愛について
イザークが、シェイラを好き。
言われた内容があまりに衝撃的すぎて、理解が追い付かない。
からかっているのかとエイミーを見るも、彼女はいたって真剣だ。生まれてこの方異性に好かれたことなどないシェイラは、戸惑うばかりだった。
――イザークさんは、想い人のことを天使だとか語ってた。それが、私ってこと……?
正直、どうにも信じられない。
けれどイザークはこんなふうにも言っていた。
野に咲く菫のように力強くたくましく。かつ、どんな場所でも根付く生命力を持ち併せているような女性だと。
シェイラはつい、乾いた笑みを溢した。まさか人に好かれていると知って、こんな複雑な気持ちになるなんて思わなかった。
――確かあの当時、変わった趣味ですねって言っちゃったような……。
見事自分に返ってきた微妙な感想に、ますます切ない気持ちになる。
「えっと、こういった時どうすればいいのか、いまいち分からないんですけど……とりあえず、早めにお断りしちゃった方がいいですよね」
「ちょっと待って待って」
イザークの元へ歩き出そうとしたシェイラを、エイミーが慌てた様子で引き留めた。
「シェイラちゃん、顔に出てないだけで実はかなり動揺してる? 今のあなたは変装してないんだから、イザーク様も戸惑うだけでしょ。というかそもそも断るって、何でそんなに話が飛躍しちゃうの」
「えっと、今は恋をしている余裕なんてありませんし。変に期待させる方が残酷だって、昔友達から聞きましたから」
対象外だと思った時点で、サクッと切り捨てる優しさもある。シェイラの女友達はそう言っていた。そこで諦める者と、粘り強くしがみつく根性のある者と自動的に振り分けられる利点もあるのだとか。
それが常識だと思っていたが、どうやら王都では違っているらしい。エイミーに思いきり呆れられてしまった。
「とりあえず落ち着きなさい。大体、どうやって断るって言うの? 告白をされたわけでもないのに、いきなり『ごめんなさい』って言うつもり?」
「それは……」
「それとなく好きな人がいると匂わせるとか、遠回しにいなす方法は幾らでもあるわ。でも、嘘をつくのは誠実じゃないと思わない?」
「――――うぅ。おっしゃる通りです……」
エイミーに理路整然と諭され、シェイラは力なく項垂れた。
会話が盛り上がっているイザーク達の方を見遣る。彼の気持ちを受け止めようとさえせずに断るのなら、確かに無神経だ。
エイミーは、小さく笑んでシェイラを見つめた。
「なぜ、恋をするつもりがないの? あなたの言い方だと、イザーク様を好きになれないから断る、という感じでもないようだわ。恋をしながらだって、騎士は目指せるんじゃないかしら?」
シェイラは妙に焦って首を振った。
「イザークさんは、僕にはもったいないくらい素晴らしい人です。伯爵家とかそういう肩書きに関係なく、男らしくて強くて頼りになるし、本当にカッコいいと思います。……って、僕を好きだっていうのが検討違いだったら、こんなの思い上がりもいいところなんですけど」
どんどん尻すぼみになっていき、シェイラは俯いた。そこにはどこか心細げな、寄る辺のない子どものような姿があった。
「ただ僕は……人を好きになるのが、怖いんです」
ポツリとこぼした声は、コディ達の笑い声に掻き消されてしまいそうに弱々しい。
「恋をしてる人って、みんなその感情に振り回されてる気がするんです。あのイザークさんでさえ、仕事中なのに心ここにあらずって感じでしたし」
コディは格好よく見せたい気持ちが空回り、ルルの前でドジばかりするし、ゼクスは食堂の看板娘アリンちゃんにヘラヘラしてばかりだ。イザークの腑抜けぶりだって、この目でしっかり見ている。
「――――僕は、弱くなんてなりたくない」
恋を知らないから、怖い。好意を向けられることにも戸惑う。未知のものに怯えるシェイラを見守るエイミーの眼差しは、我が子を愛しむような慈愛に溢れていた。
「……まぁ確かに、恋って厄介なものよね。結局は惚れた方が負けってところもあるし」
「え、そうなんですか?」
恋に勝ち負けがあるなんて驚愕の事実だ。では、より多くの者を惚れさせれば、それは最強ということになるのか。
――そういえば村でも、狩りの上手い男が人気あったような……。あれ? 強いからモテる? モテるから強い? 何かこんがらがってきたぞ。
あからさまに混乱するシェイラを宥めるように、エイミーは優しい手付きで髪を撫でる。
彼女の笑みはいたずらっぽくて、むずがる子どもでもあやしているみたいだ。拗ねて唇を尖らせてみても、ますます面白そうにされるばかりで。
穏やかすぎる手を振り払えない時点で、子ども扱いも仕方ないのかもしれない。
「それでも、恋は素敵なものよ。好きな人を思うだけで幸せになれるし、うんと甘やかしてあげたくなるの。その時は、自分が世界一優しい人間になった気がするほどよ」
瞳を細めるエイミーは本当に綺麗だ。誰か特定の人を思い浮かべているのだろうか。
「逆に、その人が誰かを見つめていると、胸が苦しくてとても辛くなるわ。嫉妬して、嫌なことを考えたりもする。恋ってね、人を強くもするし、弱くもするのだと思う。――――でも、どちらの恋だって、決して間違いじゃないの」
だから、怖がる必要もない。
柔らかな眼差しが、言葉が。心をほぐしていくようだった。
「……エイミーさんも、恋をしてるんですか?」
「えぇ。彼がお店に来てくれるだけで、とっても幸せ。でもね、私を好きになってもらおうなんて思わないわ。見ているだけで十分なの」
叶わない恋をしているのだと、エイミーは困ったように笑った。
それでいてどこか誇らしげでもあって、その笑顔はひどく印象に残った。
◇ ◆ ◇
数日後。ようやくソファが届けられた。
せっせと教員室に運び込むシェイラに、クローシェザードは苦い顔を隠そうともしない。
「……どういった事態なのか、理解が及ばない」
「前にも話した、クローシェザード先生のお部屋改造計画の一環ですよ。より居心地のいい空間作りのご提案です」
「君はどこかの販売員か何かなのか」
クローシェザードの文句を聞き流しながら、ソファを配置していく。窓辺の空間に二人掛けソファがちょうどよく収まり、シェイラは満足して笑った。
深緑色のソファは、ずっとそこに置かれていたかのように違和感がない。今度ソファ用のクッションも幾つか購入しようと考えつつ、早速座ってみる。
「あ、フェリクスからもらってるお小遣いは使ってませんから、問題ないですよ。私が稼いだお金で買ったので」
クローシェザードはおそらく、主君に迷惑をかけてしまうと考え不機嫌なのだろう。
珍しく気を回したシェイラが安心させるために付け加えると、彼はなぜか意表を突かれたように目を瞬かせた。
「……いいのか? 君が働いて稼いだものを、こんなことに使って」
決まり悪げに立ち尽くすクローシェザードを見返し、シェイラはコテリと首を傾げた。
「こんなことって。とても大事なことですよ。これなら休憩したい時もくつろげるじゃないですか」
「そういうことではなく……」
クローシェザードは、何かを諦めるようにため息をつきながら頭を振る。
「いや、まぁいい。――――ありがとう」
「――――――――」
今まで無理やりクッションを導入してみたり、紅茶や茶菓子を持ち込んだりしてきたが、彼が素直に礼を述べたのは初めてではないだろうか。
じわじわと胸に広がる温かなものを感じながら、シェイラは少し調子に乗ってみた。
「ホラホラ、ちょっと座ってみませんか。中古品なんてクローシェザード先生は嫌かもしれませんけど、座り心地もなかなかいいんですよ」
「それしきのことを気にするほど繊細ではない」
隣を叩けば、彼は素直に従う。シェイラは更に嬉しくなって、はしゃいだ声を上げた。
「コディはクローシェザード先生のためにって、特注品にこだわってましたよ。やっぱり貴族の方々は、既製品なんて買わないんですかね」
「私はもう、貴族ではない」
「え?」
パタパタ振っていた足が、ピタリと止まった。
ソファに深く腰を預けたクローシェザードの表情には、感情の揺れは見られない。けれど言われた意味を考えれば、シェイラはどんな顔をしていいのか分からなくなる。
「爵位も領地も返上している。両親が亡くなった時に、とうにな」
「…………えっと……」
しんとした空気に冷や汗が止まらない。
こんな話題になるなんて、想像すらしていなかった。さすがに己の不用意さが恨めしくなってくる。
「……あのー、すいません。私、もしかしなくても抉っちゃいました?」
そろりと慎重に口を開くと、クローシェザードは鼻で笑った。
「君は本当に馬鹿だな。そんな幼稚な気の遣い方をされたのは初めてだ」
どうやら彼は、それほど怒っていないようだ。シェイラは内心胸を撫で下ろしながら唇を尖らせた。
「幼稚って。これでも先生の古傷に塩をまぶしちゃったかな、と申し訳なく思ってるんですけどね」
「いい。もういい加減、過去を気遣う相手と話すのも疲れていたところだ」
「あれ? 僕も一応気遣ってる一員のつもりなんですけど?」
「――――フッ」
シェイラは今度こそ目を丸くさせて硬直する。塑像のような鉄面皮が柔らかくほどける様を、はっきりと目撃したのだ。
「わ、笑ったっ。クローシェ様がっ、初めて声を出してっ」
「フン。君こそ、久しぶりにその呼び方をしたな」
笑いの余韻からか、彼は未だに口元を和らげている。孔雀石色の瞳は弧を描くように細められ、シェイラを優しく見つめていた。
きゅっと胸が痛み、二人掛けソファの距離感が急に気になり出してくる。
シェイラは身じろぐような仕草で、肘置きに目一杯体を寄せた。心の中では何度も『クローシェ様』と呼んでいたなんて、恥ずかしくて絶対言えない。
「な、何か今日、機嫌よくないですか? 何かいいことでもあったんですか?」
「それは、君が運んできたのだろう」
「え? そんなにソファが嬉しかったんですか?」
間抜けな顔で聞き返すシェイラに、クローシェザードは口元を隠して吹き出した。
笑われるのは不本意だが、身を折り曲げて笑う貴重な姿につい目を奪われてしまう。見ているだけでシェイラまで幸せになってくるのが不思議だった。
――うんと甘やかしてあげたくなる、か……。
やはり、愛というものはよく分からない。
けれどエイミーのその言葉だけは、妙に腑に落ちる気がした。