新居には側仕えがいました。
二人の移動手段は馬車だった。
通りすがりの荷馬車に交渉して乗せてもらうのだとばかり思っていたが、下山すると見たこともないほど豪華な馬車がシェイラ達を待ち構えていた。
艶やかに光る焦げ茶色の外装と金の装飾が芸術的な馬車だった。内装もそこかしこに彫刻がなされていて、座面は柔らかな緩衝材がふんだんに使われていた。
「どうやって、連絡を取ったの?」
フェリクスが下山する日程を知っていなければ不自然なほど、絶妙のタイミングだった。
驚きすぎて挙動不審になるシェイラを宥めながら、兄はニッコリと微笑んだ。
「元々、定期的に連絡する手段があったんだよ」
「……………………」
詳しく聞けば、飼い主の元に必ず帰るよう調教された鳥を使い、幼い頃から手紙のやり取りをしていたのだと言う。何も知らずにいたシェイラは開いた口が塞がらなかった。
それから何日もかけて、馬車は王都を目指す。
肥沃な海辺を走れば活気のある朝市に出会い、痩せた土地しか持たない区域を通り過ぎると、疲れた顔をした人々が目立つ。領地の政策によって暮らしやすさも違うのだとフェリクスは説明した。土地ごとに雰囲気も暮らしの様子も違うことを、興味深く思った。
まだ青い麦畑や、どこまでも続く地平線。連日の馬車で疲労が蓄積している体とは裏腹に、何もかもが目新しくて心は常に弾んでいた。領地ごとに味付けの変わる食事も楽しかった。
◇ ◆ ◇
デナン村を出てから13日、遂に馬車は王都へと辿り着いた。
祭りでもないのに街には人が溢れ、中央通りは様々な店が賑わっていた。
鮮やかな反物が店先を飾る布屋、瀟洒な雰囲気のカフェ。宝飾店もちらほら目に付く。通ってきた街で眺めた店といえば、食料品や革製品などの日用雑貨を扱うものが多かったから、シェイラはあれは何これは何と忙しく質問を続けた。おのぼりさん丸出しの妹を、フェリクスは微笑ましげに見守る。
馬車はどんどん進み、やがて人通りが少なくなっていく。先ほどまでの活気はなりを潜め、閑静な住宅街に入った。
きらきらした白亜の邸宅が建ち並び、馬車が行き交う道はしっかりと舗装されている。声を上げることすら何だか憚られて、自然と口数も減っていった。
ようやく停車したのは、見上げるほどの大豪邸だった。
「………………綺麗で立派な建物だね」
「ここが僕達の新居だよ。といっても、お前は学院に入れば寮で生活することになるけれど」
大きな正門を抜け、馬鹿みたいに広い庭を馬車で突っ切る。球状に刈り込まれた庭木や、とりどりに咲き乱れた花。綺麗な水が飛沫を上げる噴水などをじっくり観察してみたかったが、ポカンとしている間にはるか後方へと過ぎ去っていく。
「フェリクスって何者なの」
「それは聞かないお約束」
馬車が停まると、玄関には黒い装束に身を包んだ男性や、エプロン姿の女性がズラリと並んでいた。
「おかえりなさいませ、フェリクス様」
一斉に頭を下げられ、シェイラの思考が停止した。フェリクスは当然のごとく鷹揚に頷いて応える。
「出迎えご苦労。彼女は家族同然に育った大切な人なので、くれぐれもよろしく。皆にも周知を徹底するように」
「かしこまりました」
恭しく両開きの扉が開けられ、一歩踏み込む。足元には靴音を吸収する深紅のカーペット。デナン村の住居も床にカーペットが敷かれていたが、あれは剥き出しの地面を隠すためのものだった。そもそも毛足の長さや踏み心地が段違いだ。
彫刻や精緻な模様が美しい壺、正面の壁を覆うほど大きな絵画。壁面は所々色鮮やかなタイルが埋められており、一際目に付く円柱の大柱は光を吸い込む雪のような清らかさだ。シェイラを言葉もなく、吹き抜けになったホールを見回した。
――村の家と違いすぎて、何かもうよく分からない。
そして、何よりシェイラを戸惑わせたのは、そんな空間に兄がしっくり馴染んでいることだった。
高貴な身分であることは最早疑う余地もないが、だとすると村では相当神経をすり減らしたことだろう。地面に直接座って食事をするなんて、フェリクスからすればあり得ないことだったはずだ。
「自分の家なんだから、好きに寛いでいいからね」
「ここで寛げると思う?」
「おや。流石にシェイラでも気を遣うか」
「流石にって何。私の感覚はごく一般的なものだから」
プウと頬を膨らませると、フェリクスがそれを面白そうにつつく。怒りを流され、シェイラはますます拗ねた。
「そうやって可愛い顔しないの。ほら、使用人を紹介するから」
彼の腕が腰に回り、自然とエスコートされる形になる。向き合ったのは、先ほどフェリクスと会話を交わしていた壮年の男性だった。整った口髭が渋くて、瞳の奥に思慮深さが揺れている。村の豪快な年寄りとは骨組みから違っていそうだ。
「彼はリチャード。この家の采配を任せているんだ。取り急ぎ住居を調えてもらったから、何かと不便なところがあると思う。困ったら何でも彼に言いなさい」
「執事のリチャードでございます。お嬢様、以後お見知りおきを」
「しつじ……おじょうさま…………」
あまりに自分と乖離した単語を頭が受け付けない。シェイラは名乗り返すことさえ忘れて呆然とした。
「それから彼女は、お前の専属に決まった」
「メイドのルルと申します。お嬢様のお側で働けること、光栄に思います。よろしくお願いいたします」
少しおどおどとした様子の小柄な少女が頭を低くしたまま進み出た。オリーブブラウンの髪を後ろできっちりまとめている。年下だろうか、一生懸命さが伝わってとても好ましく映った。
「ルルにはまだまだお嬢様の専属をこなせるだけの能力はございませんが、なにぶん人手不足なもので。行き届かないところも多かろうと思いますが、どうかよろしくお願いいたします」
リチャードの口添えを聞いてようやく我に返ったシェイラは、ブンブンと全力で首を振った。
「えっと、とんでもないです、私こそ全然お嬢様じゃないし。あ、私シェイラ⋅ダナウって言います。こちらこそ、よろしくお願いします」
慣れない敬語に四苦八苦しながら何とか自己紹介を終えると、下げた頭をフェリクスがコツリと叩いた。
「お前が使用人に頭を下げると、むしろ向こうが困惑するからやめなさい。あと、敬語の練習はするべきだけれど、日常生活において彼らに使う必要はないから」
そう言うと、彼は集合していた下働き達にてきぱきと指示をしていく。人を使うことに慣れた様子を見ていると、つい先日まで片田舎で暮らしていたとは信じられないくらいだ。
「……フェリクスって、本当にナニモノ」
「いずれ話すよ。色々な準備が整ったらね」
さらりと流されることは想定済みの質問だったので、シェイラもそれ以上答えを求めなかった。
背負っていた荷物を、ルルがさりげなく運んでいく。申し訳なくて固辞しようにも、それが彼らの仕事なのだとフェリクスに諭される。シェイラにはよく分からない考え方だ。
渡した荷袋から、コロコロと何かが転がり落ちた。
「あ」
それは、フェリクスからもらった綺麗な釦だった。青い石が埋まっている中心から、黄金色の花弁が幾重にも重なっている。花弁の隙間を埋めるように、翡翠色の石が数えきれないほど飾られていた。
女らしさが足りないとはよく言われるものの、シェイラは人並みにキラキラした物が好きだ。子どもの頃、フェリクスが持っていたそれがあまりに繊細で美しく、じっと見つめていたら、優しい兄は笑顔で譲ってくれた。以来この釦は、シェイラの宝物だった。
転がり続ける釦を慌てて追うが、腰ほどの高さがあるチェストの下に滑り込んでしまった。
「うわぁっ、兄さんの釦が……」
「あぁ、お前がどうしても欲しいと我が儘を言うから、仕方なくあげたヤツか。まだ持っていたんだね」
思い出に若干の差異はあったものの、聞こえないふりをする。それより何とか釦を拾おうと袖を捲っていると、ルルがスッと動いた。
「お任せください、お嬢様。わたくしが拾います」
言うなり、彼女はひょいとチェストを持ち上げた。重さなどないかのように、あっさり軽々と。ルルは見た目にそぐわず、ものすごい怪力の持ち主らしい。
笑顔で釦を差し出してくる彼女に、シェイラは頬を紅潮させた。
「ルルすごい。私も見習って、もっと腕力を付けなくちゃ」
興奮するシェイラに、ルルの方が驚いたように目を瞬かせる。
「……この馬鹿力を見て怖がらなかったのは、シェイラお嬢様が初めてですわ」
「え?全然怖くないよ?騎士を目指す私からすれば、ルルが羨ましいくらい」
「まぁ」
はにかむルルは何だか嬉しそうだ。気の合う女友達が少なかったシェイラも、嬉しくなって一緒に笑った。
「……とても独特の感性をお持ちの、お嬢様でいらっしゃいますな」
「そうだね」
何とか婉曲に表現しようとして失敗したリチャードは、口内で呟いたはずなのに返事があって僅かに動揺した。しかも聞き咎めたのは主のフェリクスという失態ぶりだ。リチャードは恥じ入りながら俯いた。
フェリクスは気にせずクスクスと笑う。
「僕としては、シェイラのああいう部分は変わってほしくないから、リチャード達の方が慣れてね」
笑い混じりに指示を出し、ふとフェリクスが思案する。壮年の執事に心持ち顔を寄せ、辺りを憚って囁いた。
「――――とはいえ、可愛い妹が筋骨隆々になるのは非常に困る。もしシェイラが過分な運動をしようとしていたら、リチャードが全力で止めてほしい」
「…………あの方ならばやりかねませんな。心しておきます」
主からの密命を、リチャードは至極真面目な調子で承った。