第二十四話 悪意に染まる終着点
驚愕に包まれた空間で、戸惑うことなく修は床に減り込むリーベの頭を掴んだまま持ち上げる。全身は濁った血で塗れ、腕などがあってはならぬ方向に曲がっていた。
心の弱い者なら一目見て吐き気を催す残酷な光景。
その中心にいる少年は、冷酷な視線を目の前の女性に向ける。
「これで終わりか?」
その程度なのか、と。
感情を込めていない声で淡々と修は問う。
対するリーベは、身体をだらりと伸ばした状態のまま何も言葉を発さず――――
「……ふふっ」
――――否。修の掴んだ手によって目の色を窺うことは出来ないが、その下にある口元は僅かに緩み、背筋に寒気を送るような笑い声が場違いな室内に木霊する。
「……む」
その様子に何か嫌な物でも感じたのか、修は振り払うようにしてリーベを前方に投げ捨てる。
現実的速度で吹き飛ばされたリーベは、紅髪を空に舞い、不安定な形ながらも着地に成功する。
あれだけの怪我を負ってなお意識があるのか。
そんな疑問を抱く者達の前で、リーベの身体は凄まじい勢いで回復を始めた。
身体中の関節は元通りに、骨もくっつき、それどころか彼女に付着した血すらも何らかの作用によって掻き消されていた。
彼女の微笑みの理由は、自分の負った怪我を元通りに出来るからなのか。
「油断、したようね――――還元」
そうではないことを、この場にいる修以外の存在は知っているはずだった。
修がリーベを掴む際、彼女に触れた姿は全員が知覚していた。
ただ、彼が見せた圧倒的な攻撃を前に、皆の意識は滞ってしまっていたのだ。
故にこれより訪れるのは、修の存在を魔物に変貌するリーベの能力――――
「無駄だ」
そして当然のように、修はその可能性を真っ向から否定した。
何も、起きない。
修の身体は魔物に変わることなく、それどころか伶奈の様にダメージを負う様子もなかった。
その現実に何よりも驚いたのは、彼の前にいる紅髪の貴人。
「そんな、ことが……」
修の変わらぬ姿を見て、リーベも思わず瞠目する。
彼女は確かに、修に掴まれている瞬間に遷移魔力を注ぎ込んだ。
それも念を入れて、一般人が変質する数百倍の量をだ。
なのにどうして、この存在は何ともないのか。
「感覚的に、魔力を狂わせる類みたいだが……」
彼はそんな衝撃に満ちた存在など興味なさげに、自分の身体のあちこちを確かめていた。
そして一通り見終えた後、再びリーベに向き直る。
「悪いけど、俺の魔力は元から“狂ってる”」
「――――ッ!?」
言い残して、修の左腕がブレた。
視界に捉え切れないほどの暴力的な速さ。
空を切り裂く破裂音と共に、次の瞬間にはリーベは吹き飛ばされていた。
リーベの身体はあっと言う間に、彼女と伶奈の戦闘の余波で壁に生じた穴から外にへと弾き飛ばされた。軽々しく、だけど絶望的な破壊を生じさせながら彼女の体が向かう先は森――王城の側にある、フェイルの魔樹林。
樹齢数百年を誇る魔樹林の数々を薄紙一枚を破るように次々と貫いていき、大地が陥没する爆発音とともにリーベはそのまま腐葉土に塗れた地面に叩きつけられた。
「これ以上ここで戦ったら、さすがに城が壊れそうだからな」
修は体をリリスの方へ向けると、小さく不敵に笑いながらそう告げた。
「シュウさん……あの、身体はっ」
彼の行為の真意を聞きながらも、リリスは蒼の双眸を僅かに揺らしながら不安気に修を見つめる。
その視線には、修に対する心配……リーベの遷移魔力による影響はないのか、という思いが込められていた。
「大丈夫だ、あの程度俺には効かない。それに」
リーベが消えた方向に歩みを進めながら、駆け寄ってくるリリスの柔らかい金髪の上からぽんっと押さえる。
「俺に勝てる奴なんて、後にも先にも一人だけだから」
「…………え?」
リリスが最後に見たのは、修の横顔。
確かな優しさと、一抹の寂寥感を感じさせる、見ている側の心が騒ぎだしてしまいそうになる、不思議な表情を見て――――
「あっ、あの……」
声をかけるよりも早く、彼は外に身を投げ出した。
「森に飛ばしたのは失敗だったか……」
六十メートル上空から落下しているにも拘らず呑気な言葉を漏らしながら、修は眼前の光景を見つめ不満を零す。リーベが巻き込んだ木々が破裂し地面が陥没しているのも分かるには分かるのだが、高い木々に囲まれているせいで肝心の本人の位置を見つけ辛い。
だから、少しだけ力を入れて右腕を振るった。
「邪魔」
ただそれだけで、彼の前方にある半円百メートルにある森が全て破壊された。上方から流れ落ちる激流のような衝撃エネルギーは木々を地面に押し潰し、大地全体を数センチ沈めてしまう。最早森どころか草花すら見当たらず数百年間放置された荒野のような有り様だ。
その中に、仰向けに寝転ぶリーベを見つけた。
「そこか」
方向転換。
体の向きを変え、足裏で空を蹴る。
鼓膜を破るような風切り音を後方に残し、修は敵に迫る。
「くっ!」
自分に向かう絶対的脅威をリーベも感知する。
反射的に両手両足から暴風を吹き出し、地面に擦れるようにして高速で移動する。
一コンマ置き、目の前の大地が抉れ消滅した。
凡そ十数メートルは地面に深い穴を生み出しただろう。
粉塵が舞い、現場周辺の景色が淀む。
数秒が経ち塵が完全に消えた後に、そこには普通に修が立っていた。
ただ茫然と、リーベを見据えていた。
冷たい黒の双眸が彼女に突き刺さる。
「あら……なんの、つもりかしら。攻撃の手を、休める必要なんて、なかったでしょう?」
治癒を行いながらも、整わない息で修に問いを投げる。
今の粉塵が舞う間に襲撃されれば、さすがのリーベも対応できなかったかもしれない。
リーベは既に悟っていた。
これが祝福者、世界に愛された最強の人間。
自分では到底追いつくことの出来ない存在。
だからこそ、彼が今もただリーベを見つめるだけで何もしてこない現状が理解できなかった。
「ああ、お前の隠し玉も不発に終わって、俺の攻撃も見切れてないみたいだから……もう一度だけ、確かめようと思ってな」
「…………何を、かしら?」
「投降しろ。抗っても無駄だってもう分かっただろ?」
「――――――」
リーベの中の何かが弾ける。
この期に及んで、そんな選択をリーベに強いる。
それが何を意味するかも知らないで。
リーベの生い立ちと、魔王との関係。
それさえ知れば、彼もそんなことは言えないはずだ。
「……ふう」
だけどそんなことを望むのはお門違いであることも、リーベは理解していた。
自分の身勝手な感情が、相対する敵に分かる訳がないと。
祝福者という恵まれた存在が、祝福も魔法も授からずに産まれた自分の気持ちに共感できるはずがない。
「残念だけど、その申し出は断らせていただくわ」
「……そうか」
もう既に、リーベが負った怪我の修復は終わっていた。
体調は万全。だけどこれだけでは足りないことは、これまでの戦闘の結果が物語っている。
ならば、さらなる覚悟が必要だ。
「……還元」
「っ」
その小さな呟きと、付随して起こる現象に思わず修も眉を寄せる。
リーベの元に魔力が集う。
しかもそれだけでは終わらない。
リーベ自身が遷移魔力と名付けたそれは、彼女自身の身体の性質をも変貌させる。
人間であったその身が、徐々に魔物に等しい次元にへと落とされていく。
「お前、それ……」
伶奈の魔術で押し潰されそうになった際にも、この方法は取った。おかげで魔力や身体強度は上昇し、その後は伶奈を圧倒することが出来たと、リーベは狂う頭の中で思考する。あの時には身体のほんの十パーセント程を変えた……しかしそれだけでは足りないと、もう彼女は知っている。
元の人間に戻るための限界値が五十パーセント。
感覚的に理解しているだけで、実行したことはない。
だけど、この場では超えよう――自らの死など、ちっぽけなものだから。
「九十九パーセント」
そしてリーベは人間としての生涯を終える。
喜怒哀楽の感情の全てが――――“悪意”に染まる。
血に染まる髪は増殖し、彼女の身体の数倍に膨れ上がる。
両手の爪は強靭化し数倍に伸び、犬歯は肉食動物の牙の様に増大する。
さらに変貌は進み、現実の範囲には収まらない。
彼女の肩甲骨が耳障りな音を鳴らし、顔を顰めた次の瞬間には巨大な黒の翼が生えていた。
身体に見合わない、数倍の大きさの翼は禍々しく存在を主張する。
頭からは対になる二本の捻じれた黒の角が生え、何故か片方は途中で折れていた。
そして最後に、彼女の美しかった黒色の瞳は、真っ赤に侵食されていた。
「……魔物化、か」
人間としての意識を失った存在を前に修が呟いた感情を覗かせぬ無色の呟きは、風に煽られ空高く消えていった。




