第二十一話 圧倒と対抗
◆
濁った灰色の長髪を靡かせる男は、周囲から注がれる敵意の視線を気にも留めず、悠然と歩を進める。
見据える先にいるのは、黒髪の青年が一人。
その近くにいる存在に意識を割くこともない。
「【――】」
一言、零す。
ただそれだけで、男の身体は黒髪の青年の眼前にあった。
手を伸ばすだけで触れられるような超至近距離。
青年はその動きを知覚することは出来なかったようで、一瞬で目の前に現れた男を視認し、瞠目した。
――――遅い。
男は、心の中で小さく呟いた。
そして、流れるような動作で右手を青年に送る。
青年は対応するべく左手を翳す。
黒い焔が発現する。
「【虚――】」
「軽いぞ」
その黒い焔すら、男の手は簡単に切り裂いた。
まるで薄紙一枚の障害物を貫くように。
そのまま、至極当然と言った。
「死ね」
魔法が発動する。
青年の胸に触れた手から、禍々しい灰色の濃霧が溢れる。
その魔法は、いとも容易く青年の身体を呑み込み――――
「ッ、がぁぁぁぁあああああああ!」
「む」
雄叫びと共に、猛然と迫る青年の拳を見た。
大気を抉る剛腕は、凄絶たる破壊力を含んだ一撃。
人の限界を超えた身体強化の錬度を思い浮かばせる。
しかし、男は冷静に対応する。
ここで青年を消滅させるには時間が足りない。
故に。
「零隔」
ポンッと、その胸を押し込む。
それだけで、青年の身体は遥か彼方まで消えていく。
玉座の間の壁を貫き、どこまでも彼方へ。
“目にも止まらない”速さで。
「ふむ」
その光景を見届けた後に、男は静かに辺りを見渡す。
そして、男は。
「呆気ないな、勇者」
白崎 修を一瞬のうちに打倒してみせた、
魔王軍幹部アトロスは、そう言った。
その一連の攻防は、たった一秒未満で行われた。
だが、誰もがただ呆然と眺めていたわけではない。
逢ヶ瀬は魔力を練り込み。
ソラは、アトロスの隙を窺ったまま小さく構えていた。
二人の動き出しは同時だった。
「ジ・ラズ」
数メートルの距離から、巨大な槍がアトロスに迫る。
それに付随する様に、水色の小さな影が隠れていた。
しかし、アトロスが動揺することはない。
灰色の濃霧を纏った手を、そのまま槍に向ける。
そして二つは接触する。
一瞬の均衡すらなかった。
灰色の濃霧に触れた瞬間、槍は跡形もなく崩れ去った。
「喰らえ」
その接触によって生まれた隙を突くように、ソラは凄まじい速度でアトロスの懐に潜り込んでいた。三十センチに及ぶ体格差を上手く利用した形。ソラは強化した拳を全力で振るう。
それを防ぐように、アトロスは驚異的な反射速度で灰色の手を翳す。
だが、その防御すらもソラにとっては予想の範疇。
振り切りかけた拳をピタリと止めると、力強く地を蹴りアトロスの横を抜けた。
アトロスの背後に回り込む。
その狙いが実現する一歩手前で、アトロスは素早く振り向くとソラに向け手を伸ばす。
ソラの頭に、手がとど――――
「燃えて」
「ッ」
そして、そこまでがソラの作戦だった。
ソラが願った瞬間、彼女の目の前に赤の炎が燃え盛り、アトロスの身体を覆う。
この程度で倒すことは出来ないだろう。
が、視界を奪うくらいなら容易い。
「瞬け、剣閃」
既にアトロスの傍には、剣を腰に構えたレイが立っていた。
手に持つのは祝魔剣ではなく、帝国騎士団の者が持つ通常の騎士剣。
どういった意思によるものかは分からないが、レイはそちらを使うことを選択した。
修とアトロスの攻防が繰り広げられている間に、近くにいた騎士から譲り受けていたのだ。
しかし通常の剣とは言え、レイにかかれば一級品と化す。
彼が剣を振るった跡には一筋の光が走り、遅れて大気が割れる音が周囲に響く。
剣閃はアトロスの身体を真っ二つに断ち切る――――
――――断ち切る、はずだった。
炎が散り、アトロスの姿が露わになったとき、その光景に誰もが目を疑った。
傷どころの話ではない。漆黒のコートに至るまで、一つの汚れすら存在しない。
完全に無傷なままのアトロスが、そこにはいた。
「つまらんな」
彼は周囲を見渡しながら素っ気なく言った。
三人の祝福者に囲まれ、攻撃を浴びてなお、余裕を崩すこともない。
そして、おもむろに右腕を振り上げた。
「――――ッ」
まず初めに、レイがその異様な現象に巻き込まれた。
突如、自身とアトロスの間に強力な斥力が生じる。
そのままレイの身体は後方に吹き飛ばされる。
「くッ!」
咄嗟に祝福使用。
大気の壁に衝突し、レイの身体は空に止まる。
肺を押し潰される感覚に耐えながら、前方を視認する。
十メートル先。
そこには、凄惨な現実が広がっていた。
仰向けに倒れるリリス・ジオ・ルミナリア。
彼女とアトロスの間を塞ぐように、ソラと伶奈がいた。
共に両膝を床につけた状態で。
ソラは右腕が、伶奈は左腕がおかしな方向に曲がっていた。
血が溢れ出て、床を赤く染め上げ――――
「貴様達に、興味はない」
その二人の間を、悠々自適と歩行する。
黒のコートと灰の長髪を靡かせながら。
自身の道を邪魔するものなど、誰一人としていないと。
「貴様もだ。失せろ」
「きさ――ッ!」
そのままアトロスは左腕を振るう。
リリスの横にいたラルクの身体を軽々と吹き飛ばす。
死ぬような一撃ではない。
が、数本の骨は砕けただろう。
今度こそ、アトロスの進む道には誰もいなかった。
彼はゆっくりと歩を進め、金髪の少女の前で立ち止まる。
「仕方あるまい。この場で“奴”を殺せないのであれば、こちらの目的に移るだけだ」
アトロスは前傾になり、右手を差し出す。
その先にいるのは、当然リリスだ。
彼の手が、ドレスの首部分を掴もうと、迫る。
(やっぱり、そういうことなんだね)
レイはただ、目を細めながらその光景を見つめ、
騎士剣を床に落とし、
流れるように、祝魔剣の柄に手を添え――――
「跳ねて」
「む」
幼い声色の響きと共に、アトロスの足元が跳ね上がる。
その境目はちょうどアトロスとリリスを線引きする部分。
直径一メートルほどの正方形が、勢いそのままにアトロスの身体を上空に弾き飛ばした。
声の主は、ソラだ。
彼女の折れた右腕は既に元通り。
冷たい目つきで、敵を見据えていた。
空に浮いたまま、隙だらけのアトロスを。
「フレイム・ド・ゼクラリス」
続いて、ソラではない少女の声が響く。
伶奈の発言に応えるように、蒼の炎が舞った。
凄絶な熱波を周囲に撒く蒼炎が、全方位からアトロスに迫る。
呑み込まれれば一溜まりもないと断定できる魔術。
しかし、それすらもアトロスには通用しない。
「無駄だ」
灰色の濃霧を身体に纏う。
瞬間に生み出された灰色の鎧は、身に迫る脅威を真っ向から遮断する。
蒼の炎を一瞬のうちに掻き消し、態勢を崩すことすら叶わなかった。
「……あの」
だが、その現実を見て伶奈が浮かべた表情は絶望ではなかった。
ソラ同様、既に治癒を終えた左腕をアトロスに向けながら、少しだけ困った様な表情をしていた。
「死なないとは思いますが、一応。ちゃんと防ぎ切ってくださいね」
そして、言った。
「ジ・ジ・ジ・メチス・ラズ」
十を超える、体積が通常の五倍はある槍が、一斉に放射された。
一撃一撃が、最上級魔術の数十倍の魔力を含んだ攻撃。
あの日、リーベを殺すことを恐れ……そして、もう一つの制限のために、使えなかった魔術。
大気の壁を穿ちながら、地面に着地したばかりのアトロスを寸分狂わず襲う。
その半数を、アトロスは灰色の鎧で防ぐ。
だが、残りの半数は、灰色の鎧に威力を削がれながらも、堂々とアトロスの身体に突き刺さった。
ぐちゅりと、嫌な音がなる。
貫いた、というわけではない。
穂先はアトロスの内部で止まっている。
それでも十分なダメージは与えた。
証拠に、赤黒い血が身体中から流れ落ちていた。
(…………)
その光景を見て、レイは祝魔剣から手を離す。
視線を逸らさないまま、床に落とした騎士剣を拾い上げた。
静寂が、空間を支配していた。
槍に串刺しにされたアトロスは動かない。
通常であれば間違いなく勝利を確信する状況。
だけど、今回は相手が違った。
油断など出来るはずがなく、誰もがその動向を見届けていた。
「……なるほど」
おもむろに、アトロスの口元が歪む。
皆の予想通り、アトロスは死んでいなかった。
傷口から溢れ出てきた灰色の濃霧が、あっという間に彼の身体を突き刺す槍を消滅させる。
「油断をしていたつもりはないが、驚いた」
そしてアトロスは、伶奈とソラの両名を。
そして最後に――――今の攻防に参加していなかったはずのレイを見据えた。
「貴様達と戦うにはこの場は適さん。此方としても、必要な条件を揃え勝利するには、少々分が悪い」
玉座の間にいる全員から注視される状況の中で、やはり余裕綽々とした態度を貫く。
「故に、ここは一旦引かせてもらおう」
続いてアトロスの口から零れたのは撤退を表明する言葉。
至極当然と、敵に囲まれたこの状況で、彼は逃げ切ると宣言したのだ。
「…………」
「…………」
その宣言に対し、伶奈とソラは静かにアトロスの動きに注目していた。
彼が魔王軍幹部と呼ばれ、自分達の敵であることはとっくに分かっている。
勇者として戦う者として、彼を取り逃がすつもりはなかった。
一瞬たりとも、目を離さな――――
「――――え?」
だからこそ、つい、素っ頓狂な声が漏れた。
それがどちらの少女の声だったのかは分からない。
もしくは、両方によるものだったのかもしれない。
気付いた時には。
そこに、アトロスがいた。
“リリスを腰に抱えた状態で”。
「元より、今回の目的は“コレ”だ。残念だが、“奴”に関しては別の機会を設けるとしよう――アイツの言葉に従うようで釈然とせんが、まあ、いい」
状況を把握するよりも早く、アトロスは思考の自己整理を終え、身を翻す。
呆然とする二人の前で、そのまま力強く床を蹴る。
人ひとりを抱えたまま、冗談のような速度で跳ぶ。
誰もが対応するよりも速く、アトロスは壁に空いた穴から飛び去――――
「【虚無】」
黒の焔が、彼を呑み込んだ。




