憎悪の先
シェイラは爆風に勢いを乗せて飛び上がった。風圧に背中を押されるように体がぐんと加速する。
セイリュウと相対した時に比べて、リグレスの背後を取るのはそう難しいことではなかった。向こうもすぐに反応したが、その一瞬の差で勝負は決した。振り向く彼の喉元には、既に鋭い切っ先が突き付けられている。
けれどリグレスは降参を口にしない。瞋恚に瞳をぎらつかせながらシェイラを睨み続けている。
「――――――そこまで!」
勝負が着いたと判断した審判が、代わりに声を上げた。その瞬間、リグレスが忌々しげに距離を取った。シェイラも武器を収める。彼は親の仇のごとく睨み続けたままだ。
「レイディルーン様にお前のような猿が近付くなんて、僕は絶対認めないからな!」
貴族に逆らうべきではないと分かっているが、この誤解だけは訂正させていただきたい。シェイラはおずおずと口を開いた。
「……えっと、別に近付いてませんよ?話しかけてきたのも向こうですし、それもあれきりの出来事ですし」
「レイディルーン様にお言葉をかけてもらうこと自体がどれだけ尊いのか、お前は分かっていないんだ!」
「………………」
あれは、ぽっと出の庶民に身分の差を知らしめようとしただけだと本人が言っていたのだが、それほど素晴らしい出来事だったのだろうか。とはいえ、これ以上は何を言っても怒らせてしまいそうなので口を噤むことにする。
リグレスは泣きそうに顔を歪めた。
「悔しい……お前なんかにこの僕が敗けるなんて」
「リグレス先輩……」
貴族は感情を面に出すことをよしとしていない。にも関わらず、ハッキリ悔しいと口にするリグレスに驚きを覚えた。
向けられる憎しみも、怒りも。思えば最初から剥き出しの感情だった。それほどまでにレイディルーンを慕い、シェイラを厭っていたのだ。
嫌われていても、本音で向かってくる相手に言葉を包むことは難しい。よせばいいと知りつつ、シェイラはつい本心のままに告げた。
「僕を嫌っているばかりに、周りが見えなくなっていただけですよ。騎士を目指しているというのに、先輩ともあろう人が、剣を使うことすら忘れていたでしょう?本当なら、僕より何枚も上手であるはずなのに。…………何て、僕に言われても嬉しくないでしょうけど」
シェイラはつと、リグレスの頬に手を伸ばした。
流血には至っていないが、うっすらと血がにじんでいる箇所がある。剣が向けられていることに構わず振り向いた時、刃先が僅かに触れたのだろう。
「あとで塗り薬を渡したら、使ってくれますか?」
「え?」
「よく効く薬を持ってるんです。…………綺麗な顔に傷でも残ったら、悲しいですから」
そう言うと、リグレスの表情が劇的に変わった。
目も口もポカンと開いたあと、何を言われたのか分からないとばかり眉根を寄せる。理解が及ぶと、それが反映されたかのようにじわじわと赤くなっていく。
最終的には真っ赤になったリグレスは、目をチカチカさせながら後ずさった。
「ぼ…………僕が綺麗なことは、当然だろう!?お前のような庶民とは格が違うんだ!」
「はい。リグレス先輩はとても綺麗で、可愛いです」
真顔で即答すると、リグレスは魚のように口をはくはくさせた。そして決まり悪げに視線を外し、ぎゅっと唇を引き結ぶ。
「じ、自分の方が、怪我だらけの癖に…………!」
シェイラはこてん、と首を傾げた。
彼の反応は謎だが心配されていることだけは分かったので、ふわりと笑みを浮かべた。
「心配してくれるんですか?大丈夫ですよ。これくらい、跡形もなく治りますから」
「だだ誰が心配など!!」
リグレスは心底悔しそうに歯噛みしながら走り去っていく。その顔は最後まで真っ赤なままだったので、やっぱり怒らせてしまったらしいとシェイラは解釈した。
少し気落ちしていたところに声を掛けてきたのは、呆れ顔のゼクスだった。
「……お前、よくあんな歯の浮くような台詞が言えるな」
「あれ、ゼクス。見ててくれたんだ」
「あぁ。試合前からお前らが睨み合ってるから、声掛けらんなかったんだよ。大怪我するんじゃねーかと心配してたけど、まぁその程度で済んでよかったな」
「ものすごーく嫌われてるっていうのがよく分かったよ。事前に教えてくれてありがとう、助かった」
シェイラがお礼を言うと、なぜかゼクスが何とも形容し難い顔で静止した。
「………………え。お前マジで言ってる?あの反応見て?」
「あの反応?先輩が怒って走ってったこと?あ、そういえば。さっきの歯が浮く、って何?僕、おかしなこと言った?」
ゼクスはますます顔をしかめたが、答えはくれない。ただポンポンと肩を叩かれた。
「……まぁ、大金星おめでとう、とだけ言っておくわ」
「ありがとう。でも、課題はあったよ」
リグレスと対戦して、つくづく痛感したこと。
――今のままじゃ、ダメだ。使える使えないは関係なく、魔術の勉強をしなきゃいけない。
基本的に詠唱の声は小さいものだが、理解できていないせいか不自然なほど聞き取れない。けれどもっと理解を深めれば、どんな魔力を行使するのか事前に察知できるようになるし、戦術の幅がグッと広がるはず。戦いに勝つために、敵の武器を知るのは常套手段だ。
ゼクスの三戦目を応援できないことを謝り、シェイラは治癒室に向かった。深傷はないが、身体中に小さな傷がある。完治とまではいかずとも、低級の治癒魔法なら出血と痛みを抑えることくらいはできたはず。今は普段通りの体調に持っていくのが最優先だ。
万全の態勢で臨めるように。第九試合――――最終試合での、レイディルーンとの戦いに備えて。
◇ ◆ ◇
「失礼します」
治癒室の中は怪我人で溢れかえっていた。この日は治癒室も戦場のような忙しさに変わるらしい。
クローシェザードの注意があったというのに、重傷者が数名いた。故意に大怪我を負わされたのではと思ったが、そんな心配も一瞬で霧散した。その数名の中に、暢気な顔をした寮長を発見したからだ。
「随分な怪我だっていうのに、何をニヤニヤしてるんですか」
アックスは左腕と左足の骨折、頭にも包帯を巻いている。他の重傷者に比べて元気なので、応急処置のみ施し放置されているのだろう。
「酷い怪我はしたけど、勝ったとかですか?」
「いやぁ、敗けちまったけどよ。でもいいよなぁ。自分より強い相手と戦うっつーのは、いつだって血湧き肉躍るぜ!なぁみんな!」
ベッドに寝かされている重傷者達が、応えるようにこぶしを突き上げた。アックスの脳筋仲間なのか悲壮感は全くない。
「呆れた。こっちは心配したっていうのに……」
一人言のつもりだったが、シェイラのぼやきにアックスが振り向いた。その瞳にはらしくもなく真剣な光が宿っている。
「心配はこっちの台詞だ。お前さん、レイディルーンとの対戦が控えてるだろう。大丈夫なのか?」
レイディルーンは、アックスよりも魔力が強いらしい。そんな相手に魔力なしのシェイラが向かっていくのは、危険を通り越して無謀にしか思えないという。
「――――敗けて当然、をひっくり返すのが、勝負の面白さじゃないですか」
心配はありがたく受け取りながら、シェイラは好戦的な笑みを浮かべた。アックスは一気に瞳を輝かせる。
「おおっ!何と同志であったか!シェイラ、お前もぜひ、我が筋肉同盟に!」
「寮長とは一緒にされたくないなぁ。ていうかそんな同盟、初耳ですし……」
気にはなるが、本能が一線を越えるべきではないと告げている。シェイラは丁重に辞退申し上げた。
アックスのしつこい勧誘に時間を取られ、危うく試合開始に遅れるところだった。急いで会場に向かう。
――でも、いい気分転換にはなったな。寮長と話したおかげで肩の力が抜けた。
筋肉同盟。ちょっといいかもしれない。
若干後ろ髪を引かれながら稽古場にたどり着く。途端、そこにいた全員の視線が集まった。三戦目を終えた者から寮に帰ってもいいとされているのに、ほとんどの生徒が残っているのではないだろうか。
――もしかして、注目されてる?
試合に関係のない寮長まで、当然のように知っていたのだ。みんな興味があるのかもしれない。――――圧倒的な力の差がある対戦に。
貴族は興味深そうにシェイラを見ていた。同じ平民は心配そうに。
コディやゼクス、仲のいい同期生と目が合った。同じように心配されているだろうと思ったが、彼らは静かな眼差しをしていた。そこに揺るぎない信頼を感じて、シェイラは小さく笑みを返す。
そして、ゆっくり視線を前に戻した。
視線の先に立っているのは、16歳のわりに上背のある体。風にたなびく黒髪に、他者を威圧する高慢な紫の瞳。
遠くから睨むでもなく、だだひたすらにシェイラを見据える――――レイディルーンがいた。