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よかった

 これは夢だ。

 全く現実感のないあやふやな景色。

 光に満ち溢れた何処とも知れぬ森。

 首を真上まで曲げても天辺が見えない大きな木。


 視界にあるのは腕ではなく、淡い縞模様のある前足。伸ばしたところで、何も掴めない腕の先には光を弾いて舞う透明なはね


 蝶のような翅は掌に収まりそうな小さな人の背についている。

 棗はどうしてもその妖精に触れたくて、見たくて必死に首を回して腕を伸ばすけれど、ままならない体は後を向きすぎて倒れてしまう。

 慌てて起き上がるが、視界に妖精が居なくなっていて、それが悲しくて声を出すと猫の鳴き声がする。


 何度か鳴いていると目の前に妖精が舞い降て微笑み掛けてくる。

 妖精は猫になった棗の鼻の頭ほどしかない手を伸ばしてなぐさめてくれる。

 その感触は滑らかで柔らかそうで頬ずりするが、毛皮越しではそよそよとしか感じない。どうしても触ってみたかったから舌を出して舐めてみたらザラザラの舌が痛かったのだろう、妖精は逃げるように舞い上がってしまう。


 行かないでと鳴き声を上げるが妖精は棗の前をふわふわと舞うばかりで降りてきてくれない。

 猫の本能か、目の前をふわふわ動く物を捕まえたくてウズウズするが、妖精は小さい。迂闊に手を出したら大変な事になると分かっているので必死に我慢して降りてきて、と鳴く。

 それに応えてようやく手元に降りてきた妖精は相変わらずうっとりする程美しい顔で微笑んでいて嬉しくなる。


 その時、梢を揺らす風が吹いて妖精は風に煽られて飛んでいきそうになり。思わず手を出して押さえつけてしまう。

 ああ、と遠くから悲鳴のような声が聞こえた。だがそんな事に構っている暇はない。掌からは柔らかさと暖かさと共に濡れた感触がする。

 恐ろしくて震えながら手を退けるとそこには猫の爪で引き裂かれて血を流す妖精がいる。声にならない悲鳴を上げながら舐めたり鼻先でつついたりするが妖精は全く動かない。


 命の尽きた姿ですら美しい妖精を見つめながら涙を流す事も出来ず固まってると棗を呼ぶ声がする。焦がれていた声に意識を向ければこの夢から覚める事ができる。そう思って縋るように目を覚ますと妖精と同じ顔の心配そうな表情が涙で滲んでいる。


「ようせいさん…死んじゃった…」

「大丈夫。それは夢だ。誰も死んでない」

 優しい声で囁くと涙に口付けられ、強く抱きしめられる。

「棗、大丈夫だから、棗」

 落ち着かせるように名前を呼びながら後ろ頭を何度も撫でられる。


「ごめんなさい」

「何もないから、大丈夫、誤ることない」

 耳元であやすように囁かれるとようやく意識がはっきりして反対に夢の内容がぼんやりと消えていく。それなのに感情だけは残ったままで、切ない、悲しい、恐ろしい。喪失感も絶望感も消えてくれなくて自分を抱きしめる体に腕を回して縋り付く。

「…たちばなさま…」




 そしてそのまま棗は眠ってしまった。

 明方の薄明かり中、涙の跡の残る顔を眺めながら少しの間ぼんやりしていた立花は眠れそうもないので起きる事にした。



 朝食の用意をしながら立花は今後の事を考える。


 棗がもう少し構えた所のある人だったらこうはならなかった。普通に可愛らしい良家のお姫様が、ああも猪突猛進の天真爛漫では気にするなと言う方が無理だ。個人的には面白いし可愛いとは思うが、もう少し表情とか色々気をつけた方がいいと思う。

 それほど棗は気さくで真っ直ぐな性格だ。

 だから余計に立花に関わって欲しくなかった。

 他人が巻き込まれるのが一番嫌なのだ。ただ、鬱金はすでに巻き込んでしまっているし、今更な気もする。それに棗なら大丈夫だろうと妙な確信もある。


 もういい。


 立花はこういった答えのない問いを考えるのが嫌いだ。何が起こるか想像もつかず、対策の取りようもない。好きにしよう。そう思った。




  ▽▲▽




 棗が目を覚ますと立花はいなかった。

 着替えてリビングに行く途中、棗に気付いたらしい立花が現れた。


「おはよう、棗、ごはん食べる?」

 棗はうん、と頷いて立花を見る。なんだか落ち着かない。

「じゃあここ入って」

 ダイニングキッチンには、トースト、コーヒー、ハムエッグといったザ朝食のメニューが並んでいた。

「わぁ〜誰が作ったんですか?」

「この家俺しかいないけど?」

「すごいですね……」

 この愛らしいイケメンに不可能はないのかと少し複雑だ。


 二人で朝食を頂いていると立花が窓の外を見ていう。

「雨だね」

「そうですね。ここはよく降るんですか?」

「知らない。俺ここ来たの何ヶ月か前だし」

「それまでは何処に居たんですか?」

 棗が尋ねると立花は真っ直ぐに棗を見つめてくる。


「それよりも、棗は何でここに来たの?」

「あれ? 言ってなかったですか?」

「何も聞いてないよ。一方的に怒られただけ」

「はっ!」

 なんたる不覚! 仕事に来て仕事を忘れるとは。


「立花の行方を探して、いつでも戻れる様にしておけと一ノ方様に依頼されました」

「行方を捜す?」

「立花様は音信不通で行方不明だったんです」

「なんで?」

「誰に聞いても教えてくれないんです。みんな立花様に頼まれたからって言ってましたよ?」

「俺そんな事頼んだかな?」

 立花は行方不明の自覚が全くなかったらしい。


「尾花様も言ってましたよ?」

「ああ、でもそれは違うのだったんだけど……」

「何が違うんですか?」


 立花が謹慎処分を受けてからというもの様々な国や商家のスカウトが来て大変だったらしい。最初は兄の家にいたが迷惑なので引っ越しをして、それからは聞かれても答えない様に頼んだという。


「なんでそんな事になったんだろう?」

「それだけ皆さん思うところがあったんです。尾花様に、会えなかったけど清白さんに、菫さん、鬱金様に聞いて、ようやく聞き出したのがロブちゃんの居場所です」

 棗は指折り数えて苦労を伝える。


「あ〜だからロブがおかしかったんだな」

「大変だったんです!」

「ゴメン。でも、これで棗の仕事は終わりだよな? これからどうするの?」

「どうしましょう?」

 棗は何も考えていなかったが一つだけ、報告しろとは言われてないので、聞かれるまで一ノ方に立花の事を教えないと決めていた。


「お家に帰らないのか? 婚約したんだろ?」

「あれは、破談になりました……」

 もうこの話をするのにも飽きてきたが、立花の言葉は予想外だった。

「そっか、良かった……」

「何が良かったんですか?」

「とてつもなく面倒な事になったらどうしようかと思っていた」

 安心した様子の立花は感じが悪い。


「棗は全然良くなかったです……それなりに悲しかったです……」

「そっかぁ、じゃあ代わりに俺と結婚してください」

 立花はなんの気負いもなくサラッと言う。言い慣れてるのか疑いたくなるほどだ。


「結婚……?」

「ダメ?」

 立花は愛らしく首をかしげる。棗は無言で視線だけで床を示す。

 ああ、と立花は立ち上がって、棗の前にひざまずく。

「棗さん。俺と結婚して下さい」

「はい!」

 棗は勢いよく立花に抱きついた。

「えへへ〜」

 棗の憧れのシチュエーションだ。しかし耳元で聞こえる立花の安堵の声は多分面倒にならなくて良かったという意味だろう。


「立花様は棗が断るとは思わなかったんですか?」

「……断ってくれても良かったんだよ?」

 わざとらしく甘い感じで言う。この辺の無駄な自信が感じ悪い。


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