だった。
「あっ、セイリュウだ。おはようございます」
目を丸くしたシェイラが駆け寄ってくる。セイリュウは模造刀を脇に置いてタオルで汗を拭いた。
「おはよう、シェイラ。物々しい格好をしているな?」
こんな早朝にどうしたのかと思ったが、まず気になったことが口を突いていた。
シェイラは胸当てに籠手と簡易の鎧をまとっていた。腰の革ベルトにはナイフ、短刀、幾つものポケット。背には矢筒、左手には弓を握っている。頭には折り畳んだタオルを巻き、そこに色とりどりの羽根を挿した姿は何だか奇妙だ。一体何を考えているのか、聞いてもいいものだろうか。
セイリュウの複雑極まりない胸中を余所に、シェイラはニコリと笑った。何だかいつもより生気に満ちているように見える。
「これから、ちょっと山に行くんです。狩りをして、薬草もあったら摘んでこようかと」
どうやら彼は、学院の隣にある起伏の少ない山に分け入るつもりらしい。
「一人で行くのか?大丈夫か?」
「大丈夫ですよ。僕がどれだけ険しい山奥で育ったと思ってるんですか。もちろん油断はしませんが、この程度の山なら全く問題ありません」
どれだけ彼が山慣れしていても心配は拭えないが、イキイキしている理由が山歩きにあるならば、止めるのは無粋というものだろう。
「そうか。くれぐれも気を付けて行くんだぞ」
「はい。それで、山を下りたら料理を作ろうと思ってるんです。おいしくできるか分かりませんけど、お世話になってるセイリュウにも食べてほしくて。なのになかなか行き会わなくて焦ってたんで、本当に会えてよかった。今日、何か予定はありますか?」
「君の手料理か……それは楽しみだな。今日は鍛練と読書以外予定はないから、ご相伴に預かることにしよう」
頷いて応じると、シェイラは瞳を輝かせた。
「読書って、また兵法書ですか?朝は自主練して、空いた時間は兵法書を読んで、セイリュウは努力家でカッコいいですね。僕も見習いたいと思います」
手放しの賛辞に、じわじわと頬が熱くなっていく。まずい。まだ修行不足なのかもしれない。浴場で会った時は狼狽えてしまったが、シェイラはあくまで可愛い後輩の一人だ。不埒な考えなど気の迷いに違いないのだから。
セイリュウは真っ直ぐな瞳から目を逸らした。
「……俺は単に自信がないだけだよ。魔力がない分の差を、こうして補うために必死なんだ。どうせ努力しなければ勝てないからな」
魔力がないのに特別コースに入れるシェイラへの嫉妬は、少なからずある。どれだけ努力しても埋められないと思っていた差を、彼は軽々と飛び越えてみせたのだから。
それでも表面上祝福したのは、純粋に応援する気持ちと、後輩に嫉妬していることを知られたくない、ちっぽけな矜持からだった。頼りになる先輩でいたいからこそ取り繕ってしまう。
そんな相手に努力している場面を見られるというのも、よく考えると恥ずかしい。セイリュウはますます目を合わせられなくなった。
「――――努力は、いけないことですか?」
不意に、凛とした声が耳を打つ。
「何だか今の言い方だと、努力する自分を嫌悪しているように聞こえました。……努力は、恥ずかしくありません。自分の限界を越えようとするのは、むしろ誇るべきことだと思います」
諭すような口調だったら、きっと惨めな気持ちに塗り潰されていただろう。
だがシェイラは普段と変わらぬ口調で淡々と、ただ事実を述べているだけに見えたから、すんなりと受け入れることができた。彼に特別な何かを見出だしてしまいそうになるのは、こんな時だ。
シェイラがいつも通りに、フワリと柔らかく微笑んだ。その笑みに、奇妙に胸がざわつくのはなぜだろう。
「セイリュウはスゴいです。誰が何と言おうと、僕はセイリュウを尊敬し続けます」
「――――……では、お前の尊敬に見合う男で在り続けるために、これからも精進せねばなるまいな」
セイリュウは、穏やかな気持ちで微笑み返した。
初めて味わうこの感情の名前を知らない。
抱き締めたい衝動も、胸が疼くような感覚も押し隠して、手を振って去っていくシェイラを見送った。
◇ ◆ ◇
さくさく、と踏み締めるたびに音を立てる柔らかな黒い土。
小さいながら栄養豊富ないい山だ。シェイラは濡れた土の匂いを一杯に吸い込んだ。堪らなく落ち着いた心地になるのは、やはり田舎が性に合っているということなのだろう。
「ギリギリになっちゃったけど、セイリュウもちゃんと誘えてよかった。寮長もバートも誘ったし、これで誘い漏れはないよね?」
あまり接点のないリグレスも誘ったのは、彼がレイディルーンの親衛隊だと聞いていたからだった。接点ができればきっと嬉しいだろうと、シェイラにしては気を利かせたのだ。
――けど、親衛隊ってホントに何だろう。こないだのコディの話で、ますます謎が深まったような……。
男同士、ということもあり得るらしい。ならばリグレスの気持ちは、憧れではなく恋なのだろうか。親衛隊に属している他の生徒達も?
――……ダメだ。やっぱり私には理解しきれない。とにかく好きってことなんだよ、うん。
繊細な心の機微というものは苦手だ。自身の思考が単純明快なせいで、他人の感情を深く掘り下げることができない。特に恋愛感情なんて、抱いたこともないのだから。
萌える緑の濃さが鮮やかな、清々しい獣道を進む。歩くごとに心が解放されていく気がした。
「あ、あの花はスイカズラだ。蕾を摘んで日陰で乾燥させれば、抗菌、抗炎症作用もあるキンギンカになる。葉と茎は秋の終わり頃にまた採集に来ればいいね。あの木の花はアケビかな。あの黄色い花はレンギョウかな?自生はしない木だから、誰かが植樹したとか?」
薬の材料にできる植物がそこかしこに咲いていることに驚かされる。学院の卒業生の中に、シェイラと同じように薬学に精通している学生がいたのだろうか。栽培でもしていなければ、ここまで豊富な植生はあり得ないだろう。
幾つかの蕾や根を丁寧に採集し、革ベルトのポケットにしまっていく。途中、フワリと鼻を掠めた香りにシェイラは顔を上げた。
「この香り……」
こんもりと大量に繁った、長細い緑の植物。顔を近付けると、何とも強い香りがした。
「山にバジルまで生えてるなんて」
もしかしたら、誰かが今も手入れしているのかもしれない。だとしたら、シェイラがあまり荒らすわけにもいかない。
「でも、バジルの葉を幾らか分けてもらってもいいかな?」
代わりというわけでもないが、ここに来るまでに見つけた薬草の材料を、バジルの側に少しだけ置いていく。紫色のカタクリの花だ。
立ち上がり、更に山奥に踏み入っていく。山頂が近くなるにつれ生き物の気配が濃くなってくる。シェイラは手頃な繁みに息を潜め、身を潜めた。
まるで山と一つになるみたいに、自らの存在を周囲に溶け込ませる。遠くで鳴く鳥の声。意識を研ぎ澄ませていくと、虫が地面を這う気配まで感じ取れる。
シェイラはゆっくりと目を開いた。いつもの天真爛漫さはなりを潜め、その瞳は切れ味のよい刃のように静かで鋭い。
精霊術を使役するデナン村の人々は、この自然との一体感を知っている。だから神々への、精霊への、山への感謝を忘れないのだ。
――街の人達は、この感覚を知らないのかな?
感謝の祈りを日常に添わせることができれば、街の人達も精霊術を使えるようになるのだろうか。そうなれば、平民と貴族の垣根は低くなるのではないだろうか。
――……いけない。
シェイラは雑念を追い払った。頭を空っぽにしていなければ、野生の獣に気配を察知されてしまう。今は狩りに集中しなければならない。
静かに時を過ごしていると、一匹の獣が探知に引っ掛かった。かなりの大物だ。それに動きが素早い。歩き方から察するに、大猪とみた。
猪は特に足が早い。一瞬で仕留めなければ捉えることは不可能だ。シェイラはそこそこ得意な弓矢に手を伸ばした。ある程度の距離を取って攻撃しないと危険だ。
大猪が前方の繁みから姿を現した。思ったより距離が近い。
「――――光の精霊よ!」
シェイラが放った矢は、精霊の助けを借り光の速さで飛んでいく。眉間にストンと突き刺さった。
痛みに悶える猪だったが、致命傷には至らなかった。最後の足掻きとばかりに巨体が暴れ狂う。大きな蹄がシェイラの目前に迫る。
「――――風の精霊よ!」
シェイラは冷静だった。すぐさま精霊の力を借りて軽業師のように身をかわす。すれ違いざま、先端に輪を作った麻縄を鼻面めがけて放り投げた。
尖った牙に見事引っ掛かり、猪が暴れ回るたびに輪が絞まっていく。シェイラは太い木の枝を飛び越えた。枝を支点にして麻縄にぶら下がる。全体重をかけて猪の暴走を封じた。
やがて力尽きたのか、猪の巨体がどうっ、と倒れる。すかさずナイフでとどめを刺した。
「――――――よしっ」
シェイラは立ち上がり、不敵に微笑んだ。
結局そのあと、更に山鳥を三羽仕留めたのだが。
「どうやって持って帰ろう…………」
精霊術で便利に持ち帰るわけにもいかないと気付いたシェイラは、下山方法に頭を悩ませるのだった。