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創造世界の英雄譚 ~魔法使いへ祝福を~  作者: 八又ナガト
第三章 -永遠の契約-
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第三十一話 答え

 黒髪黒目の、鍛え抜かれ引き締まった体躯をこれまた簡素な黒色の服装に包む青年が時計塔の上に凛然と立っていた。後方には燦然と輝く太陽を背負い、彼に視線を向けるとその光によって反射的に目を閉じてしまう。そんな異様な付加的状況も相まって、この場にいる誰もが突如として現れたその存在に目を奪われていた。


 世界中が注目する処刑の場に邪魔をするように現れたその青年に対し、民衆は批判的な視線を向け、苛立ちを含んだ声を次々に上げ始める。既に皆の注目はリリスから彼に移っていた。

 青年――白崎 修について知っている者など、この場にはリリスを含めたほんの数名しかいない。伶奈やソラとは違い決闘に参加しなかった彼を見るのは、大多数の民衆にとってこれが初めての機会だったのだ。


(どうして……来たんですか?)


 声にならない想いを、リリスは心の中で呟く

 どうしても、リリスには目の前の光景が信じられなかった。

 自分が拒絶したはずの修がこの場にいるという事実が。


 そんなことを考えるリリスとは別に、周囲一帯の空間は民衆の動揺や苛立ちが蔓延しつつあった。そんな空気を覆すべく、おおよその事情を把握しているレイが一歩前に足を踏み出す。既に刃を失くした騎士剣を地面に放り捨て、金色の瞳を真っ直ぐ修に向ける。


「僕の聞き間違いでなければ、君はリリス王女を救うと言ったのかい?」


 喧噪に支配されつつある空間の中においてさえ、レイの声ははっきりと響いた。不満を抱きつつあった民衆もレイに注目を集める。レイならこの不届き者に制裁を与えてくれると、そう信じているかのように。


「ああ、そうだ。リリスは俺が救い出す」


「……なるほどね。けれど、それを受け入れるわけにはいかないね」


 この場の誰も望んでいない修の宣言をレイは一蹴する。

 それによってまた民衆が少し沸いた。

 リリスにはその光景をただ見届けることしか出来ない。

 レイではなく自分が修と話さなければならないと分かっているのに、どうしても声を出すことは出来なかった。


「既に彼女の処刑は決定したことだ。それを覆す機会はルミナリア王国の勇者である君にも与えたはずだよ。数時間前の決闘に姿を現せなかった時点で、君に異論を唱える権限はないんだよ、シラサキ」


 レイの発言はあまりにも正しかった。

 各国の勇者による決闘、それもその光景を世界中に放映した上でレイは勝利したのだ。

 元々の条件であった、魔王討伐に関連する事項において敗者は勝者に従うという条件を行使する権限を彼は持っている。逆に言えば、敗者国側の勇者である修にはそれを拒絶する権限はない。


 レイの言葉によって、民衆も修の正体がリリスが異世界から召喚した勇者だと気付いたようだ。またざわざわと騒ぎだしていた。

 異世界の勇者が三人いるということは既に国内外に広まっている。伶奈とソラを除いた最後の一人が彼だと、ようやく見当がついたのだろう。


「黙れ」


 だがそんな状況にあってしても、修は一歩も引くことはない。

 それが世界の選択に歯向かうことであると理解していながら、修はこの世界の決まりを冒涜するかのような発言を続ける。


「勇者だとか、権限だとか、そんなもん知ったことか――これは俺の、俺だけの答えだ。お前にだって邪魔はさせない、レイ・ジオ・エルトリア」


 深い闇を呑み込んだかのような漆黒な瞳をレイに向け、修は真っ向からそう告げた。怒り、憎しみ、恨み――そして悲しさといった負の感情を込めた視線。絶対に引かないという強い意志がそこにはあった。


「そうか、それは残念だよ」


 修の答えを聞き届けたレイは、これ以上の会話は無駄だと言うようにぐっと膝を曲げる。

 見据えるは時計塔の天辺に位置する修――それが攻撃に移る予備動作だとリリスが気付けたのは、目の前から一瞬でレイの姿が消えたのを見届けた後だった。


「――――――」


 驚く間もなく、リリスの視界はすぐにレイの姿を捉えた。

 視線を空高く――修のもとへ上げる。

 レイは既にそこにいた。

 瞬き一つほどの間で、まさに瞬間移動と称すべき速度で修に肉薄していた。


 レイは腰元にある剣――祝魔剣の柄を力強く握りしめていた。

 伶奈とソラ相手には使うのを渋ったあの剣を、不意打ちの様に構えている。

 レイが実力行使で修を追い払うつもりなのだということくらい、リリスにもすぐに理解できた。

 そしてそれによって、修の命までも危機に晒されることも。


「シュウさ――――」


 それは何かを深く考えた上での叫びだったわけではない。

 リリスはこれまで全てを忘れたかのように、反射的に彼の名前を呼ぼうとした。

 当たり前のことだ。リリスが拒絶したのは事実とはいえ、彼女にとって彼が大切な存在であることには変わらないのだから。


 けれど、その叫びが最後まで紡がれることはなかった。

 それよりも早く、“その現象は訪れた”。


 レイから放たれた灰色の光と、修の放った漆黒の焔が交わる。

 刹那、世界は純白の光に呑み込まれ、二人を中心とした全てが破壊された。


 時計塔は天辺から最下層にかけて瞬く間に瓦解し、周囲数百メートルに至る建造物の悉くを押し潰していく。光はとうとうリリス達のいる大広間の地面にも至る。中心にある噴水は水を跳ねる間もなく光に触れた部分から蒸発し、石の舗装は全て剥がされ下に埋められていた土までもが姿を現す。何もかも、全て、破壊され消えていく――――


(――――絶対固定!)


 故に、リリスがその祝福を唱えられたのは奇跡という他なかった。

 大広場を中心とした空間が破壊されることは構わない。

 何よりこの場にいる人々を守ることが最優先だった。


 純白の光による破壊から、突如として自分に迫る死に瞠目する人々を守るように広範囲で使用した絶対固定。その影響で瞬間的に絶大な魔力がリリスの身体から消えていく。両膝を地面につけ、息を切らしながらその結末を見届ける。


 純白の光は完全に消えた。残るは視界いっぱいを覆う粉塵のみ。気が付けば先程まで騒いでいた民衆も静まり粉塵が晴れるのを待っていた。自分の命が助かったこと以上に、意識がそちらに割かれている。


 不意に風が吹いた。

 粉塵が徐々に晴れていく。

 少しずつ視界に移るのは、これまでの美しき王都の街並みではなく、荒廃した大地そのもの。

 舗装も、時計塔も、建造物たちも、全てが形を失っていた。

 元が何なのかさえ分からない破片などが遠い場所で積まれている。


 そして、そこに“一人”の男が立ち尽くしていた。

 誰もが期待していたのとは逆の黒髪黒目の青年。

 それは、レイではなく修が今の攻防を制した証拠だった。

 レイの姿はどこにも見当たらない


「言っただろ、リリス」


 修は、十数メートル離れたところからリリスに向け静かに歩を進めながら言う。


「“お前”だけは、俺が守ってみせるから」


 その言葉を聞いて、リリスは――


「……駄目です。来ないで、ください……」


 ――修が無事でいてくれてよかったと、そう安堵の気持ちを伝えるのではなく、真っ先に修の存在を否定した。


 目の前でリリスに拒絶された修は、ピタリと歩を止める。


 それを見届けたリリスは、まともに働かない頭のまま必死に言葉を探す。何かを言わなければならないのに、その内容がどうしても思いつかない。纏まらないまま無理やり口元を動かす。


「言った、はずです……私を助ける必要なんてないって……ちゃんと、私は、シュウさんに伝えたはずです!」


 ああ、違う。

 こんなことを言いたかったわけじゃないんだ。

 なのに、言葉は止まらない。


「私を、貴方の大切な誰かの代わりにするのは止めてください! 私を、貴方が世界を壊すための理由にするのは止めてください!」


「…………」


「私は、そんなこと、望んでなんかないんですっ!」


 顔を上げることなんてできない。

 自分の声以外の一切の音が消えた世界で、両手で顔を覆いながら叫び続ける。

 思考なんてとっくに働いていない。支離滅裂な言葉しか自分からは生まれない。

 それでも、そうするしか、修と向かい合うことはできなかったから。

 すぐにでも逃げ出してしまいそうになるから。


 全部、嘘なんだ。

 本当は偽物でもいいから、修と一緒にいたかったんだ。

 いつか離れ離れになるその日が怖くて、自分から切り離しただけなんだ。


「それに、シュウさんは知っているはずです! 私の存在が、この世界にためにならないってこと! 私がいるだけで、誰も魔王を倒すことなんてできないんです! 世界は救われないんです! 私は、私が大好きなこの世界を見捨てるなんてできません!」


 ――それもまた、本当の想いだった。

 世界を嫌う修の側にいることと、この世界を救うこと。その両者は相容れない。

 だからこそ、リリスは修を拒絶して世界を選んだんだ。

 自分を犠牲にする道を進むと決めたんだ。


 なのに、どうして。

 この人はここに来てしまうのか。

 強く決意したはずのリリスの心を揺さぶるのか。


「だから、お願いです、シュウさん……」


 何度、拒絶したら許してくれるのか。


「私を、否定してください……!」


 あと何度、この胸の痛みに耐えなければならないのか。


「リリス」


 これだけ伝えても、きっと彼には届かない――


「俺は初めから、そのつもりだ」


「…………え?」


 何を言われたのか分からず、リリスは思わず顔を上げた。

 疑問を顔に張り付けた哀れな容貌を修に向けている。

 そんなリリスに対し、修は迷うことなく言葉を紡いだ。


「リリス――俺は、お前を否定しにきた」


(――――ぁ)


 ずっと、待ち望んでいた答え。

 修の口から聞きたかった言葉。

 これで本当の意味で、リリスは修との関係を断ち切れるはずだ。

 喜ぶべき、言葉のはずだった。



 そのはず、なのに。

 この、自分から拒絶した時の何万倍もの胸の痛みは、いったい何なんだろう。



 ◇



 ――――やっと、否定してくれた。


 そう、思わなければならないのに。


 リリスにとって先程の修の言葉は、彼女の覚悟を決めるための喜ぶべきものでしかなかったはずだ。それなのに、今のリリスの胸中には言葉に言い表せない程の痛みしか存在していなかった。


「リリス、お前は一つ大切なことを勘違いしている」


「――え?」


 理解不能な感覚に苦しむリリスを救ったのは、その原因を作った修自身だった。

 意味がよく分からない修の発言に、リリスの意識は吸い寄せられる。


「俺がお前を助けようとするのは俺の願いだ――俺は、お前の願いを叶えるためにここに来たわけじゃない」


「――――」


「初めから、お前が俺の願いを受け入れてくれないことくらい分かってる。お前は言ったな、この世界のことが大好きだって……そんな奴が、世界じゃなく自分が助かる道を選ぶはずなんてない。それに、ずっと代替品として扱って、偽物ばかりの言葉を掛けてきた俺が今更そんなものを望むのだって、身勝手で傲慢なことなんだって理解してるよ」


「なら、どうして……そんなことまで分かってるのに! シュウさんは、なんでこんなところに来たんですか! 私の前に、現れたんですか! 諦めたのに、全部! なのになんで! また、私は、拒絶しなくちゃいけないじゃないですか……!」


「それでも、救いたいと思ったからだ。他の誰でもないリリスを――俺が今まで共に過ごしてきたお前自身を」


「――――」


 既に理性なんてなくなって、意味を成さないリリスの悲鳴を前に、修は優しくそう告げる。頭に昇った熱が急速に冷えていく。


「どうして、なんですか……?」


 冷えて固まった頭を、必死に動かす。


「分かりません……私には、何にも、分からないんです……何で、こんな私なんかを、救いたいって言うんですか? だって私はずっと、シュウさんからもらってばかりで……助けていただいてばっかりで、私がシュウさんのためにできることなんて何もなくて……なのに、なのに」


「…………」


「私がシュウさんに与えられたものなんて、何も、何もないのに……どうして、貴方は、私を――」


「いや、それは違う。俺がお前に貰ったものは確かにある」


「――え?」


 予想だにしていなかった言葉に、リリスは動きを止める。

 自分が修に与えられたものなんて何もなかったはずだ。


 なのに、修は真っ直ぐにリリスに向けて告げる。


「助けてって、聞こえたんだ」


「――――」


 何の、話だろうか。

 リリスは修に助けを求めることなんてなかったはずだ。

 それどころか、ずっとそれを拒絶して――


「俺がこの世界に呼び出されるとき、お前は確かにそう言っていたはずだ」


「…………ぁ」


 思い出す。

 それは全ての始まりの日。

 白崎 修という存在と出会った日。

 異世界から勇者を呼び出す魔術陣に、リリスは確かにそう願った。


「本当なら俺は、あの瞬間にこの世界にくることを拒絶できたはずだった。それなのに今、俺はどうしてここにいるのか……答えなんて簡単なことだったんだ」


 そんな昔のことを引っ張り出して、修はリリスに微笑みかける


「大切な人を誰も救えず、世界に絶望して、壊そうと思って……けど何も出来ないまま、ただ毎日をのうのうと過ごすだけだった……そんな俺に、お前はやり直す機会をくれたんだ。俺が生きていい意味をくれたんだよ」


「……そんなの、シュウさんが私を誰かの代わりにしてることには、何の違いも――」


「全然、違う。だってアイツは……咲は、一度だって俺に助けを求めることなんてなかった。けどお前は違う。俺を求めてくれた。咲が俺にくれなかったものを、お前は俺に与えてくれた。それだけで、それだけで良かったんだ。救われたんだ。俺はお前を本物だと思えたんだ……ああ、そうだよ。初めて出会ったその瞬間から、俺はとっくにお前のことを大切だって思えてたんだ」


「……嘘です、そんな、訳ありません……シュウさんが私を、大切に、思ってくれるだなんて!」


「いいや嘘じゃない。リリス、俺はお前が大切だよ」


「――――! だと、しても……そんなのは昔のことです……今の私は、助けてほしいだなんて、望んでなんか……」


 修が本当に自分を大切に思ってくれてることなんて、リリスには信じることができなかった。それどころか真正面から向き合うことも。だからこそ誤魔化すように話の矛先を変える。


「知ってるよ」


 けれど、修は切り捨ててなんかくれない。

 リリスがどれだけ望もうと彼は絶対に引かない。


「それでも救うって決めたから。だからこそ言ってやる――そんなお前の願いなんて知ったことか」


「――――」


 これまでの会話を全て台無しにするような突拍子もない台詞。

 相手にするのなんて馬鹿馬鹿しいほどの主張。

 そのはずなのに、リリスは気が付けば修から目を逸らせなかった。


「――俺はこの世界が嫌いだ。限られた奴だけが恐怖と戦って、犠牲になって! そのくせ救われる側はそれをさも当然のことのように思い込んで、何か都合の悪いことがあればその責任を押し付ける! そんな世界が!」


「……けど、私は! 私には本当にその責任があって!」


「いや違う! そんなものはない! お前が苦しんでいい理由なんて、何一つとして存在しない!」


「――――」


「お前が本当にこの世界にとって不必要な存在だとか、世界に災厄を齎す存在だとか、そんなことはどうだっていい! お前みたいな子供にそんなこと強制する世界があるっていうなら、間違ってるのはこの世界の方だ!」


「――――ッ」


 納得なんてとてもできない。修はリリスが背負う罪を知っているはずだ。そのはずなのに、彼はその責任を全て世界に押し付ける。リリスには罪がないだなんて、そんな馬鹿げたことを大真面目に口にする。


 否定しなくちゃいけないはずだ。そうしないと、今まで自分が信じてきた全てが意味のない物に変えられてしまう。ずっと、リリスはその罪を背負いながら生きてきた。世界に災厄を齎す少女だと言われ、それでも必死にその罪に耐えながら足掻いてきた。修の言葉を認めてしまえば、その努力までもが全て否定されてしまう。


 なのに。

 そんなこと分かってるのに。

 修の心からの叫びを耳にしてしまえば、何も言うことはできない。

 

「俺はお前を救う! 代替品でも偽物でも何だっていい! 俺はただお前を救いたいと願ったんだ! 世界がお前を殺すなら! お前がそんな世界を愛するって言うのなら! 俺は――――」


 ずっと願ってきたはずだ。

 世界を救うために自分を否定し、殺してくれる存在を。

 そんな出会いを夢見ていたから。


 だから、だから――――



「――――この世界が敵に回ろうとも、俺はお前を否定する! 間違っている世界なら、俺がこの手で壊してやる!」



 ――――リリスを否定した上で救おうとしてくれる存在なんて、考えたこともなかったから。


 じわりと、目の奥が熱くなる。

 だめだ、だめだ、だめだ。

 いま、泣いちゃだめなんだ。

 何か大切なものを失う気がするから。


 なのに、そんなリリスに追い打ちをかけるように、修は叫ぶ。


「だから聞かせろ! 世界の命運だとか、お前の背負う罪だとか! そんなものを全部放り捨てた先にあるお前の! お前だけの答えを!」


 真っ直ぐな瞳を向けて――――




「――――リリス!」




 答えろと、告げる。


 ――――願っても、いいんだろうか。

 自分はこの世界にとって災厄で。

 誰にも必要に思ってもらえるわけなくて。

 それでいいと、そうあるのが当然だと思っていた。

 世界のために自分が犠牲になること、それを受け入れていた。


 なのに、そんな自分を救うっていってくれる人がいたんだ。

 他の誰でもないリリス自身を。

 リリスが、誰よりも惹かれたその人が――――


「私は、私は……」


 答えなんて決まってる。

 だけど自分にはそれを求める資格なんてない。

 だから、だから自分は修の言葉を否定しなくちゃいけなくて――


 そのはずなのに。

 それ以上の言葉は紡がれない。

 言いたくないと、心の中が必死に叫んでるんだ。


 “――――いいのよ、リリス”


(――――え?)


 不意に、声がした。

 誰のものかなんて分からない。

 大人びて、優しくて、聞くだけで涙が出そうになる懐かしい声。


 続けて、固く握りしめていた手に何かが重なる。

 見下ろすと、そこにはリリスのそれより一回り大きい美しい手が置かれていた。

 幻想のように霞んで儚い。

 けれど、確かに暖かかった。


 “迷うことなんてないよ”


(…………ああ)


 どうしてだろうか。

 その声が誰のものか分かった。

 一度も言葉を交わしたことなんてないはずだけど。


(こんなときに、現れるんですね)


 そっと振り向く。

 それはリリスの思いが生み出した幻だったのかもしれない。

 だけど彼女は――輝きを秘めた金糸を靡かせ、海と空を閉じ込めた蒼色の瞳を持つその女性は、優しくリリスを見つめながら言うんだ。


 “貴女が本当に、進みたい道を選んで――リリス”


 きっと、いつの日か彼女が言い忘れた、その言葉を。


(はい――お母さん)


 そんな心の中の小さな呟きを聞いたその女性――アイリスは、満足そうに微笑みながら消えていった。


 十二年越しの、一瞬きりの邂逅

 それでも、もうリリスの心は満たされた。

 世界も、自分の責務も関係ない。

 自分だけの答えを、今のリリスは持っている。


 ぽろぽろと流れている涙を止めようとは思わない。

 だってこれは、きっと悲しみの涙ではないはずだから。


 だからリリスは、涙を流しながら――――修に向けて叫んだ。

 他の誰でもない、リリスだけの答えを。




「たすけてよぉ、シュウさん……!」




 リリスの心からの懇願の声が世界に響き、静寂が訪れる。

 いつの間にか修から避難するように遠巻きから見ていた民衆ですら、涙と鼻水で容貌を崩しながら叫ぶリリスの姿に目を奪われ、言葉を失っていた。


 その中を、修は一歩ずつ歩を進めていく。

 彼の足音だけが辺りに響き、その動向に皆が注目していく。


 リリスの目の前に辿り着いた修は、そのまま止まることなく左手でリリスの身体を引き寄せた。リリスは修の胸に寄りかかりながら、想いを口にする。


「私、もっとシュウさんと一緒に話したいんです! 笑い合いたいんです! ……また、頭を撫でて欲しいんです……っ」


「ああ」


「意味なんてなくていいんです! それでも、ただ、私は貴方と……一緒に、いたいんです……!」


「……ああ」


「本当に……そんなことを、望んでもいいんですか? 私は、許されるんでしょうか……? シュウさんに助けていただいて、いいんでしょうか……?」


「――ああ、任せろ。お前はただ、俺を信じていればいい」


「――――はい、はいっ」


 涙と鼻水に塗れた顔面を修の胸に押し付けながら、リリスは何度も何度も頷く。

 服越しにでも修の温かさを感じる。どっしりとリリスを受け入れる強さを感じる。リリスの上から掛けられる声からは、修の捻くれた、けれども底抜けの優しさを感じる。この選択は間違いだったのかもしれない。それでも、今だけは、このまま二人きりの時間を過ごしたかった。


 だってこの幸せな時間を壊す存在がいることを、リリスも修も知っていたから。

 本当に大切なことは何も解決していない。

 リリスが修の想いを受け入れたとしても、彼女の背負う業が消え去ったわけではない。




「余興は、もう終わりでいいのかな?」




 リリスの存在を排除しようとする英雄は、まだいなくなってはいない。


 リリスはその声を聞き反射的に視線を上げる。

 修の肩越しに奥にある光景を目にする。


 先刻の破壊の光によって瓦解した破片が散らばる前に、レイは立っていた。

 纏う純白の鎧には多少の汚れが目立つものの、その身に大きな怪我をしている様子はない。

 普通ならあれほどの破壊に巻き込まれて無事だったかと驚くべき場面かもしれないが、リリスにとってそれは想定通りの結果だった。


「あっ……」


 修はそっとリリスの身体を引き直すと、反転しレイに向き合う。


「驚いたよ、シラサキ。僕が祝魔剣を抜き切る前にあれほどの力をぶつけてくるとはね。対応が遅れていれば僕の身は既に滅んでいただろう」


「世辞はいい。そんなことをするために、俺達の前に立ちはだかってるわけじゃないだろ」


「……ああ、そうだね。話が早くて助かるよ」


 言いながら、レイは両手で輝く灰色の剣を構える。

 身も震えるような絶大な魔力を内包する祝魔剣を、真っ直ぐ修に向ける。


「だが最後に一度だけ問おう。先程の言葉を取り消すつもりはないかい? 彼女の存在がこの世界に及ぼす悪影響を、既に君も聞いているんだろう――庇う必要なんてないことも理解しているはずだ」


「断る」


「……決断が早いね。けれどそれを英断と呼ぶことは出来ないよ」


 多大な自信を含んだ笑みを浮かべながら礼は言葉を紡ぐ。


「君の行為は偽善であり無謀だ。リリス王女を守ると誓った以上、君が敵に回したのは僕だけじゃない、この世界そのものだ。先程、君が言っていた通りにね」


 祝魔剣が、人智を凌駕する魔力を纏っていく。内包する魔力が僅かに外に漏れただけで、地面は激震し大気に亀裂が入っていく。最強の剣、絶対の力――あの剣を前に恐れを抱かぬ者など、この世界にはただの一人として存在しない。


「――――俺が世界を敵に回した? 笑わせるな、冗談も大概にしろ」


「――――なに?」


 けれど、修はそれでも真っ直ぐ前に進む。

 その足取りに不安や恐れはない。

 世界を壊すと誓った勇者は、世界最強の英雄に立ち向かう。


「僕の言葉が間違っているとでも言うのかい? だとするならその思い違いを正す必要がある。君はまだ、自分が犯そうとしている罪の重さを理解できて――」


「――そうじゃない、そんなことはどうだっていい」


 要領を得ない修の言葉にレイは微かに眉を上げる。鋭い金色の眼を向けられてなお、修は止まらない。


「世界が敵になることになんて初めから興味はない。本当に大切なのはもっと別のことだ」


 たった一つだけ、譲れないものがあったから。


「勘違いするなよ。俺が世界を敵に回したんじゃない――――」


 全てを奪い去る漆黒の焔を身に纏い、修は不遜に告げた。






「――――世界が、俺を敵に回したんだ」

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