月の日の報告会
月の日。簡素な私服を身にまとったシェイラは、いつも通り馬車停めに向かった。
頭上には青い空が広がり、東側には小さな山が頭を出している。学院は貴族街の中でも郊外に建てられているため、そこかしこに自然が残っていた。
あの山に行けば、使用した薬草の補充ができるだろうかと考えながら歩いていると、あっという間に馬車停めに到着していた。
迎えの馬車は既にシェイラを待ち構えていた。いつ見ても勿体ないほど立派な馬車だ。しかも他の生徒達が驚愕の眼差しで凝視しているのが分かるため、何とも居心地が悪い。シェイラは人目に付かぬよう、そそくさと馬車に乗り込んだ。
「やっぱり私みたいな平民に、馬車でのお迎えは勿体ないと思う……」
座面にぐったり体を預けながらぼやくと、同乗していたルルがクスクスと笑みを漏らした。
「徒歩での一人歩きは、フェリクス様がお許しにならないと思いますよ」
「そうだけど……。とりあえず、ルル。久しぶり」
「お久しぶりです、お嬢様。お変わりないようで安心いたしました」
しばらく馬車に揺られると、ようやく見慣れてきた大きな屋敷が近付いてきた。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
出迎えてくれたリチャードを伴って、まずはフェリクスの部屋を訪ねた。
「ただいま兄さん…………じゃなくて、フェリクス」
執務室にひょこりと顔を出すと、透けるような銀髪の貴公子が蜂蜜よりも甘い笑顔を見せた。
「おかえり、シェイラ。僕の可愛い妹は、まだ呼び方の変化に慣れないのかな?」
「しばらく会わないでいると戻っちゃうの。自分を『僕』って呼ぶのはすっかり慣れたんだけどね」
とびきり糖度の高いフェリクスの愛情も久々だ。名を呼ぶ声はこんなに甘やかだったかと少し恥ずかしくなる。
「さぁ、まずはお茶を楽しもうか。せっかくシェイラが帰っているのにいつまでも働いていられないからね」
「仕事はいいの?」
「急ぎの仕事は全て終わらせてあるから心配ないよ」
ダイニングでは、既にルルがお茶の準備を整えていた。白磁のティーセットに、繊細なレースの模様が美しいケーキスタンド。そこには一口サイズのイチゴケーキやタルト、マドレーヌやフロランタンが綺麗に並んでいた。
「わぁっ、おいしそう」
「シェイラのためにお菓子を沢山用意しておいたんだ」
「ありがとう、フェリクス」
シェイラの前に甘いミルクティが置かれる。フェリクスはストレートだ。和やかな雰囲気でお茶会が始まった。
「んっ、このクリームいっぱいのヤツ、おいしい」
「それはシュークリームというものだよ。最近王都で流行っているお菓子らしい」
口の中から幸せを逃したくなくて、シェイラは無言のまま何度も頷いた。その様子をフェリクスが愛おしげに見つめる。
兄弟の至福のひとときを、ルルが微笑ましそうに見守り、リチャードが呆れたように嘆息した。
シェイラが一通りお菓子を食べ終えるのを待って、フェリクスが本題に入った。
「それじゃあ報告をしてもらおうかな。この前みたいに、心臓に悪いことばかりでなければいいのだけれど」
「う、」
先々週は、入学時にやらかしてしまった諸々で心労をかけた。先週は先週で、貴族の子息と少しばかりトラブルになっていたのだ。
平民をあからさまに蔑む集団がいたのだが、シェイラとてそれだけならば特に気にならなかった。だが彼らは武器の種類や性能を学ぶ授業で、平民と同じ武器に触れることを嫌がったのだ。こうもあからさまだと流石に気分が悪い。授業を滞らせていることにも腹が立った。
それでもゼクスもバートも我慢していたので、ここで怒って今までの彼らの苦労を水泡に帰すわけにはいかないと必死に耐えていたのだが、それがよくなかった。
溜め込んで溜め込んで、溜め込みすぎたせいで、どうやら不満が殺気に変化して表面化してしまったらしい。貴族集団が怯えて使い物にならなくなり、ますます授業は混迷してしまった。
「あれは、確かによくなかったと思う……ごめんなさい」
しょんぼり肩を落として謝ると、フェリクスは苦笑した。
「まぁ、癖みたいなものだからね。お前は狩りの時も、近くをうろつく小動物相手なら殺気を飛ばして、動けなくなったところを仕留めていたから。同じように、厄体もない貴族の子息へ無意識に殺気を飛ばしてしまったんだろう」
「そっか……自分でも何でって思ってたんだけど、そういうことだったんだね」
「おや。気付いていなかったのかい?お馬鹿さんだなぁ」
フェリクスの繊細な指先が、額をコツン、とつつく。シェイラははにかんで笑った。
甘ったるい光景を前に、リチャードの瞳が光を失ったように濁った。主人のこういった甘やかしが、シェイラの成長を著しく妨げていると痛切に思う。
「でも今週は、それほど問題なく過ごせたと思う。ちゃんと考えて、厄介事を回避できるようになってきたんだよ」
ミルクティを一口含んでから、シェイラは嬉々として語った。
実力テストがあって、三人と試合をしたこと。最上級生のセイリュウに勝利したこと。二戦目のリグレスには元々嫌われていたが、更に怒らせてしまったらしく真っ赤な顔で走り去っていったこと。これは減点対象だろう。
レイディルーン相手には怪我を負ったが、何とか勝ちを拾ったこと。彼とは和解できたようで、怪我を治すと申し出てくれたこと。貴族相手に恐れ多いからと、ちゃんと辞退できたこと。ちなみに失礼だと気付かせてくれたクローシェザードの存在は内緒にした。シェイラだってたまには褒められたいのだ。
シェイラはワクワクしながらフェリクスの反応を見守った。彼は優しく微笑んだまま、彫像のように動かない。
あれ?と思った時には、嫌な予感が首筋を駆けていた。
「…………それで?」
「え、」
「それで何もやらかしていないと言い張るの、お前は?」
兄の笑顔が氷点下に咲く氷の華のように輝いた。
「ミフネ家といえば平民ながら騎士を多く輩出している名家だ。現在の当主には残念ながら武の才覚がなかったようだが、その長男は将来武功を立てれば叙爵もあり得るのではと専らの噂だよ。一般コースにいるけれど、卒業後は巡回兵団の団長になると既に内定しているそうだ」
「へ、へぇー。スゴいんだね、セイリュウ先輩って」
「そのセイリュウ⋅ミフネに勝ってしまったんだよ、お前は。向こうも四年生が相手ということで、かなり手加減をしていたとは思うけれど」
淡々とした物言いに、シェイラはそっと居ずまいを正した。これは三週連続のお説教確定だ。
ルルも来る脅威を理解し、手早く食器を片付け始めた。
「次にオルブラント家だけれど、オルブラント伯爵は有能な外交官で他国との繋がりも強く、国内での勢力も一伯爵家とはいえ侮れないものがあると聞く。リグレス⋅オルブラントはその一粒種だ。目に入れても痛くないほどの溺愛ぶりだと有名なのだけれど、外交官だけあって社交面だけは厳しく仕込まれているらしい。そのリグレス殿が、真っ赤になって走り去る?一体何をすればそんな事態になるのか、ぜひ教えてほしいな」
「う、」
「セントリクス家に至っては言うに及ばず。先々週も散々言ったよね?筆頭公爵家に関わるな。どうしても関わらなければならない場合、細心の注意を払って接するようにと。……やれやれ、僕の可愛い妹は、全て耳から落としながら帰ってしまっていたらしい。これはもう二度と忘れられないように、もっと長く、厳しく、ねちっこい愛に溢れた手法を取らざるを得ないようだ」
「ね、ねちっこいのはヤダ……」
プルプルと震える妹に、フェリクスは愛でも囁くような距離で微笑んだ。
「嫌がるお前もまた愛おしいよ」
けれどシェイラを捉える視線はまさに猛禽のそれだ。決して獲物を逃しはしないと、獰猛な瞳が語っている。
視界の隅に、静かに退室していくリチャード達の姿が見えた。シェイラは助けが期待できないことを悟る。
「いゃああああああぁぁぁっ!」
……乙女の悲鳴がこだまするダイニングの扉を、リチャードとルルがそっと閉じた。