お風呂パニック!
「――――シェイラ、いるか?入ってもいいだろうか?」
気遣わしげな低い声。ここまで丁寧な物腰の人は騎士科では貴重だ。だからそれが誰なのか、シェイラにはすぐに分かった。
「セイリュウ先輩?」
「すまない。放課後、図書館で兵法書を読み耽っていたせいで、風呂に入りそびれてしまったんだ。……その、君さえよければ、今入らせてもらっていいだろうか?」
外にいるだろうセイリュウは、なぜか扉を開くことなく答えた。いきなりズカズカ入り込まれて困るのはシェイラの方なので、よかったとは思うけれど。
「全然大丈夫ですよ。僕はちょっと掃除しますけど、気にしないでください」
「そ、そうか……」
どうやら彼は、開けることを躊躇しているようだ。シェイラは首を傾げながらも扉に近付いた。
「セイリュウ先輩、普通に開けても大丈夫ですよ?どうしてそんなに遠慮してるんですか?」
「うわっ」
ガラリと扉を開けると、セイリュウは慌てて顔を背けた。
セイリュウとは実力テスト以降何度か話す機会もあって、結構親しくなっていた。同じ平民出身ということで話も合うのだ。
私服を間近で見るのは初めてだが、首まできっちり隠れる黒い上下は、何だか生真面目な彼らしいと思った。髪と目も黒いので全身真っ黒だ。
セイリュウがぎこちなく視線を戻す。視界の端にシェイラを認めると、大きく安堵の息をついた。
「…………そ、そうか、そういえばさっき掃除中だと言っていたな。――――よかった」
「何がですか?」
「あ、いや、」
不思議と焦りながらシェイラを見つめ返した瞬間、セイリュウは理知的な黒瞳を見開いて固まった。
汗に濡れ、うなじに張り付いた薔薇色の髪。上気した頬。潤んだ瞳。荒い呼吸を洩らす、淡い色の唇。汗が染み込んだ白いシャツは肌色が透けて、華奢な肢体を際立たせている。
その姿は、いつもの溌剌としたシェイラと落差がありすぎて。
「―――――すまないっ!やはり、結構だ!!」
セイリュウは顔を手で覆い隠し、全速力で引き返していく。あんなに慌てたセイリュウを見るのは初めてだった。
「…………………なんで?」
シェイラは小さくなっていく背中を、ポカンとしたまま見送った。何か気に障ることをしてしまっただろうか。
「……よく分かんないけど、明日朝食の時に謝ればいいかな?」
気を取り直してまたブラシを構え直したところで、今度は別の声が割って入った。
「何かあったのかな?」
――…………この声は。
甘ったるい蜂蜜のようで、蠱惑的で、なのにどこか嘲りを含んでいるようにも聞こえる声の持ち主は。
もし呼び出されたら、事前に連絡するように。極力近付かないように。そう助言をくれたクローシェザードの声が甦った。
――クローシェザード先生。呼び出されてもいないのに、たまたま遭遇してしまった場合、どうしたらいいんでしょうか……?
嫌々振り返った先には、甘い微笑が麗しいヨルンヴェルナが佇んでいた。想像通りの人物に、ガックリと項垂れてしまった。というか、シェイラが女だと勘付いているこの人こそ、扉を開ける時に配慮が必要なのではないだろうか。もしも入浴中だったらどうするつもりなのか。
――どうもしないんだろうけどね。
もしヨルンヴェルナが扉を叩いていたら居留守を使うだろうから、きっとお互い様なのだろう。シェイラは深々とため息をつきながら聞き返した。
「何かって、どういうことですか……?」
「今丁度セイリュウ君がね、『修行が足りん!煩悩よ去れー!』って言いながら走っていくところを見かけたものだから、どうかしたのかなって」
「どうしたのか、こっちが聞きたいくらいですよ」
何か不興を買ったことは分かるが、原因は不明だ。汗臭かったせいかとも思うが、この寮なら汗臭くない日の方が少ないというのに。
「ほぅ、なるほどね……」
ヨルンヴェルナの視線が、舐め回すようにシェイラを見つめる。ねっとりと絡み付く視線に危機感を覚え、体をよじった。
「あぁ、なぜ隠してしまうの?勿体ない」
「いや何となく。……というか、勿体ないって何ですか?」
じり、とヨルンヴェルナが距離を詰める。その分シェイラが一歩下がる。星空のような紺碧の瞳が、警戒を解くようににこりと微笑んだ。
「先染めの薔薇の蕾のようで、とても美しいという意味だよ。固く閉ざしたその蕾が開けば、甘い芳香に惑わされた悪い蜜蜂が大挙して群がってくるのだろうね」
「…………?」
何を言っているのか本気で分からない。これはあれだろうか。貴族特有の回りくどい言い回しか。
「そうそう。実力テストでの君の活躍、見ていたよ。まるで神話に出てくる戦いの神⋅シュネブヴァセドのようだった。勇ましく、決して怯まず、諦めず……その黄燈色の瞳が焔のごとく煌めく時、眼前に立ち塞がる敵は統べからく君に跪くのだろう」
「………………………」
必死で理解しようと努めるのだが、やっぱり分からない。シェイラは眉間にシワを寄せた。それがクローシェザードの仕草に似ていることに気付き、慌ててシワを伸ばす。
そういえば、クローシェザードとヨルンヴェルナは教師というだけではない繋がりがあるようだった。シェイラの中でヨルンヴェルナはちょっと変わった人というイメージだったので、あの生真面目な男と旧知というのが何だか信じられない。
「知っている?シュネブヴァセドは女神だったのではないか、って唱える歴史学者がいるんだよ」
「し、知りませんでした」
神話自体は昔からあるとても有名なものなので知っている。
精霊を生み出したのは神々だと言われているので、神や精霊に日々感謝を捧げるのは、村では当たり前のことだった。シェイラとて入寮した初日、部屋に神棚がないことに気付いて一から作ったくらいだ。
ヨルンヴェルナがまた一歩踏み出した。シェイラはまた下がろうとしたが、背中に壁が当たって立ち止まった。いつの間にか壁際まで追い詰められていたらしい。
シェイラの顔の横に手を付き、ヨルンヴェルナがぐっと顔を近付けた。ニッコリと毒を含んだ微笑みを浮かべる。首を傾げた拍子に、彼の青灰色の髪が肩を滑り落ちた。
「ところでレイディルーン君が起こした竜巻に生身で呑み込まれた時、どんな感じだった?参考までに聞かせてほしいなぁ」
「!」
訳の分からない話から一転、核心を突くような質問が放たれた。すっかり油断していたシェイラは、ひゅっと息を呑んだ。顕著な反応をヨルンヴェルナは見落とさず、蛇のように狡猾に笑った。
「僕ら魔法使いなら、身を守るために風で障壁を張ってしまうからねぇ。魔力を持たない者の意見はとても貴重なんだ」
ヨルンヴェルナが、耳元の極近くで囁いた。ほとんど唇が触れていて、彼が口を動かすたびにゾクリと何かが背筋を駆ける。
「そうだ。あの時、ほんの少し違和感があったんだよねぇ。レイディルーン君にやられた傷以外、君の体にはほとんど怪我が見当たらなかった。それってよく考えると不思議だよねぇ」
「あの、」
「教えて、シェイラ君」
耳に息を吹き込まれた、その時。
ぐぅぅぅぅぅぅぅう~っ
「あ、」
シェイラはヨルンヴェルナを見上げた。面白いほど呆然としている彼の視線を辿って、そっと自分のお腹を押さえた。
「…………すいません。このくらいの時間になると、どうしてもお腹が空いてしまうんです」
気まずさから明後日の方向を見ながら「お風呂掃除がまたいい運動になるんですよねハハ」と言い訳を重ねていると、ヨルンヴェルナが突然屈んだ。
背中を見下ろしていると、やがて彼の肩がプルプルと震えだす。漏れ聞こえてくるのは、隠しようもない笑い声。
「ク…………ククッ、」
「……あのー、笑うなら全力でどうぞ。こっちも我慢されると複雑な気持ちになるんで」
シェイラが言うと、ヨルンヴェルナは本当に遠慮をかなぐり捨てて笑い出した。腹を抱え、涙まで流しながらの大笑い。笑いすぎて呼吸が苦しいのかたまに噎せている。
「そこまで笑うほどのことじゃないと思うんですけど……」
「クク……だって、タイミングが……絶妙すぎる…………」
笑いの発作が収まったヨルンヴェルナが、目元を擦りながら顔を上げた。これでようやくシェイラも動くことができる。壁に手を付いたままの彼の頭が腹に当たっていて、動くに動けなかったのだ。
笑いの名残が込み上げて来たのか、ヨルンヴェルナはまた腹を押さえていた。
「……はぁ、10年分は笑わせもらったよ。面白かったから、今日は特別に見逃してあげる」
「ありがとうございます」
シェイラはすかさず頭を下げた。見逃してもらえるならば理由などどうでもいい。その間にクローシェザードに相談すれば、対策も立てられるというものだ。
「……ふふ。君は本当に見ていて飽きないな」
シェイラの身代わりの早さが面白かったらしく、ヨルンヴェルナは再び笑いを漏らした。その瞳は穏やかで、小さな子どもでも見守るように安らかだった。
彼の指が、汗に濡れたシェイラの髪に触れる。その手付きが思いの外優しかったので、振り払わなければとは感じなかった。
「――――おやすみ、シェイラ君」
つむじにキスを落として、ヨルンヴェルナが去っていく。
引き際はいつもあっさりしているなと思いながら、シェイラはポリポリ頬を掻いた。