閑話 変わらないもの
王宮に向かう馬車の中で、ミレースは俺の手のひらの上でウトウトと眠りかけているフユを見て目を輝かせた。
アウェインさんは自分の馬車で後から付いてきているのだが、ミレースは俺達の馬車で一緒に王宮に向かうことになったのだ。
「あ、あのフユちゃんのこと描いてもいいですか? 寝てるところが可愛らしくて!」
そう俺に小声でいうミレースに、俺は頷いた。
「でも馬車の中でよく描けますよね、揺れてるのに」
さすがに公爵家の馬車だけはあり、街中では大きく揺れたりはしないがそれでもさっきのような家の中とは違う。
だが器用なものだ、あっというまに眠りに落ちかけているフユの姿を描いていく。
エリーゼはフユに気遣って小さく手を叩いてミレースの絵を褒めた。
「凄いです! フユちゃん可愛いです!!」
そう言って、俺の手の中ですっかり眠りに落ちたフユの頭を撫でる。
フユはくすぐったそうにして寝返りをうった。
「フユ~……お母さま……フユちゃん沢山友達できたです」
母親のローゼさんの夢でも見てるのだろうか。
「可愛いです、フユちゃんみたいな妹が欲しいです!」
エリーゼが俺に笑顔を見せながらそう言うと、キュイもフユをのぞき込んでパタパタと羽を動かした。
エリザベスさんが微笑むとエリーゼの手を握る。
「もしエルリット君のお母さまが女の子を生んだら、将来エリーゼにとっては妹になるのよ」
そして今度は俺に向かってにっこりと微笑んだ。
無言の圧力である。
「は、ははは。もしかしたら、そうなるかもしれませんね」
公爵家への婿入りは俺にとってはいい話なのだが、将来エリーゼが嫌だと言えばそれまでだ。
エリーゼはそれを聞いて嬉しそうに笑った。
「エルリット! 妹が出来たらエリーゼ、一杯可愛がります!!」
無邪気なエリーゼの微笑みに俺も自然に笑顔になった。
ママンは元気だろうか。
もしママンにそっくりな妹が生まれて来たら、俺は超可愛がるだろう。
(いやいや、仮にアレンそっくりな妹でも勿論可愛がるけどな)
俺の手のひらの中で眠っているフユの姿を見ていたら、俺も少し眠くなってきた。
今日のラセアルとの戦いは結構ハードだったからな。
馬車から感じる、小さな揺れが心地よい
そんな、俺の様子を見てエリザベスさんが優しく微笑む。
「疲れたんでしょ、エルリット君。ついたら声をかけるわ、少しお休みなさい」
「ええ、すみません。そうしてもらえると助かります」
閉じかけた瞳の先で、ミレースが興奮したように俺を描いている。
どうやら、初恋の相手であるじい様の孫の俺の寝顔が気に入ったようだ。
エリーゼはまるで俺の姉になったように澄まして、そっと俺の頭を撫でている。
(妹か……)
俺は何故か、美貴の声が聞こえたような気がした。
あいつは元気にしてるのだろうか……
そんなことを考えているうちにいつの間に、俺は眠りに落ちていた。
◇
東京の夏は暑い。
とは言っても、少し日が落ちた夕方ということもあり日中の暑さに比べればまだましである。
そろそろ、同じ団地で住んでいる主婦達が買い物に出かける時間帯だ。
美貴はそんなことを考えながら、自分もその準備を始めた。
「ママ!!」
三歳ぐらいの男の子がそう言って、美貴の手を握った。
短大を出てすぐ、今の夫と結婚をして生まれた一人息子だ。
美貴は愛おし気にその子の手をとって、玄関に向かう。
自分が母親になるなんて考えたことも無かったが、なってみれば意外と頑張れるものだと思って美貴は少し苦笑した。
雑誌の付録でついてきた少し洒落たエコバックは、すらりとした美貴の美貌に似合っている。
「ほら、おいで! 買い物の前におばあちゃんのところに寄るんだから」
美貴が玄関にカギをかけている間に、近くを通り過ぎた蝶の姿に目を輝かせて追いかける息子を少し叱って、美貴はその小さな手を取った。
全くこの子は自分にそっくりだ。
美貴はそう思って腰に手を当てると、クシャクシャっと息子の髪を撫でる。
そして、少し思い出した。
小さい頃、必死に蝶々を追いかけて、転んで泣いていた自分をおぶってくれた背中のことを。
近所の年かさのいじめっ子達に泣かされた時も、必死な顔で守ってくれた。
幼い頃、いつもチョコチョコと自分が追いかけていた背中。
そして、いつしか自分がその背中の主を避けるようになってしまった過去のことも。
美貴は少し遠い目をすると息子を連れて歩き始める。
美貴の母親の家は、美貴の住む団地からほんの目と鼻の先だ。
しばらく歩いて、夏宮と表札がかかった実家の玄関の呼び鈴を押すと、母親が家から顔を出してギュッと美貴の息子を抱きしめる。
両親にとっては初孫で目に入れても痛くないほど可愛いらしい。
「よく来たね、スイカ冷えてるよ」
幼い頃の美貴の好物がスイカであったのを、大きくなっても変わらないと思っている母親に美貴は笑った。
親というのは、そういうものなのだろう。
子供が出来た今になると分かる気がした。
リビングのソファーに座ると、早速母親が良く冷えたスイカを皿にのせて持って来た。
美貴はそれを一切れ息子に渡すと、自分も口にする。
「ゆっくりしていけるのかい?」
母親の言葉に美貴は肩をすくめた。
「そうもいかないわよお母さん。弘樹が帰ってくる前に、買い物をして夕食の準備もしないと」
弘樹というのは美貴の夫である。
都内の商社に勤めるサラリーマンで、美貴にとってはよき夫、そして息子にとっても良い父親だった。
気が付くと息子はあっという間に食べ終えたスイカの皮を残して、階段を駆け上がっていく。
「あの子ったらほんと好きなのね、お兄ちゃんの部屋が」
美貴の言葉に、母親はふぅと溜め息をついた。
「あの子の部屋は、子供が好きなものが多いからね。ヒーローもののアニメとか子供の頃から大好きで、いい歳なっても観てたんだから。あんたも子供の育て方を間違えるんじゃないよ。仕事を辞めたのだって変な正義感を出して、上司と大喧嘩をしたからなんだからね。人生なんて適当が一番なんだよ」
半分冗談めかした母のその言葉に、美貴は微笑んだ。
母親がようやく兄の死を受けとめられえるようになったのは最近だ。
二人で兄のことをこんな風に話せるようになったのも。
母親が美貴の瞳を見ながら言った。
「良かったのかい美貴、あの子につけた名前……」
母親の言っている意味が分かって、美貴は頷いた。
そして、美貴は皿に乗ったスイカをもう一切れ手に取って、隣の和室にある仏壇の前に持っていく。
大きな額に入った写真の中で見慣れた顔が笑っている。
七年前のままの兄の写真を美貴は見つめた。
美貴はその前にスイカを置くと、静かに手を合わせた。
「変わらないね、お兄ちゃんは……」
そう呟く美貴の顔を、母親である忍は黙って見つめていた。
白い指先が写真の上をなぞる
「お兄ちゃんは何も変わってなかったのにね。アニメが好きで、笑うとちょっとだらしなくて……でも美貴が大好きなお兄ちゃんのままだったのに」
忍は美貴の側に歩み寄る、そしてその肩に手を置いた。
「美貴……」
美貴は静かに涙を流した。
「馬鹿だよね私。お兄ちゃんのこと友達に自慢出来ないとか、考えてたのはそんなくだらないことばっかり……。お兄ちゃんは何にも変わってなかったのに、変わってしまったのは私の方だったのに」
足元の畳に美貴の涙がしみこんでいく。
気が付くと二階から特撮物のヒーローの人形を両手持って降りてきた息子が、心配そうに美貴を見上げている。
美貴は頬に流れた涙を拭くと、息子の頭をしっかりと撫でた。
「ほら、貴方も伯父ちゃんに挨拶なさい」
幼い瞳が仏壇に置かれた写真を見上げて、その小さな手を合わせる。
「うん、ママ! 伯父ちゃん! また遊びに来ていい? 伯父ちゃんの部屋僕大好きなんだ!!」
嬉しそうにそう言って、男の子は美貴に手にした人形を一つ差し出す。
美貴はしゃがむと、その人形を受け取って微笑んだ。
「勇気、貴方の名前は伯父ちゃんから貰ったのよ。ママのヒーロー……ママと貴方に命をくれた人よ」
勇気と呼ばれた少年は不思議そうに美貴の顔を見ると、もう一度仏壇に飾られた写真を見上げた。
それから暫く美貴はその遺影に手を合わせた後、実家を後にした。
夕方の風がそっと髪を靡かせていく。
美貴は、息子の手をしっかりと握りしめて空を見上げた。
(お兄ちゃん、大好きだよ……美貴しっかり生きるから。お兄ちゃんがくれた命を大事にして生きていくから)
美貴はその時、亡くなったはずの兄の存在をすぐそばに感じたような気がした。
そして、少しだけその場所に佇んだ後、兄と同じ名をつけた息子と共に歩き始めた。
◇
淡く白い光に包まれた部屋の中で、美しい女神が一人立っている。
目の前にある、二つの水晶の中に映る世界を静かに見つめながら。
「どうされたんですか? リルフローラ様、一級神の昇進式がもうすぐ始まりますよ。早く来てください、今日の主役なんですから!」
自分を呼びに来た新米の三級神を振り返るとリルフローラは肩をすくめる。
「分かってるわ、すぐに行くから。先に行ってなさいトリン」
「分かりましたリルフローラ様、今日もお綺麗ですよ!」
トリンのその言葉に、リルフローラは胸を張る。
「当然でしょ! 完璧なこの私に、欠点なんてないわ!!」
トリンから見ると、そう答える性格が欠点な気がしたが口が裂けても言えないのは宮仕えの辛いところである。
溜め息をつきながら部屋を後にするトリンの姿を眺めながら、リルフローラは水晶に映る二つの世界に手をかざした。
その一つにはエルリット、もう一つには美貴の姿が大きく映し出される。
「全く、あんたのせいで結局七年もかかったわよ、一級神になるまでにね。色んなところの辻褄合わせが大変で昇進試験どころじゃなかったんだから」
そう言ってふっと微笑む。
「聞こえたかしら妹の声が、今日は特別よ。夏宮勇気、いいえエルリット・ロイエールス。あんたには借りがあるから、一級神になる前に支払っておくわ。いつまでも人間に借りがあるなんて神とは言えないものね」
リルフローラはそう言うと少しだけ眉を顰めた。
エルリットが映る水晶の色が、ほんの僅かに赤い光を帯びている。
「あの時はまだ気が付かなかったけれど、これからこの世界はきっと……。エルリット・ロイエールス。あの時、貴方が妹を救ったのも、そして私が貴方に力を与えたのも、もしかしたら運命だったのかもしれない」
リルフローラが腕を広げると、部屋の中に白い輝きが生まれた。
その光の中に、二つの世界を映す水晶は吸い込まれていく。
女神の美しい瞳が、一級神と呼ばれるのにふさわしい光を帯びるとクルリと踵を返す。
ちょうど再び自分を呼びに部屋に飛び込んできたトリンと共にリルフローラはその部屋を後にした。
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