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密室という名の拷問

「ファリル神が地上に降り立った時、ただ荒れた荒野がどこまでも広がっていた。神の涙は海になり、神の息吹は風になった。一筋の髪が川になり、爪は山になり森になった。最後に神は、大地に一滴の血を垂らした。それは、命ある一対の生き物となった」

 補習を受けるようになって三日が過ぎた。今は神学の講義を受けている最中で、ヨルンヴェルナは意外にも、まともな授業をしている。

「ファリル神の血から産まれた生き物は、はじまりの男女とされている。彼らは一糸まとわぬ姿で大地に産まれ、本能で互いを愛し合った。そこから命が芽生え、人間という種が繁栄していくわけだけれど、元を辿れば人類はみな兄弟ということだね。はじまりの男女のように睦み合い一つになることは、聖なる行為であると同時に不道徳な行いともされている。非常に危うげに成立している二律背反。背徳的で淫靡な匂いが、何とも堪らないよねぇ」

「………………」

 合間に入る、この卑猥で意味深な発言さえなければ、だが。

 後半は全て覚える必要がなさそうだと判断し、シェイラはためになった前半部分だけをノートに書き込んだ。

「シェイラ君も、神話は一通り知っているよね。神々の名前も覚えているものが多いし」

「うちの村は、神々や精霊に祈りを捧げるのが当たり前だったんです」

「なるほどね……。ファリル神から生じた52の神々が、更に精霊達を生み出した。その神話が君の村にはしっかり根付いていたのだろうね」

 精霊や神々に祈りを捧げ続けることで、色々と手助けしてくれるようになるんです。とは、ヨルンヴェルナに言わなかった。

「ある程度の神々の名前は知ってましたけど、さすがに学問の神⋅ロノワナとかは知らなかったです」

「今の君に一番必要な神様だね」

「本当ですね」

 悔しいが事実なので仕方ない。できれば幸運の女神⋅アーイリージャと努力の神⋅ツェルクのご加護もあるといいのだが。

 今日のヨルンヴェルナは、教壇ではなくシェイラの隣に座っている。肩にかかる青灰色の髪を払いのけ、間近から瞳を覗き込まれた。

「どう?今度二人で、はじまりの男女のようにめくるめく愛の営みを……」

「お断りします」

 座学の成績向上のためとはいえ、連日の口撃がきつい。

 ヨルンヴェルナと二人きりというのは、何とも疲労の溜まる時間だった。しかも実際に成績が伸びているのだから始末に悪い。クローシェザードは基本的に勉強よりも礼儀作法、貴族との正しい付き合い方を教えてくれているので、ヨルンヴェルナの講義とは方向性が違う。勉強という意味では、彼は学院に在籍するどの教師よりも教え方が上手いと言えた。

「これで無差別口撃がなければ……」

 用紙に指定された神の名前を書き込みながら、シェイラはため息と共に呟いた。口中で呟いたつもりだったのに、ヨルンヴェルナは反応を示した。

「やだなぁ。ちゃんと相手は選んでいるよ?」

「――――え。何で私は選ばれてるんですか?」

 聞き捨てならない言葉に、ガバリと顔を上げる。

 あくまで淡白に聞き流してきたはずなのに、何が彼の琴線に触れたのか全く分からない。

 ヨルンヴェルナは、紺碧の瞳にシェイラを閉じ込めるように真っ直ぐ映しながら、蕩ける笑みを浮かべた。

「君が一番可愛くて、反応が好ましいからかな。元々愛を囁くのは、お気に入りの君だけなのだけれどね」

「……僕は愛を囁かれていたんですか。初耳です」

 驚愕に目を見張っていると、ヨルンヴェルナがクスリと笑った。この人はいつも愛おしげに目を細めているけれど、瞳の奥に愉悦に似たものが潜んでいるように思う。

 人が好き、ではなく、人の反応が好き。全く本人が言っている通りなのだろう。どんな相手でも、例えたった今愛を囁いたシェイラでも、この人にとっては無機物と同等の価値しかないに違いない。

「――――君は……」

 ヨルンヴェルナが笑みを消し、紺碧の瞳を僅かに見開く。

 ――…………あ。

 失敗した、と思った。

 気付かれた。いつもヘラヘラしている彼の本質を見抜いたことを。そしてそれを知られるのが、彼にとって不愉快なことなのだとも察してしまった。

 シェイラは素早く身を引き笑顔を作った。

「知ってますか、ヨルンヴェルナ先生。補習が始まってから、先生が人をおちょくらなくなったって有名なんですよ。おかげで僕は、対ヨルンヴェルナ先生の防波堤扱いです」

 本能で分かる。ヨルンヴェルナは、本当の自分に触れてほしくないと思っている。彼とは特別親しいわけでもないのだから、望む通りにした方が無難だ。

 だから何食わぬ顔で話を逸らした。決して踏み込みはしないと、態度で分からせるために。

 ヨルンヴェルナはしばらく無表情にシェイラを見つめていたが、やがて話に乗る選択をした。

「――――確かに。君と毎日のように逢瀬を重ねるようになってから、他の男をからかう気になれなくなったなぁ」

「逢瀬ではなく、あくまで補習です」

 いつも通りに鋭くツッコめば、にわかに普段の距離感が戻ってきた。ヨルンヴェルナも歌うような足取りで教壇に戻っていく。

 しばらくは集中して問題を解いていく。神々の名前を書き込んでいる内に、まだあれから一度も図書館に行っていないことを思い出した。

 ――図書館といえば…………。

「ヨルンヴェルナ先生」

 シェイラはペンを置き、教壇に視線を向けた。

「この前図書館に行ったんですけど、平民には魔術書閲覧禁止という規則があるらしいですね」

「そうだね。特に理由はないと思うけれど」

「そこなんですよ。特に理由がないなら、何で見せてもらえないんですか?その制度、どうにかなりません?」

 一度は駄目だと言われたが、強くなる方法の一つならばやはり諦められない。学院長に訴えればどうにかならないだろうかと考えていた。

「……読めるようにしてあげようか?」

「え」

 ヨルンヴェルナが壇上からシェイラを見下ろしていた。

「掛け合ってあげようと言っているんだよ、学院長に。それでもダメなら王族に話を通せばいい。国王陛下のお許しさえあれば、そんな形骸化した規則などあってないようなものだもの。…………その代わり、僕が望むものを差し出して?」

 柔らかな声。トロリとした蜜みたいに甘い微笑み。なのにまるで、悪魔の誘惑のように思えた。

「先生が望むもの?」

「君は知っているはずだよ。始業式の時、宣言しているのだからねぇ」

 シェイラは、彼の奇想天外な挨拶を反芻した。学術塔で魔道具の製作と改良を研究していて、被験者を随時募集していると笑顔で語っていたことを。

「…………被験者、ですか」

「レイディルーン君にまで勝った君の能力がどのようなものなのか、とても興味があるなぁ」

 ヨルンヴェルナが紺碧の瞳に、昏い愉悦の笑みを浮かべた。もう、本性を隠すつもりはないらしい。

 彼は誰かに執着したりしない。笑みの仮面に隠しているけれど本質は冷酷で、残忍。情に流されることは決してない。そういう人間だ。

 ヨルンヴェルナの迫力に圧し負けてはならない。恐ろしい獣と対峙している時こそ、より冷静にならなければ。

 シェイラは肺にある息を全て吐き出し、しっかりと顔を上げた。

「教師の力が必要なら、他にも当てはあります」

「教師、ではなく王からの信頼がものを言うかもしれないよ?」

 打てば響くように返されたが、もう迷わなかった。

「それなら、尚更です。そういう人を私は知っていますから」

 シェイラの言葉に、ヨルンヴェルナは目をすがめた。壁に寄りかかりながらゆっくりと腕を組み、嗜虐的な笑みを浮かべる。

「…………ふぅん。クローシェザードは思いの外、君に事情を打ち明けているらしい」

 誰について話しているのかを見事に看破され、緊張していた頬がピクリと動いた。

 それ以上の反応をみせないシェイラから視線を外し、ヨルンヴェルナは肩をすくめた。途端、切迫していた空気が和らぐ。

「惜しかったなぁ。もう少しでいけると思ったのに」

「……正直、危なかったです。選択肢が他にないように誘導されているような気がしました」

「そうかい?普通に話していたつもりだったけれど」

 腕を解き、ヨルンヴェルナがゆっくりと歩きだす。シェイラが座る席の前で体を屈めた。

 肩から流れ落ちた青灰色の髪が勉強机の上にこぼれ、シェイラの手をくすぐる。癖のない真っ直ぐな髪は、想像通り硬質でひんやりしていた。

「でも、初めて『私』って言ったね」

 蠱惑的な笑顔を向けられ、ギクリとした。取り引きに神経を使いすぎていたせいか、喋り方がおろそかになっていたのかもしれない。

 ヨルンヴェルナの神経質そうな細い指が、シェイラの腕に触れた。まるで彼こそが無機質みたいに冷たい指。

 怖いほど整った顔が、近付いてくる。色気の漂う唇から、濡れた紅い舌が覗く。

 指が腕をなぞりながら上ってくる。二の腕、肩、首、顎。むず痒い感覚に身をよじった。

 唇に辿り着いた指が、何度も輪郭を愛おしげになぞる。首筋がずっとチリチリ痛い。狂暴な獣を前にしているみたいに、少しでも動いたら殺されそうな気がした。

「そうやって、少しずつ僕の元に堕ちておいで。――――僕も思いの外、君が欲しいみたいだ」

 ヨルンヴェルナが柔らかく瞳を細める。その奥に宿る光が、初めて安堵するように和らいだ気がした。


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