旅立つ朝
春の一の月、実の日から新学期が始まるということで、旅立ちの準備は慌ただしく行われた。
王都に行って騎士を目指すと打ち明けると、幼馴染み達は揃って賛成した。曰く、『お前は村人その一の嫁に収まるような器じゃない』ということだった。数少ない貴重な女友達も、似たような反応だった。
お世話になった人達へ別れの挨拶を済ませ、荷造りもほとんど終えた。向こうで新しい物を揃えるから、持ち物は最低限でいいらしい。思い出の詰まった品や手に馴染んだナイフなど、大切なものだけを荷袋に入れていく。
あらかたの整理を終えたシェイラは、カーペットの敷かれた床に腰を落ち着けながらフェリクスに視線を向けた。
「兄さん、あの時何で庇ってくれたの?」
突然の質問に驚くことなく、フェリクスは何てことなさそうに肩をすくめる。
「妹の意志を尊重するのは、そんなにおかしなことかい?」
「私だって、自分がとんでもないことを言っているのは分かってるつもりだよ。兄さん、私が無茶をする時はいつもなら止める側に回るでしょう?」
騎士には、男のみがなるもの。
法によって定められているわけではないが、この国では古くからそんな慣習があった。シェイラ自身、女の身で騎士を目指すなんて無謀以外の何物でもないと承知していた。
フェリクスは立ち上がり、シェイラの頭にポンと手を載せた。穏やかな灰色の瞳が優しく細められる。愛情のこもった兄の瞳が、髪を撫でる慎重な手付きが、子どもの頃から大好きだった。
「シェイラ。僕はね、村の中で当たり前に生涯を終えようとしている大切な妹に、広い世界を知ってもらいたかったんだ。こんな狭い村には、お前の価値が分かる男なんていない。お前の真の価値は、王都に行けばきっと証明されるはずだ。……それに僕自身、そろそろ潮時かなと思っていたし」
「潮時って……それは、兄さんが王都出身なことに関係あるの?」
フェリクスは驚いたように目を瞬かせた。その拍子に、銀色の睫毛が光を弾いてきらめく。どんな仕草にも品があり、村の粗野な男達とは一線を画していると思った。
「……お前は、何も考えていないようでいて、時々核心を突くよね。なぜそう思うの?」
「昔、兄さんと騎士様が山で話しているのを、見かけたことがあったから」
あれは確か、兄が7歳、シェイラが4歳のことだった。
狩猟以外で山に近付きもしない兄が、手ぶらのまま奥に分け入っていくのを見かけ、こっそり後を尾けたのだ。フェリクスは、見たことのない衣装に身を包んだ青年と落ち合った。それが騎士だとその当時は知らなかったが、一分の隙もない着こなし、隊服の洗練された形、胸を飾る貴章の輝かしさ。全てが特別に感じて、目を離せなかった。
フェリクスが感心した顔で口を開いた。
「驚いたな、よく覚えているね」
「私、興味のあることはいつまででも忘れないから。あの日の騎士様がカッコよかったから、私も目指してみたいと思ったんだ」
「――――そうか。そういえばあの時、確か珍しい大虎が襲ってきたのだっけ」
あの時、屈強な村人でも倒すのに手こずる凶暴な猛獣を、騎士は数太刀で切り伏せてみせたのだ。あの衝撃は、シェイラの胸の中で未だに褪せることなく残っている。
「それにしても、つまりお前はあの当時から血の繋がりがないことを認識していたという訳かい?」
「すぐに気付いたわけじゃないよ。兄さんが騎士様と会ってるのがどういうことかなんて、私には分からなかったから」
兄は物心がついた時には家にいて、シェイラは当たり前のように兄弟だと思っていた。両親が分け隔てなく育ててくれたからだ。あの出来事がなければ、シェイラは未だに血の繋がりを疑っていなかったに違いない。
「それから注意して見てる内に、兄さんの所作が洗練されすぎてて浮いてるなって気付いたんだよね。顔立ちも繊細すぎるし。……それに、これだけモテるのに結婚しようとしないってことは、いずれ村を出て行くつもりなんだろうなって、思ってたから」
兄は、村に住む年頃の乙女の視線を独占していた。縁談の申し込みも両手の指で収まらないほどだった。成人をとっくに過ぎているのに嫁を貰っていないのは、シェイラのように残念な理由ではないのだ。
フェリクスは以前、誰とも結婚するつもりはないことを家族に打ち明けていた。それを聞いた両親の、どことなく淋しげな、何かを堪えるように反論を呑み込んだ表情が印象的だった。シェイラは当時事情を知らなかったが、兄がこの村に根付くつもりがないことを本能的に察した。
神妙に黙り込むシェイラに、フェリクスは眉尻を下げて微笑んだ。
「本当に、核心を突くね。……そう。僕は元々、成人したら山を下りることが決まっていた」
「成人したら?」
「デナン村では15歳で成人とされているけれど、街では18歳でようやく一人前なんだよ。本当は、冬の成人式を迎える時期に村を出なければならなかったのだけれど…………どうにも離れがたくてね」
一旦言葉を区切り、フェリクスはどこかくすぐったそうに笑った。家族の他には滅多に見せない、心からの笑顔。
「だからね、正直に言うと、シェイラと一緒に王都に行けることになって、嬉しかったんだ」
本心から言っていることが分かるから、シェイラまで嬉しくなって微笑んだ。
「私も、兄さんが一緒なら心強いよ」
「どうかな?お前は僕がいてもいなくても平気だと思うよ」
しばらく、クスクスと笑う二つの声が居間に響いた。さざ波のように笑いが収まった後、シェイラは遠慮がちに口を開いた。
「……兄さんが何者なのか、今は聞かない方がいい?」
フェリクスは僅かに目を見開き、再びゆっくりと笑みを作った。
「そうだね……。いつか話すべき時が来たら、話すよ」
「――――分かった。なら私は黙って付いてく」
「あと、向こうに行ったら僕らが兄弟だってことを気付かれない方がいいかな。今から『フェリクス』と呼んで、慣れておいてほしい」
「そっちも、理由は聞かない方がいい?」
「うん。ほんの僅かでも不穏分子は排除しておきたいんだ」
「分かった。フェリクスね」
従順に頷いていると、フェリクスは困ったように苦笑した。
「……お前ね。本当に物事を疑わなさすぎるよ。都会に行くわけだし、流石に心配だな」
「だって兄さんを疑う必要、ないもの」
兄を信じることに一片の疑念もないとばかり、澄んだ眼差しがフェリクスを射抜く。『あ。フェリクスって呼ぶんだった』と呟く可愛い妹に、またくすぐったそうな笑みをこぼした。
「…………ありがとう。そうだね。僕のことは全面的に信用していい。そして王都に行ったら、信用できる相手を少しずつ増やしていくんだ。自分できちんと見極めながらね。そうしてお前が世界を広げていくのが、僕の幸せ」
フェリクスの言うことは難しくて、シェイラはいつもよく分からない。けれど兄の助けで、途切れそうだった夢への道が開けたのだ。
あの時輝いて見えた騎士のようになりたい。希望を胸に、シェイラは満面の笑みで頷いた。
◇ ◆ ◇
いよいよ旅立ちの朝がやって来た。
一人娘が初めて村を出るというのに、別れはなぜかとても淡々としていた。
「――――まぁあんたは、どこに行っても何だかんだ図太く生きていけるだろうから、あんまり心配しちゃいないわよ」
オロオロするヒューイとは対照的に、タニアがどっしりした態度で言った。
「大丈夫。シェイラは僕が必ず幸せにすると誓うよ」
フェリクスがいつもの笑顔のまま、軽口で応じる。母は迂乱げな眼差しになった。
「ある意味それが一番心配だから。あんたはそういう洒落にならない冗談やめなさい」
「フフ。――――保護者として、全力で守ることを約束するよ」
息をするごとく他者をからかう息子の困った性分に、タニアは頭を抱えて首を振った。
「ハァー。あんた達みたいな問題児を野放しにするなんて、やっぱり間違ってたかしら。シェイラ、あんまり暴走して周りに迷惑かけるんじゃないわよ」
「シェイラは前向きだから、仕方ないよ」
「フェリクス、のんびり構えていないでちゃんと止めるんだぞ?」
父はすがるように悲壮な顔で呟いた。シェイラの行く末はフェリクスの双肩にかかっていると言ってもいい。
「前向きって言えば聞こえがいいけど、この子は手のひら分の幅くらいしか前が見えてないから心配になるのよ。視野が狭すぎて、結局前方不注意なんだから」
「目標を見つければ、脇目もふらずに走り続ける子だからね」
「そうだな。熊を狩る時なんか、一週間帰って来なかったりしたっけな」
ヒューイの発言で、不意にしんみりした雰囲気になる。
家族四人で暮らしてきた思い出が次々に甦った。そのほとんどが、シェイラの引き起こす事態を終息させるために奔走した日々になっていき、当人以外が疲れたため息をつく。
シェイラが家を出ていけば、日々は平穏になるだろう。けれど安心より寂しさが上回るのは、大切な家族だから。
「……周りに追い付くのが大変だろうから、長期休みのたびに帰って来いなんて言わないけど、何年かに一回くらい顔を出しなさいよ。とにかく二人共、元気でいればそれでいいわ」
はっきりと別れの気配を感じ取り、シェイラは背筋を伸ばす。一度ぐるりと村を見回した。
赤土と草を練ったもので作られるデナン村の家は、半円球状の形をしている。ご近所同士で協力し合うため、ほとんどの住宅が同じ様式。幾つもの卵が大地から顔を覗かせているような光景を、シェイラは惜しむように心に焼き付けた。しばらくは、この慣れ親しんだ風景ともお別れだ。
「――――それじゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい。頑張るのよ」
両親と代わる代わる抱擁し、顔を上げる。その面には、一切の不安がなかった。
最後の瞬間までらしすぎる愛娘に、タニアは破顔した。
旅立つ二人の上には、晴れがましい蒼天が広がっていた。