第十話 世界の悪意
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走った、脚が引き裂かれそうになるのを力ずくで補強しながら。
肺を無理やり強化し呼吸を整え、魔力を身体全体に凄絶な勢いで循環させる。
鍛え抜かれ人智を超えたはずの体躯が休息を求め、悲鳴を上げる。
それでも、止まるわけにはいかなかった。
そんな選択肢は既に頭の中から消え去っていた。
――――どこで、間違えたのだろうか。
それなのに、自分を責め苛む思考だけは消えない。
俺の脳内に巣食う絶望の獣が、醜悪に蠢く。
全身全霊で空を蹴る。
その衝撃で後方一帯が吹き飛ぶが、気にしている余裕はない。
――――何を、見落としていたのだろうか。
脳裏に、一人の少女の姿が浮かぶ。
記憶の最奥に捕らわれた、この世界と関わりを持たないはずの黒髪の少女。
感情を失っているのではないのかと本気で思ったことのある、あの日からまるで変わり映えしない容姿が眼前に広がる。
その少女の小さな唇が、すっと開く。
『大丈夫、私はちゃんと、この世界が嫌いだから』
どうして今、そんな彼女の言葉を思い出すのか。
――――きっと、全ては初めからだ。
黒髪の少女が薄れていく。
その代わりに現れたのは、一人の茶髪の少女。
世界の全ての絶望を呑み込んだ、濁った瞳が俺を見つめる。
彼女は、小さく微笑みながら告げる。
『世界が“彼女”を殺したら……君は、どうするの?』
その答えは、とっくの昔に誓ったはずだった。
――――俺は、その真実から逃げていたのだ。
そして最後に、一人の少女が俺の前に現れる。
輝かしい光を纏った金髪を靡かせ、慈愛に満ちた蒼色の瞳で優しく笑う。
胸の前で組まれた両手の上には、いつの日か俺があげた指輪が置かれている。
手を、伸ばした。
触れていたかった。
手放してはいけないと思った。
だけど――――
『ごめん、なさいっ――――』
あと少しのところで、その少女は霞むように消えていく。
伸ばされた手の先で、指輪がカランと地に落ちる。
「どうして……」
その言葉は、届かない。
「どうして――――ッ!!」
その理由を、俺は知っていたはずだ。
だって、俺の願いと彼女の願いは、きっと――――
深い闇に沈む思考は、次の瞬間に弾け飛んだ。
見慣れた風景が視界に飛び込んでくる。
舗装された巨大な一本の通路。
両脇には様々な店や、煉瓦造りの住居が立ち並ぶ。
いつか俺が果物を買った店や、逢ヶ瀬と一緒に回った装身具店。
変わらない姿を保つ王都ルミナダが、そこには広がっていた。
――否、それは違う。
建物に関しては、たしかに違いはない。
ただ、人がいなかった。普段は賑わうその通りには何者も存在しなかった。
刹那、声がする。叫びとでもいうべきか。
一人のものではない。数百、数千、もしくは数万さえ――――
その声は遥か先、王城から聞こえる。
歩を進めた。
その先に何が待っているのか理解していながら。
心のどこかでは信じたくないと考えながら。
だけど、現実は思い通りにいかないことを、俺はとうの昔に知っていて。
生まれた時から未来は決まっていて。
決意した時には既に手遅れで。
終わってしまった何かに縋り、今日も誰かは始まらない明日を求める。
王城の前の城壁に辿り着き、その騒ぎをようやくこの目に捉える。
城壁の周囲を取り囲むように、数万の国民達が集まっている。
怒りを顔に、武器を手に、誰もが口を揃えて、そう言った。
「――――金魅の忌み子、リリス・ジオ・ルミナリアを殺せ!」
そして、俺は――――――
これは、世界を壊すと誓った少年の物語。




