補習
どんなに嫌いでも、勉強はしっかりしてきたつもりだ。
現に読み書きができるようになったし、難しい言い回しも理解できるようになった。計算だって、桁が大きくなければ何とかなる。一ヵ月前の自分と比べたら、別人のように頭がよくなった。歴史も、古代語も、ファリル神教も、必死で学んだ。……つもりだった。
「ほしゅう…………」
シェイラの頭が頑なに理解を拒否している。捕集。補修。捕囚。駄目だ。無理がある。
「シェイラ……可哀想だけど頑張らないと。あまり成績が悪すぎると、留年もあり得るらしいから」
コディが同情を込めて肩を叩く。りゅうねん。また頭が拒絶した。
ゼクスがヘラヘラと笑いながらシェイラの頬をつついた。
「オイ、こいつ失神してないか?」
「そんなわけないだろ。失礼だぞ、ゼクス」
「だってこいつさ、ホントよくここに入れたなってくらいの成績じゃん」
ゼクスの指から逃れる気力さえ湧かず、シェイラはつつかれたまま気の抜けた声を出した。
「学院長が入学説明に来た時、実技は少し見てもらったよ。だけど、筆記は特に試験がなかったんだ…………」
「だとしても、シェイラなら頑張れば何とかなるよ。成績だってどんどん伸びてるんだから」
留年の可能性がある駄目な友人を、コディは信じてくれているらしい。優しさに支えられ、シェイラはようやく現実を受け入れることにした。
「補習……頑張らなきゃ留年…………」
「受ける前から燃え尽きかけてんじゃねーか」
「だから、失礼だぞ。あの実力テストを見ただろう?シェイラはこの程度の困難に屈するような弱い男じゃないよ」
完全なる過大評価だったが、友人の信頼に応えるためにシェイラは腹を括った。
全教科補習という無情な宣告をして去っていく教師の後ろ姿を見つめながら、疑問を口にする。
「全教科まとめて指導してくれる先生に頼んだって言ってたけど……誰のことだろう?」
「そんなもん、放課後になったら分かることだろ。んなこと考えてる暇があったら、お前は一つでも多く古代語覚えた方がいいぞ」
シェイラの質問は、あっさりとゼクスに一蹴された。ぐうの音も出ないほどの正論に、せめてもの反抗とばかり唇を尖らせた。
◇ ◆ ◇
あれから、雑用の呼び出しは数度あった。
けれどシェイラは、政変について調べたことをクローシェザードに言えていなかった。
いつも通り当たり障りのない会話をして、踏み込むことはせずに別れる。今までの距離感がどんなものであったのか、シェイラはすっかり分からなくなってしまった。気遣いすら上滑りしているような気がする。
そんなふうに、ついクローシェザードのことばかり考えてしまって、授業にも集中できていなかったのかもしれない。
そもそも読み書きすらまともにできなかったシェイラである。この短期間で驚くべき急成長を遂げたのは事実だが、周りの水準にはいまだ達していないのだ。
――注意力散漫になってる暇があったら、確かに古代語の一つも覚えるべきなのに。
シェイラは気持ちを切り替え、補習に挑むことにした。放課後の教室で一人、特別講師の訪れを待つ。
やがて、ゆったりとした足音が教室に近付いて来るのを感じた。上品で貴族的。どこかで聞いたことのあるような足音だった。
考えていると、教室の前でピタリと足音がやんだ。独特の気配に嫌な予感を覚えるのはなぜだろう。
教室の扉がカラカラと開いた。
「――――――久し振りだね、シェイラ⋅ダナウ君」
それは、ほんの一週間ほど前に浴場で会っているため、久し振りという感覚が全くない相手だった。ついでに言うなら可能な限り邂逅を避けたい人でもある。
シェイラは頬をひきつらせた。
「よ、ヨルンヴェルナ先生…………」
以前遭遇した時、レイディルーン戦での不自然さに言及されていたことが一気に思い出された。
――クローシェザード先生に会った時、相談しようと思ってたのに……勝手に気まずくなって頭から抜け落ちてた…………。
相談していたところで、この補習は避けられなかったかもしれないが。
「補習なんて面倒なことに付き合わされることになって、正直うんざりしていたのだけれど。相手が君だと知ってからは、楽しみで夜も眠れなかったよ」
ヨルンヴェルナがにっこりと甘やかに微笑む。
「密室で二人きり。存分に楽しもうね、シェイラ君」
シェイラはただただ、黙秘を貫いた。
しかし補習が始まると、黙っているわけにもいかない。
「一通り君の実力を見せてもらったけれど、地理も歴史も古代語もみんなダメだねぇ。ここまでダメだといっそ清々しい」
「…………すいません」
ヨルンヴェルナが事前に作成してきた小テストに挑戦したのだが、結果は散々だった。基本的にヘラヘラしているヨルンヴェルナにまで困り顔をされてしまった。
「特に古代語は、基礎を何とか理解している程度だね。まぁこんなことは平民の子が習うわけ無いから、中途入学した君がここまでできるなら十分なのだけれどねぇ。どう足掻いたって進度が遅れてしまうのは仕方のないことだし」
ヨルンヴェルナは解答を眺めながら顎に手を当てた。少し悩む素振りを見せてから、また別の冊子をシェイラに手渡した。とても分厚くズシリと重たい。
「まぁこんなこともあろうかと、古代語の問題集は作ってきてあるんだ。とりあえずこれは、一週間で終わらせてね」
「ひぇぇぇ~……」
「コラ。はしたない嬌声をあげないの」
「――――――」
コツリと小突かれながら、シェイラは言葉を失った。正しくは嬌声ではなく悲鳴だと思う。
「古代語はとにかく書いて覚えなさい。今日の授業は地理。周辺国とその気候、特産物の勉強に集中しよう。ここまでで何か質問はあるかな?」
シェイラは勢いよく挙手した。記念すべき補習第一回目の質問はこれだ。
「ヨルンヴェルナ先生は、なぜ嫌らしい言葉をあえて使うんですか?」
真面目な質問だったけれど、ヨルンヴェルナは可笑しそうに肩を揺らした。
「それはね、相手の反応が面白いからだよ。みんなの嫌がる顔が、私は好きなんだ」
「……なるほど。共感はできませんが真意は分かりました」
相手を翻弄するためのものであるならば、取り乱したらヨルンヴェルナの思う壺ということだ。ある意味挑発に屈するに等しい。これが戦いならば、受けて立つシェイラは毅然と対応しなければならないのだ。
彼の際どい発言は流し続けようと決めたところで地理の講義が始まった。ヨルンヴェルナはシュタイツ王国を中心とした地図を広げる。
「シュタイツ王国の西側には、このように大海が広がっている。北側は海を挟んでノーランド国。海の向こうとはいえ、それほど距離がないから我が国との貿易はそれなりに盛んだね。そして南側にはメイベリー国、スリフェス国、マナワ自治国。どれも小さな国だけれど平和協定を結んでいるこの三国は、一つの国のようなものだと考えた方がいい。そして東側がファリル神国」
彼がピッと指で示したのは、シュタイツ王国より二回りほど小さい、蜂蜜壺のような形をした国だった。
「地続きになっているファリル神国は、ファリル神が大地に降り立った場所と言われている世界最古の国だよ。国民のほとんどが国教であるファリル神教を信仰している。とても敬虔な人ばかりで、神に仕える仕事に就く者が多いね。産業や特産物に目立った特色はないけれど、大陸中から集まるお布施や寄付で国が成り立っているんだ」
ファリル神国という国の名前は、山奥にいても耳にしたことがあった。けれどどんな国なのか詳しくは知らない。
「ちなみに古代語は、正確には古代神語と言われている。神々が使っていたとされる言語だよ。もしファリル神国に行くことがあれば、覚えておくことが必須だね。平民の日常会話にさえ多用されているらしいから」
「へぇ……」
地理の教師は、そんな捕捉説明をしていただろうか。もしかしたらヨルンヴェルナは専門教師より分かりやすく、興味が持てるような教え方を心得ているのかもしれない。
と、少し感心したところで、彼は紺碧の瞳を悪戯に輝かせた。
「興味があるようなら、二人で愛の逃避行でもしようか?」
「結構です。というか、何から逃げる必要があるのかサッパリ分かりません」
シェイラが的確にツッコむと、ヨルンヴェルナは肩をすくめて授業を再開した。