第二十二話 経験がないゆえに
地を蹴り空を飛びながら撤退しようとするアトロス。
そこに、その魔法は襲い掛かった。
数万の悪意が溶け込んだかのような禍々しい黒の焔。
通り過ぎたところにある一切の存在を拒絶する力。
身に迫る脅威を感じ、アトロスは無意識に目を見張った。
「むッ――――」
咄嗟に張った灰色の鎧。
黒の焔は呆気なくその鎧を侵食する。
そしてそのまま、アトロスの身体を呑み込んだ。
さらに驚くべきは、焔は的確にアトロスのみを攻撃していることだ。
腰に抱えるリリスの身には、火の粉一つ降りかからない。
空をも焦がす圧倒来な破壊の力を、自由自在に操る魔力操作。
この一撃を生み出すのに、どれほどの修練が必要だったのか。
いや、冷静に分析している暇はない。
このままだと、自分は間違いなく死ぬ。
あっという間に滅ぶ。
故に、唱えた。
「【消滅】」
灰色の濃霧の量が増す。
一度は完全に押され切った鎧が、今度こそ黒の焔を防ぎ切――――
「リリスを離せ」
そう思った矢先。
リリスを抱えた右腕が、肩の付け根から取れた。
人形のように、ぽっくりと。
リリスの身体が、宙に舞う。
「――――ッ」
黒の焔は防いだはず。
なのに、何故。
アトロスは反射的に顔をあげ、そして理解した。
(なるほど、そういうことか)
そこにあった光景は、黒髪の青年が左腕を振り下ろした後の姿だった。
つまり、なんてことはない。
黒の焔に気を取られている間に、彼は普通に手刀で切ったのだ。
人智を超えた身体強化を用いて。
そのまま、黒髪の青年――白崎 修は。
凍えるような眼のまま、言った。
「黒土瞬塵」
「――――――」
それはまさに、殴打の壁だった。
一撃一撃が地形を歪まし、大気を真空に変えてしまう殴打。
瞬時に百を超える暴打がアトロスに迫る。
一切の隙間なく放たれる拳。
既に原型を知覚することは出来ず、幾重もの残像となる。
壊す、壊す、壊す。
眼前にある存在を。
アトロスの身体の細部に至るまでを、根本から破壊し尽くす。
殴打を繰り出す時間は、僅か三秒。
数百数千の攻撃を生み出した修は、最後の一撃をアトロスの腹に減り込ませる。
そのままアトロスは軽々と、錐揉み状に跳んでいく。
玉座の間の壁が破砕され、粉塵が彼の身体を隠した。
「ふー」
それを見届け、修は地面に墜落しかけていたリリスをお姫様抱っこの要領で受け止める。
そのまま、少女の身体に衝撃を与えないようゆっくりと着地した。
この場にいる誰もが、修に目を向けていた。
部屋の隅に避難する貴族達も、それを守る騎士達も。
傷だらけの身体で立ち上がるラルクも。
そして、伶奈、ソラ、レイも。
そんな人々に対し、修は勝ち誇るでもなく。
「まだだ」
真剣な眼差しを前方に向けたまま、そう言った。
瞬間、粉塵が吹き荒れる。
そこには、片腕を失くし、血塗れのアトロスが立っていた。
普通ならば立ち上がれないほどの負傷。
戦うなど、もってのほか。
だというのに、その眼は。
濁った灰色の鋭い眼には、恐れや迷いは一切なかった。
「よもや、貴様がこれほど早く戻ってくるとはな。相当な距離を飛ばしたつもりだったが」
修を見据えたまま、アトロスは言葉を紡ぐ。
「三人ならばともかく、祝福者四人を相手にするには、俺一人では足りんか……本来の目的を果たすことすら出来ないとは、困ったものだ」
自嘲気味に言うアトロスだが、その言葉にはやはり焦りはない。
目の前の状況を冷静に分析、評価を下し……その上で、どうにか出来ると信じている者が浮かべる笑みだった。
どんな真意があるのか、疑問を抱く修たち。
その答えは、次の瞬間に訪れた。
「やむを得ない――――やれ、“スパーダ”」
「――――――ッ!」
それは、反射的な対応だった。
背筋に悪寒が走り、修は思考するより早く決断した。
素早くリリスを右に投げる。
刹那、“それ”は修を襲った。
目に見えぬ魔力の刃が、真っ直ぐ修に振り下ろされる。
修は身体の前で両腕を交差させ、身体強化の錬度をあげる。
接触。
修の両腕に、刃が届く。
砲弾を浴びても傷一つ負わない肌が斬れ、血が噴き出した。
押し込まれないように、両足を地につけ耐える。
拮抗が続く。
一秒にも満たない、見えない刃と両腕の押し合い。
そして遂に、その決着がつく。
刃はそれ以上修の身体を傷付けることは出来ず、流れるように下に落ちていく。
――――僅かに安堵した瞬間、恐るべき現象が起きる。
玉座の間。否、城全体が、修の身体を透過し縦に真っ二つに割れた。
天井が開き、太陽の光が降り注ぎ、城は両脇から崩れていく。
崩壊、そう呼ぶに相応しい有り様。
誰もがただ呆然と、目の前で起きる現象に声を失うばかりだった。
しかし、数瞬前。
見えない刃が修に振り落とされた瞬間から、アトロスは既にこの現象を見越していたように動いていた。
目にも止まらない速度で駆ける。
そのまま、健在の左腕で空に浮くリリスの身体を捕らえる。
修が刃に対応している間の、一瞬の出来事だった。
伶奈、ソラ、レイが、それを止めるべく同時に動く。
魔術を、拳を、剣を、アトロスに向け――――
「失せろ」
灰色の濃霧によって、全てが掻き消された。
アトロスと伶奈たちの間を覆い隠し、その姿を視認することはできない。
「【虚無】ッ!!!」
刃を防ぎ切り、城が崩壊する中で、ようやく修は魔法を用い灰色の濃霧を拒絶する。
が、濃霧が消え視界が晴れたとき、既にアトロスは壁に空いた穴の傍に立っていた。
そして、絶対零度の視線を修たちに向ける。
――リリスを腰に抱えたまま。
「“コレ”は連れて行く。もしコレを救いたいのならば――憎しみを俺にぶつけたいと言うのならば、止めはせん。尤も、全ては貴様達が俺のいる場所に辿り着ければの話だがな」
「待――――」
「つまらん選択だけはするなよ」
最後にそう言い残し、猛烈な速度で迫る修を横目に、アトロスは消えた。
動き出しからその後まで、何一つとして視認できない手段を用いて。
アトロスは、リリスを連れたままこの場から消えた。
崩れゆく王城。
そこに残ったのは、少女一人守れなかった者達と、無様な惨状だけだった。
◆
しくじった。
対人戦闘経験の少なさの影響がもろに出た。
邂逅直後に為す術もなく吹き飛ばされたところから、危険を感じたとはいえリリスを放り投げたところまで、修正できる部分は山ほどあった。戦闘経験だけじゃない。誰かを守るという経験を、俺はこれまでほとんどしたことがなかった。
それに加え、奴は――アトロスは強かった。
おそらく、過去戦ってきた敵の中では一番。
守るべき存在を後ろに置きながら戦うには、少々無理がある相手だった。
だけど、そんな言い訳をしたところで仕方ない。
俺はしくじった。
アトロスの目的は分からないが、奴にリリスを連れ去られてしまった。
既に奴の魔力を感知することはできない。
どこに行ったかも分からない。
反省と後悔をする中。
ふいに、肩を後ろから叩かれる。
振り向くと、そこには真剣な表情のレイがいた。
「落ち着こう。“彼女”は大丈夫だ、焦る必要はない」
「…………あ?」
彼の告げた言葉の真意を測り切れず、不思議な音が口から漏れた。
彼の眼に偽りの意思はない。
つまり、レイは本気で信じているのだろう。
魔王軍幹部が自分と敵対する大国の第一王女を連れ去っておきながら、被害を与えないという与太話を。
「そんなわけ――」
レイの言葉を否定しようとし、そして違和感に気付いた。
俺は少し驚きながら周りを見渡す。
真っ二つに割れた王城。
片方は完全に崩壊しているが、俺達や部屋の隅に逃げていた貴族達がいる方はまだ崩れてはいない。
そこにいる者達の中で、俺、逢ヶ瀬、ソラを除いた全員はレイの言葉を当然のことのように受け入れ、中には頷く者さえいた。
さらに、その中の誰かが呟いた。
『やっぱり、こうなると思ってたんだ』と。
「……は?」
なんだ、これは。
何が起きているのかさっぱり分からなかった。
大国、ルミナリア王国の第一王女が、リリスが敵の手に渡っているのに、なんだ、この皆の落ち着きは。
そして、その様子を見た瞬間に。
この胸に湧き上がってくる醜悪な感情は、いったい――――
「あらあら、絶望と、焦燥と、同情と――そして微かな歓喜。なんともまあ、複雑な感情が入り混じった歪な空間なのかしら」
混乱し自分の思考に囚われそうになる中で、突如として艶めかしい声が鼓膜を震わせ、俺の意識を現実に呼び戻した。その声を発した女性は、王城が二つに割れ生まれた外へと繋がる空間から現れた。
透き通るような白い肌に、黒色の垂れ眼。
起伏に富んだ身体は黒の布に包まれる。
そして何より目を奪うのは、鮮血に塗れた紅の長髪。
現在はこの城の地下に囚われているはずの、紅髪のリーベが、そこにいた。




