第二十九話 偽物でも、本物だから
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馬車に揺られる。
ガタンゴトンと、身体が上下に動く。
馬車の屋根によって陽光は遮られ、普段より幾分か輝きが衰えた金糸が小さく靡く。その姿はまるで現在の少女の生命力を表しているかのようだ。
王城から大広間までの短い距離を、リリスは騎士達によって完全に警護されながら進んでいた。
国民達は以前からの情報通り、リリスの罪を暴く場所となる大広間に向かっているためか、不気味なほど大道に人の姿は見当たらない。
その不自然さ、静寂さがさらに馬車内の緊迫感を高めている。
ルミナリア王国の勇者、逢ヶ瀬 伶奈とソラは、エルトリア帝国の勇者、レイ・ジオ・エルトリアに敗北した。魔道具による映像を見れば伶奈とソラはレイ相手に互角以上に渡り合っていたように思える。だが、結果としてレイの圧勝に終わった――祝魔剣を抜いた瞬間にいとも呆気なく。
勇者としての実力的優位性、発言の絶対的信頼性。
それらを無事獲得したレイの言葉を疑う者はもういないだろう。
リリスが魔王軍と関わりがあり、処罰されるべき対象であるという主張を。
そのことにリリスは、一切の不満はなかった。
初めから分かっていた。
いつの日か綻びは生じる。
その楔となるヒビは初めから――リリスが生まれたその瞬間から存在していた。
リリス・ジオ・ルミナリア。
ルミナリア王国の第一王女として生まれ、母親より美しき容姿と祝福を受け継いだ少女。
自分を犠牲にしてでも、愛する世界を守ろうとする心優しき存在。
――――そうあれたら、どれだけ心が楽になっただろうか。
(違うんですよ……シュウさん)
馬車の窓から遥か後方にある王城を見つめる。
そして一人の青年の姿を脳裏に思い浮かべる。
ああ、彼に謝らなければならないことがあった気がする。
もう既にそれは手遅れなことだけど。
せめてもと。
リリスは小さな手で、その中にある物をギュッと握りしめた。
もう少しで、大広場に辿り着く。
その時、彼女は――――
◆
「俺自身の、本当の想い……?」
純白の少女の言葉を復唱する。
口の中でゆっくりと噛み締めるように。
言葉の意味は分かっても、そこに込められた意図は全く分からない。
既に終わった話のはずだった。
俺の想いなんて、何度も何度も繰り返し長々と語ったはずだった。
それをどうしてわざわざ掘り返そうというのだろうか。
無駄なことだ。
そう斬り捨てるのは簡単だった。
もし、少女の真っ直ぐな目が俺を向いていなかったなら。
「……言っただろ。俺には偽物の関係に揺れ動かされる心なんてない。それが俺の想いの全てだ」
何度目かになるか分からない俺の信念を目の前の少女に向ける。
しかし彼女は全く引くことはない。
「それは嘘だよね。それで全部なわけがないんだよ。ちゃんと思い出して、偽物でしかなかったはずの彼女のために、どうして貴方が今日のこの日まで必死に足掻いてきたのか――嫌ったはずの世界を救うために戦ってきたのか」
「――――」
偽物の関係だったリリスのために戦った理由。
魔王軍幹部を討伐することによってこの世界を救った理由。
そんなものは決まっている。俺はずっとあの日の再現を求めていた。
そのためにはリリスを失うわけにも、俺以外の誰かに世界を壊されるわけにはいかなかっただけだ。
それ以外に理由なんて、どれだけ考えても思い付くことはない。
紛れもない事実。俺の心から生じた本当の答え。
なのにどうしてだろうか。
少女のその言葉を耳にした瞬間、ぞわりと胸の中で何かが蠢いた。
分からない。
何も分からない。
何だろう、これは。言いようも知れぬ感情。
何かを間違えてしまったかのような焦燥感、取り返しのつかない失敗に押しつぶされそうな鬱屈感、大切な何かが手から滑り落ちてしまったかのような寂寥感。
ああそうだ。
俺はきっと何か、大切なものを見落として――――
『これより、ルミナリア王国第一王女、リリス・ジオ・ルミナリアに対する処罰を決行する』
瞬間、俺でも目の前の少女でもない声が室内に響き渡った。
もう既に聞き慣れたといって過言ではない、凛然として力強いレイの声。
なぜこのタイミングであいつの声が聞こえるのか。その疑問を晴らす答えは目の前にあった。
リリスが残していった黒色の球体の魔道具。
そこに、数時間前に一度は途切れていたはずの映像が映し出されていた。
見慣れた街並みだ。王都中心の大広間に巨大な時計塔。
大広間の周りには煉瓦造りの建物が立ち並び、中心には立派な噴水がある。
尤も、本当はそんな光景なんてどうでもよかった。
一番重要なのは、噴水の前に臨時的に設置されたかのような壇上の上で並ぶ二人の存在。白銀の騎士と金色の少女――レイとリリスだ。
二人の周りには複数名の騎士が、それをさらに囲むように大量の人々が存在していた。気味の悪い熱気に包まれているのが映像越しにでも分かる。
「――正気か」
決闘だけでなく、処刑の光景すら世界中に流そうとしているのだろうか。
そんな残酷なものを望む者がいるというのか……いや、いるからこそこの状況が生み出されたのだろう。
レイの口からつらつらと述べられるリリスの罪状。
彼女の存在が魔王軍の隆盛に大きく関わり世界に災厄を齎しているということ。
根拠も何もない、疑問や反発を持つ者が少なくない人数現れてもおかしくない主張――今の俺はそれが嘘でないことを知っているが――それを聞き、反発しようとする者はここからでは見当たらなかった。
馬鹿げた世界。
狂った世界。
間違えている世界。
そんなもののためにあの少女は犠牲になろうとしている。
……その光景を見て湧き上がる気持ちなんて、別に何一つとしてないけれど。
目を閉じ静かにその瞬間を待ち受けるリリス。
身じろぎひとつしない様子から彼女の感情を読み取ることはできない。
彼女がいま何を思い、あそこにいるのかなんて分からない。
世界のため?
大好きな人たちのため?
リリスの言葉を思い出すなら、それらが適しているだろうか。
自分を犠牲にすることで、世界を救える。
彼女はそんな希望を抱いているのではないだろうか。
俺には分からない感情。
当たり前だ、初めから俺達は真逆の存在。
想いが通じ合うことも、歩む道が交わることもない関係。
生まれ落ちた瞬間から確定していた他人同士。
だから、俺は。
そんな彼女の行為に、言葉に、心を動かされるなんてわけはなくて――
「――――えっ?」
――そう思っていた、けど。
「どうして、何で……」
その光景を見た瞬間、いとも容易く俺の頭の中は真っ白になった。
いや、真っ白というよりは様々な思考が渦巻きちゃんとした形にならない。
色白で小さく、少し力を入れれば儚く壊れてしまいそうな華奢なリリスの手。
ずっと力強く握りしめられていた拳が開かれる。
リリスは静かに目を開くと、ゆっくりと視線を手のひらに落とし――小さく微笑んだ。そこにある、価値なんてないはずのちっぽけな物を慈しむように。
それは、子供用の小さな、蒼色の宝石が埋め込まれた指輪だった。
「何でいま、それを持って……」
あの指輪は、俺が以前リリスにあげた物であることはすぐに分かった。
特に深い意味なんてなくて、気まぐれで買っただけの、大した価値もない指輪。
それなのに、そのはずなのに、リリスはまるでその指輪が世界で何よりも大切な物かのように、心からの想いをはせるかのように見つめていた。幼い少女が持つには似合わない慈愛と優しさに満ちた瞳で。
ぞわりと、再び胸の中で何かが蠢く。
取り返しのつかない何か、思い出さなくちゃいけないはずの何か。
なあ、リリス。
どうしてこんな時にお前はそんな物を持ってるんだ?
俺達の関係は偽物で、その間で交わされた想いにだって本物はなくて。
俺がお前にあげた物に、価値なんてあるはずがなくて。
なのに、なんでそんな慈しむような、大切なものに向ける優しい目をしているんだ?
胸に湧き上がるこの感情は、いったいなんなんだ?
お前が言ったんだろ?
俺がお前を咲の代わりとして扱っていて、お前はそれが嫌で……
お前はそんな俺のことが嫌いだったはずで……!
『シュウさん』
不意に、映像の中のリリスの悲しげな微笑みと、俺の記憶の中の彼女の笑顔が重なる。映像の向こうでリリスが言葉を発したわけじゃない。俺の名前を呼ぶリリスの声は、俺の記憶にある彼女のものだ。
その言葉が皮切りとなったかのように、次々と脳裏にリリスとの記憶が蘇る。
『……シュウさん、私達を助けていただいて、本当にありがとうございます』
俺がこの世界に来て初めて魔物と戦ってリリスを助けた時、彼女は笑顔で俺の名前を呼んでくれた。
『絶対に、約束です。絶対に、ちゃんと戻ってきてくださいね!』
俺が王都から離れて旅をすると告げた時、リリスは悲しげな表情を浮かべながらも、最後には笑いながらそう言ってくれた。俺のような存在に、傍にいてほしいと言ってくれた。
『そうなんですか? でも、私がお礼を言いたくなるようなことはしてくれましたから』
俺からしたら何気ない行動に対しても、彼女は嬉しそうに感謝を告げてくれた。
『嬉しいんです……家族以外の誰かからこんなに素敵な物を貰ったのは……初めてで、本当に、嬉しいんです』
俺が気まぐれで選んだ、価値のないような指輪のプレゼントに、それでもリリスは涙を流すほどに喜んでくれたんだ。
俺の思い違いじゃなかったなら、リリスは、きっと、ずっと。
『初めから、私とシュウさんの在り方は異なっていたんです。交わるわけがなかったんです。それなのに私は分不相応にもその関係を求めて、その結果が今のこの状況です。シュウさんは何も悪くないんです……悪いのは、そんなものを望んだ私だけです』
そんな歪な関係を望んでくれていたんだ。
ずっと何かが引っかかっていた。
俺はリリスを代替品として、偽物として扱っていて。
けど、リリスは違ったんだ。
彼女にとって俺は俺でしかなくて、それ以外の何者でもなくて。
俺と彼女の間で起きた一つ一つの出来事に意味を見出していてくれていて。
俺を拒絶したはずの彼女は、確かに俺に本物の笑顔を向けてくれていた。
俺達の道が交わることはない。
ああ、それは当たり前のことだったんだ。
だって、リリスがどれだけ俺に本物の想いを向けていてくれていたとしても、俺は初めから別の方向を向いていたんだから。
「……ああ、そうだよ」
俺だって本当は気付いていたはずだ。
リリスが咲の代わりになれないってこと。
彼女は俺と初めて出会ったその日に、世界を大好きだと告げていた。
その時点で、リリスと咲が違う存在だってことを、俺は分かっていたはずだ。
なら俺はそれを分かっていながら、どうしてリリスを守ろうと思ったのか。
今日のこの日までずっと、俺達の関係が偽物だって気付けなかったのか。
彼女の涙を見た瞬間、どうしてあんなにまで胸が痛くなったのか。
その答えは決まっている。
そこに、本物があったから。
名前、呼んでもらえた時、本当は嬉しかったんだ。
一度は彼女達から逃げようとして、それでも傍にいてほしいと言われた時、俺という存在を認めてもらえた気がしたんだ。
何気ない行動にお礼を言われたとき、気恥ずかしくなったんだ。
俺が選んだプレゼントに涙を流すほど喜んでいるのを見た時、心が満たされた気がしたんだ。
たとえそれが、誰もが羨むような美しいものじゃなかったとしても。
目を背けたくなるような、どれだけ歪な関係だったとしても。
俺達は確かに繋がっていたんだ。
歪で、狂っていて、間違えている関係。
それは偽物と呼ぶべきものなのかもしれない。
偽物の間に生まれた感情なんて意味はないと誰もが思うかもしれない。
それでも、きっと。
全部全部、偽物だったとしても。
俺とお前が過ごした時間は。
俺達が交わし合った言葉は。
お前が俺に向けてくれた笑顔は。
その末に生まれた。
このたった一つの想いは。
「俺がリリスを大切に想う願い――それだけはきっと本物だ」
覇気も強い意志も感じられないような小さな囁きに、俺の想いの全ては込められていた。
それを自分で耳にして、ようやく俺は理解する。
簡単な話だったんだ。
俺にとって、リリスはとうの昔に大切な存在で。
けど、俺は望まれないと行動に移すことができないから。
咲の代わりになってほしいと、世界を壊す理由になってほしいと、そんな言葉で言いくるめて、リリスに助けを求めてもらおうと思っていた。
俺がリリスを助けてもいいんだって、そう言ってもらいたかったんだ。
「答えは得たんだね?」
これまで静かに俺が答えを生み出すのを待っていた純白の少女は、確かめるようにそう問う。
「ああ」
「……その答えを、聞いてもいいかな?」
その赤色の瞳に込められているのは期待か、それとも別の何かか。それは分からないが、真剣な感情があるということだけは感じた。
「俺は、リリスを救うよ」
「……でも、それは、彼女が望んでいないことなんじゃないかな?」
この少女の言う通りだった。
俺は既に一度、リリスに拒絶されている。
その想いの根源が変わったとはいえ、彼女を助けるという結果自体は同じだ。
リリスの存在が世界に対して不要だと彼女自身が思っている以上、彼女が俺の想いを受け入れることはないだろう。
だけど、そんなものは関係ない。
いま俺がリリスを救いたいと思う気持ち。
それは、リリスのものじゃなく“俺自身”のものだ。
身勝手で独善的で、他人の意思は斬り捨てる。
それが俺だ。そんな俺の願いだ。だから。
「それでも、俺はリリスを救う。この願いは俺だけのものだ――リリスにだって否定させやしない」
伝えたい想いがあったんだ。
だけどどうしたって言葉にならなくて。
伝える方法が分からなくて。
ずっと誤魔化して逃げ続けてきた。
けど、ようやくわかったよ。
俺がリリスに伝えたかったこと。
それが何なのか。
それを伝えに行かなくちゃいけないんだ。
「うん、そっか……それはとっても、貴方らしいよ」
ゆっくりと少女は歩み寄る。
俺のすぐ前で立ち止まると、右手の人差し指でぐっと俺の胸元を押す。
「その答えを、ずっと忘れないでいてね」
不遜に笑いながら、だけどどこか悲しげにそう告げる少女。
今になって、俺は訊かなくちゃいけなかった質問を思い出す。
「お前は、いったい……」
誰なんだ。
そう続けようとしたが、少女が指を上にスライドさせ俺の口元を押さえたことによって止められる。
「その答えはきっとすぐにわかるよ。けど、ここで何も言わないのもなんだから一つだけヒントをあげる」
少女は指を俺から離し両手を背中で組むと、真剣な表情で言った。
「どうか“お兄ちゃん”によろしく」
「――――――」
それは予想もしない言葉。
お兄ちゃん、それが誰を指すのか俺に分かるわけはない。
……いや、思えば。
その少女の輝く純白の髪は、俺の知る誰かに似ている気がする。
同時に一つの可能性が頭に浮かぶ。
けどその答えが合っているとは思えない。
だって聞いた話によれば、彼女は既に――――
「ああ、そうだな」
俺はその疑問を頭から払い小さく頷いた。
今、しなければならないことは別のことだ。
踵を返し、少女に背を向ける。
もう振り返るつもりはない。
「行ってらっしゃい――シュウくん」
けれど、そっと掛けられたその声を聞き届けるくらいはしてもいいだろう。
「ああ、行ってくる」
進んでいく。
小さな歩幅で一歩ずつ。
だけど確かに前にへと。
待っていてくれ、リリス。
たとえ世界中が敵に回ろうとも。
俺は、お前を――――




