雨の訪問者
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シェイラは、渡り廊下を一人歩いている。
戦術に関する講義で資料とした兵法書を数冊、図書館に返しに行くところだった。
使い走りの貧乏くじかというとそうでもなく、コディとゼクスは魔道具返却のためにヨルンヴェルナの研究室へ向かっている。どっちもどっちというか、むしろシェイラの方が数段安全かもしれない。
まだ冬のさなかだというのに、今日はしとしとと雨が降っている。
僅かに積もっていた雪もすっかり溶けてしまっていた。早春になってなお、雪に閉ざされている故郷の村では考えられないことだ。
そぼ降る雨が空気さえしっとりと濡らし、花の枯れた中庭には、どこか寂しげな風情が漂っている。
――だけど植物は、冬の間に養分を蓄えてる。
それを考えると、爆発前の生命の力強さに触れている感覚が、寂しさをも凌駕していくようだった。
シェイラもこの冬は、力を蓄えるために頑張らねばならない。緩いようで厳しいヨルンヴェルナの講義も、延々と続くクローシェザードのしごきも。
「午後にはやみそうだな……」
珍しい冬の雨に気を取られていると、一組の足音が石畳の廊下を打った。
振り返った先には、思いがけない人物がいた。
薄暗い廊下に際立つ漆黒の髪。雨などものともせず颯爽と歩くその姿。
「――――え? レイディルーン先輩?」
シェイラは驚きで目を丸くした。なぜ、冬季休暇中の学院に彼がいるのか。
目の前に立ったレイディルーンは、変わらぬ傲然とした仕草で腕を組んだ。厳しさを宿す紫の瞳は、魔法石のようなきらめきを放っている。
「久しぶりだな、シェイラ。元気そうで何よりだ」
「レイディルーン先輩もお元気そうで。あ、新年もよろしくお願いします」
「あぁ。今年一年がお前にとって、実り多きものになるように」
少し遅い新年の挨拶を済ませ、シェイラは首を傾げた。やはり彼がここに現れた理由が分からない。領地経営について学ばねばならないため、忙しいと言っていたはずだ。
「レイディルーン先輩、どうして学院に? あ、すいません。寮長って呼ばなきゃいけないんでした」
慌てて言い直すと、レイディルーンは不機嫌そうに顔をしかめた。
「お前は名前で呼べばいい。寮長などと言われるのは不愉快だ」
なるほど。『寮長』という響きは、どうしても暑苦しい脳筋男を連想させる。いちいちあの筋肉と重ねられては、彼としても面白くないだろう。
「分かりました。これからも、レイディルーン先輩って呼ばせてもらいますね」
「いや、何なら『先輩』を付けずとも……」
「? 何ですか?」
モゴモゴと口中で呟くので、急に聞き取りづらくなる。無意識に身を寄せようとするシェイラから、レイディルーンはたじろぐように距離を取った。
「あ、すいません」
「いや……お前は何も悪くない」
無作法に気付き慌てて離れると、彼は逃げるように目を逸らした。そして懐から一通の手紙を取り出し、シェイラの手に押し付ける。
上質な淡い水色の封筒には、宛名も差出人も書いていない。だが、鮮やかな薔薇色の封蝋が施してあった。鷹の羽と花を組み合わせた、見たことのない紋章だ。
矯めつ眇めつ眺めていると、レイディルーンが口を開いた。
「……それは、ヴィルフレヒト殿下からお前宛にと預かってきたものだ」
「え? 殿下から?」
切り出された意外な用件に目を瞬かせる。というか、レイディルーンとヴィルフレヒトという組み合わせも意外だ。
「先輩、ヴィルフレヒト殿下と仲良しなんですね」
何気なく放った言葉に、なぜか周囲の温度が下がった気がした。渡り廊下ゆえなのか急に寒さを思い出し、シェイラはぶるりと身震いする。
「――――王族と公爵家は位が近いから、自然と身近な付き合いになるのだ。むしろ、平民のお前が殿下と親しくしている方が、余程おかしい。一体いつ知り合った? 殿下とはどういった関係だ? 手紙に怪しいことは書いていないだろうな?」
「え、えっと……」
雰囲気に圧され、つい口ごもってしまう。
さすがに筆頭公爵家の子息として、平民と王族の付き合いに黙っていられないのだろう。レイディルーンの眼差しは凍えるように厳しく、追及する声も刺々しい。
「その、成り行きで話すようになっただけで、殿下に危害を加えるつもりは全くありませんよ」
「そんなことは俺とて分かっている。どの程度親しいのかを聞いているのだ。殿下が一個人に宛てて私的な手紙をしたためるなど、今までになかった。しかも自分は王城を離れることができないからと、筆頭公爵家の子息であるこの俺を伝令扱いだ」
「それは大変申し訳ございません……」
使ったのはシェイラではないのに、あまりの迫力に思わず謝ってしまった。手紙を届ける相手が平民というのも、彼の矜持を傷付けたのかもしれない。
――これは確実に、返事を預けたらもっと怒るんだろうな……。
ここは無難に返信しないでおこうと、王族相手でも通常運転で無礼なことを考える。
そんなヴィルフレヒトとの親密さにレイディルーンが嫉妬していることも、彼が手紙の内容をしきりに気にしていることも、シェイラは全く気付かないのだった。
いい加減イライラが頂点に達したレイディルーンが、忌々しげに手紙を見下ろした。
「さっさとそれを読んだらどうだ? お前が返事を書き終えるまで、待っていてやってもいい」
「え? やっぱり返事を書かなきゃダメですか?」
口を突いた問いに、端正な容貌の中でも際立って美しい紫水晶の瞳が細められる。まずい対応だったことに気付いたシェイラは急いで取り繕った。
「えっと、実は午後から、王都の東にある森で実地訓練なんです。だから手紙を書いてる暇があるかなー、と思って」
咄嗟の言い訳だったが、レイディルーンは意外にも食い付いた。
「わざわざ、あんなところまで? 森で訓練したいなら学院にもあるだろう」
「いやぁ、僕が王都から出たことないって話をしたら、クローシェザード先生がせっかくだからって」
シェイラが浮き足立った成人の日の提案は、気晴らしに訓練の場所を変えようというだけのものだった。クローシェザードと二人きりということもなく、もちろんコディとゼクスも一緒だ。
その事実を知った時、シェイラは浮き足立った自分が恥ずかしすぎて、場所をわきまえず転げ回りたくなった。
――そもそも私、本当に何であんなに動揺しちゃったんだろ……。
自分の感情が把握できない。最近、こんなことがよく起こる。
またジワジワと頬が熱くなりそうで、シェイラは振り切るように首を振った。これは勘違いしていた自分が恥ずかしいからであって、決して他の感情ではない。
「そうそう、何でかヨルンヴェルナ先生もついて来るとか言い出したんですよ。結局全員で行くことになってるんです」
誤魔化すために口にしたのは、校外学習の参加者が増えたことだった。
食事と講義の時間以外は研究室にこもりがちなヨルンヴェルナだったが、どういった心境の変化か、最近は色々な場面で出没するようになった。
もしかしたら気付かぬ内に何かの実験台にされていて、経過を観察されているのではと友人達は戦々恐々としている。
逃避のように考えを巡らせていると、レイディルーンが驚くべき言葉を発した。
「俺も行く」
「え」
「ヨルンヴェルナに許されるのならば、生徒の俺が参加することに否やはないな?」
いや、あるだろう。とか、帰らなくていいのか。とか、ヴィルフレヒトの手紙のことを忘れていないか、とか。
言いたいことは山ほどあるのに、全て言葉にできなかった。
レイディルーンの言葉は、問いかけを装った脅迫だ。平民のシェイラに拒否権などない。
そう思わざるを得ないほど、彼の表情は凶悪だったのだ。
結局、更に人数を増やして校外学習は行われることとなった。
事の顛末を聞いた反応はそれぞれだった。
クローシェザードは案の定苦虫を噛み潰したような顔になり、ヨルンヴェルナは何がおかしいのか腹を抱えて笑っていた。コディもほんのり苦笑いをしたが、ゼクスは口元を一瞬引きつらせる以外の変化は見せなかった。
やたらと機嫌の悪そうなレイディルーンには逆らわないのが吉、と判断したためだろう。
「何でレイディルーン先輩、あんなに怖い顔してるんだろう……」
並足の馬に揺られながら、シェイラは隣のコディに小声で訊ねた。今も苦笑ぎみの彼は、栗毛の馬に騎乗している。
「自分がいない間に楽しそうにしていて、悔しかったんじゃないかな?」
「えぇ? レイディルーン先輩は、仲間外れにされたことを怒るような人じゃないよ」
「うーん。仲間外れが嫌だったというか、ある特定の人物にのみ向けられた感情というか……」
コディは気まずそうな視線を背後に送った。不機嫌そうに殿を行くレイディルーンが乗っているのは、これまた神経質そうな青鹿毛の馬だった。学院まで騎乗してきた彼の愛馬らしい。
もちろんシェイラは馬など持っていないため、学院が所有する馬を借りている。葦毛の愛嬌のある馬で、未だに駆け足が不得手なシェイラでも快く背中に乗せてくれた。
先輩の謎の不機嫌は気にしないことにして、雲の垂れ込めた空を見上げる。
雨はやんだが晴れ間は遠い。せっかくの外出に水を差すあいにくの空模様だが、シェイラは楽しい気持ちになった。
黒々とした雲は触れられそうに重たげで、空がいつもより低い位置に存在しているみたいだ。
「スゴいなぁ、手を伸ばせば届きそう」
独り言のつもりで呟いた言葉に、黒馬で先頭を行くクローシェザードが小さく笑った。
「子どものような感想だな」
「ちょっと、盗み聞きは犯罪ですよ」
「聞こえるような声量で言う方が悪い」
クローシェザードの笑みや、子どものような言い合いにコディが固まっているとも気付かず、二人は他愛ない口喧嘩を続けるのだった。