雑用と風呂掃除
「とまぁそんな感じで、結局二時間怒られっぱなしでした……」
「自業自得だな」
「何でフェリクスってあんなふうに理路整然と怒るんですかね。クローシェザード先生にそっくりですよ」
「自業自得なのに反論の余地がある訳ないだろう。というか、本人の前でよくも堂々と悪口を言えたものだな。そんな無駄話はいいから手を動かしなさい」
「って、全部クローシェザード先生の仕事じゃないですか。完全に私をこき使ってますよね」
クローシェザードからいつもの教員室に呼び出され、シェイラは延々と雑用をやらされていた。三日に一度の恒例行事だ。
彼は休む間もなく手を動かしている。報告会の愚痴も話し半分で聞いているに違いない。
シェイラの仕事といえば書類を項目ごとに分けるくらいのことなのに、よく読み込んで決裁の印を押したり差し戻したりと忙しいクローシェザードに追い付かれてしまいそうだ。シェイラは慌てて作業に戻った。
黙々と書類を整理し、ついでに裁可済みの書類と差し戻し書類を運ぶ場所ごとに振り分けていく。
「……というか、先生働きすぎじゃありません?騎士科に全然関係のない書類まで交ざってるじゃないですか」
よく見たら文官科の書類まで紛れ込んでいる。これは確実にクローシェザードの領分外だろう。仕事が早いために頼られてどんどん仕事が回って来るのだろうが、早く確実にこなすほど仕事が増えていくなんて不毛すぎる。シェイラに言わせればただの悪循環だ。
けれどクローシェザードは文句の一つも言わずに書類を読んでいる。器用に何でもそつなくこなすように見えて、この人は意外と不器用ではないだろうか。
「働きすぎだと思うならば、もっと効率よく手伝ってくれると大変ありがたいのだが」
「そもそも二人でやる仕事量じゃないって言ってるんですよ。それに私は活字が苦手ですし」
「そのための手伝いではないか。何の書類か分かる程度には読めるようになってきたのだろう?」
「――――あ。そういえばそうですね」
とはいえ、特訓や勉強と称してこき使われているのは間違いないだろう。雑用のあとに宿題としてもらっている文字の練習帳も、文書の書式や改まった言葉ばかりで日常の役に立ちそうなものは一つとしてない。一石二鳥というか、とことん効率や合理性を優先するクローシェザードらしい。
「ところで性別の件、ヨルンヴェルナの他にはばれていないだろうな?」
「ばれてませんよ。用心のためにいつでも胸当てをしてるし。これなら何かの弾みで胸に触られても、全く問題ありません」
シェイラはむん、と胸を張ってみせた。ブレザーだとさらしを巻いていても心許なかったので、いっそ四六時中稽古用の胸当てをすればと苦肉の策を編み出したのだ。
「女性ならば何かの弾みで触られることを全力で回避すべきだと思うが、君相手に普通の対応を求めても意味はないな。むしろここは、ずっと胸当てをしている不自然さについて、周りが怪しまないのか訊くべきか」
「あぁ。一度コディに訊かれたけど、『いつ何どきでも戦えるようにしてる』って言ったら納得してくれましたよ」
「そうか……。コディは賢明な判断をしたな」
クローシェザードは遠い目をした。疲れ目には遠くにある緑のものを見ればいいと聞いたことがある。
「コディといえば、クローシェザード先生に昔から憧れてたみたいですよ」
以前彼が目を輝かせて語っていた、騎士団最年少入団記録の話を思い出した。
「13歳で近衛騎士団に入ったとか。スゴいですよね。まだ本格的な訓練前、というより入学直後じゃないですか」
「当時は政変下で、どの派閥も人材不足だった。私はたまたま国王陛下にお目通りする機会が何度かあったから、実力はともかく信頼されていたというだけのことだ」
クローシェザードは紙面から視線を上げずに答えた。
「そうそう、コディも政変がどうとか言ってました。でもデナン村でそういう話は聞かなかったな」
「あの山奥の村ならば、政変という血生臭い話とは無縁だっただろうな」
「どうせ田舎ですよ。クローシェザード先生、政変って、一体どんなことがあったんですか?私も詳しく知りたいです」
カリカリと流麗な文字を書く手が、ピタリと止まった。
「…………知りたいと思うのなら、自分で調べてみなさい。長く面倒な話を始めれば作業が滞る」
クローシェザードはシェイラを見なかった。先ほどまでのように紙面を見つめたままなのに、孔雀石色の瞳は文字を上滑りしているようだった。表情の薄い横顔から何かを読み取るのは難しいけれど、それ以上言及する気は湧かなくなっていた。
黙り込むシェイラの気遣いを感じ取ったのか、珍しくクローシェザードから口を開いた。
「まだあの頃は経験も浅かったため、フェリクス様の護衛という大役を任された時は流石に緊張したものだ」
彼の言葉を聞いて、シェイラは目を瞬かせた。静かな室内にペンを動かす音だけが響く。
「……え。それってデナン村に来た時のこと言ってます?じゃあ、あの時クローシェザード先生は13歳だったと?」
シェイラがあまりに低い声を発したからか、クローシェザードが訝しんで顔を上げた。
「それがどうしたと言うのだ?」
「あの時私は4歳……ってことは11年前。つまり先生は現在、24歳!?嘘!絶対三十路間近だと思ってました!」
愕然とするシェイラに、クローシェザードは頭が痛いとばかり首を振った。
「……君は、私の発言を聞いてそんなことにしか気付けないのか」
「え?クローシェザード先生が意外と老け顔だったこと以外に何か重要なことありましたっけ?」
「……………………」
真剣に聞き返したというのに、クローシェザードはむっつり黙り込んでしまい、結局何も教えてくれなかった。
その日の宿題がいつもの三倍に増やされたことは、改めて言うまでもない。
◇ ◆ ◇
夕食後、宿題と格闘しへとへとになったシェイラは、よろめきながら廊下を歩いていた。
全力で頑張ったのに、数ページしか進んでいない。次の呼び出しまでに果たして終わるだろうか。
「うぅ。クローシェザード先生が鬼畜すぎるんだ……私はまだまだ働かなくちゃいけないのに」
学生達が風呂を終え、夕食を食べて寛いでいる時にも、シェイラにはやるべきことがあった。そう、風呂掃除だ。
浴場は広く、湯船も大きい。これを毎日一人で掃除するというのはかなりの肉体労働だ。体力作りのためと前向きに捉えているものの、勉強で疲れきっている時は流石に挫けそうだ。
シェイラは脱衣室で胸当てを外し、部屋着のみという軽装になった。ズボンの裾を膝までまくり、「よし」と無理矢理気合いを入れる。
かなり過酷な労働だが、広い浴槽を独り占めというご褒美が待っているから頑張れる。
夕食時には石鹸の匂いをさせている男子に混じって肩身の狭い思いをしているのだ。濡らした布で最低限の汚れは落としているものの、自分だけが汗臭いというのは女子力の低いシェイラでも結構辛い。なけなしの女らしさまで根こそぎ奪われていくような気分になるのだ。
「それくらいのご褒美がなくちゃ、やってられないよ」
まずは浴槽に浮かぶ髪などのサマザマな浮遊物を網で掬って除去する。これだけでも普通の女の子なら泣いて嫌がると思う。汗臭い男共のサマザマな汚れなのだ。
シェイラは直視しないように気を付けながら作業を終える。次にざっと浴室全体にお湯をかけ、ブラシで端から磨いていく。もわんと湯気の漂う浴場は熱く、作業をしている内に全身が汗だくになっていく。顔が熱くてのぼせそうだ。
「これ、授業くらい辛いかも…………」
力を入れていた右腕の強張りをほぐすように、肩を回しながら一息入れる。
頬を流れる汗を拭って天井をぼんやり見上げていると、外に繋がる扉がカタリと音を立てた。
「――――シェイラ」
次いで聞こえてきた声に、シェイラは目を見開いた。