岩木山
前書きの前と前蹴りの前は同じ前です。
家族の中で一番最初に温泉から出たのが私だった。
私は既にしっかりと、そしてくまなく茹だっていた。蛸だったらもう硬くなっているだろう。
それにしてもみんな何故あんなにサウナやら、湯やらに入っていられるのかわからない。異常だと思う。おかしいんじゃないかと思う。みんな体の中の何かが壊滅しているのではないのかと思った。
特に、
特にサウナ。
あれはサウナという名の拷問だ。
絶対にそうだ。間違いない。
私はサウナに入ると鼻がすぐに痛くなる。肺も苦しくなって破けるんじゃないかと思える。
つまり完全なる拷問でねが。
死ぬ。
お葬式しないといけなくなる。
うちの家族や他の大人みたくあんなにサウナに入っていたら私の鼻やら肺やらはすぐに燃えてしまって、鼻は落ちてしまうし、肺は癌になる。あっちいんだバカ野郎。サウナバカ野郎、この野郎。
その日は平日ということもあってか脱衣所は空いていた。だから私はゆっくりと自分の体を拭き、汗がひくのを扇風機の前の椅子に座って待った。髪もドライヤーで丹念に乾かして、梳かしたりもした。服も着た。
「・・・」
それでも家族は誰も上がってこなかった。きっと彼らは今なおサウナであの拷問を楽しんでいるのだろう。その想像はとても容易だった。私の家族は私以外みんなMなのだろうか?ドMなんだろうか?それがとても心配になったりした。
とても待ってられない。待つ気もない。私は遊技場で『パロディウス』か『テトリス』か『ぷよぷよ』か『ワニワニパニック』でもやろうと思って一人先に大浴場の脱衣所から出た。着替えなどをは全部バスタオルにくるんでキャンディーみたいにしてから自身の体に斜め掛けして胸のところで結んだ。
いつも一人先に温泉から出ることを続けるうちに私はそのような妙技まで編み出したのだ。
ロビーら辺も人はまばらだった。
とはいえ家族でいつも来る勝手知ったる温泉宿である。毎週火曜日の恒例行事だ。よそで言えば日曜の夜がカレーみたいなもんだろう。
私以外の大人達は毎回二時間は入る。入っている。入っていられるみたいだ。ドMだから。
私は毎回45分だ。
髪と洗い、体を洗い、歯を磨き、何種類かの湯を周り、ゆでダコになるまで浸かり、最後に水シャワーを浴びても、45分。限界。これ以上入っていたら死ぬ。絶対に死ぬ。茹だる。浮く。
でも御年11歳の私には、まあ、そんなもんだろうと思う。
きっと体が小さいから茹で時間もあんまかからないんだろう。
そして大人達は家に帰ってからお酒などを飲みだす。彼らはそろって「サウナの我慢のあとは酒がうまい!」とか言う。そんな感情私にはまったくわからない。
でも彼らは本当に心からそう言っているように私には思える。だって「かあー」とか言ってるし。演歌のあの「かあー」っていう楽器みたいに本当に彼らは「かあー」って言ってっし。
そのように酒に何かしらの感謝の言葉を捧げる為、その為に彼らはサウナ拷問をしている。
サウナとは最上の飲酒に至るための苦難の道、悟りや解脱に至るための修行なのかもしれない。その光景をただ静観している私にはそう思える。
でも、
いいか?
でも、
絶対に、
ポカリのほうがうめえ。
私はそう思っている。どう考えてもそうだ。いくら考えてもそうだ。
でも私も大人になったら、彼らの様に心から何かに感謝できるようになるかもしれない。
私も彼らのようにサウナに長く入っていられる事が出来たら・・・。
もちろん今は無理。鼻が取れたり肺にブラができるような感覚になるから無理。絶対に無理。リームー。絶対リームー。
大浴場からロビーを抜け、その先にある遊技場に向かう途中、私は売店に立ち寄った。そしてそこにある自販機で一本ポカリを買った。
ガコンッ!
カシュ!
すぐにその場でプルタブを開けて、口の中に青い缶の中身を流し込む。
「・・・」
うめえ!マジでうめえ!もうこれは味の宝石箱だと思う。味のほうき星だと思う。
ポカリ片手にそんなことを考えながら、私が一人でニヤついていると、
「あら?お嬢ちゃん!今日も先に上がっちゃったの?」
売店のおばちゃんに声をかけられた。
「はいそうです」
そんなの初めての事だったので私は多少は驚いたけど、でもまあ勝手知ったる温泉宿だ。きっと『他の家族よりもだいぶ早く出てきちゃう子』として私の顔は覚えられているんだろう。
「私以外の方は、とても長い間サウナに入室していられるんです。父などはデトックスとかって言っていますけど、でも私は病気の類だと思います。私は健康なんですぐに鼻が痛くなります」
私は述べた。本心だった。本心だす。
すると、
「うはははははは!」
と、売店のおばちゃんは笑い、
「大丈夫、すぐにあんたも入れるようになるさ」
そう言った。
ここ二三年通っているが、そのような兆候はまだない。
「じゃあ、これあげる」
なにがじゃあなのか分からなかったが売店のおばちゃんは、急に私に向かってりんごを出してきた。
「・・・なんですか?」
私は当然のごとく、ぽかんとした。なんでだよっ!っていう気持ち。あと白雪姫感も少々。
「いつも来てくれているでしょ?感謝の気持ちよ」
おばちゃんは私の顔から感情を読み取ったのか、そのように言った。顔から感情を読み取られるなんて、なんて不覚!
「あ、どうも・・・ありがとう・・・ございます・・・」
でもそれは顔に出さないように注意して、私は感謝を述べて、りんごを受け取った。こういう時にちゃんと感謝できる小童で自分はよかったと思えた。
「じゃあね、頑張りすぎないように頑張りな!」
私がりんごを受け取ると売店のおばちゃんはそう言って関係者専用ドアの中に去っていった。なんだその捨て台詞は?私はそう思った。
赤い。
もらったのは赤いりんごだった。赤くて綺麗なりんごだった。傷もなくて、なんだか食べるのがもったいなくなるくらいの代物だった。
「・・・」
赤い。
半ば惰性、既にゲームをする気も霧散していたが、私はもらったりんごを眺めつつ歩いていた。足は自然と遊技場に向かっていた。習慣のようなものだろうと思う。
「・・・」
この先、披露宴会場みたいなホールの手前のコーナーを曲がると、道が少し下っている。バリアフリーというものだ。そしてその先に遊技場はある。角を曲がるとまずUFOキャッチャーが見える。今時じゃない、まったく今時じゃないUFOキャッチャーが見える。
でも、私は、
そのコーナーを曲がることができなかった。
「おい!待て!止まれ!」
私が道の真ん中でりんごを眺めながら突っ立っていると、コーナーの向こうから急に誰か、たぶん男。男の叫び声が聞こえた。
ガチャン!
何かが割れる音。
ガタン!
何かが倒れる音。
私はその時やっとりんごから目を離して、先にあるコーナーを見た。
スローモーション。
私にはそこからしばらく、すべてがスローモーションに見えた。
「・・・来るなあああああー!!!」
コーナーから一人、男、酷い状態の男が現れた。髪はザンバラ、ヒゲはぼうぼう、服はボロボロ、靴も片方履いていない。幽鬼のような男が現れた。
男は走っていた。叫んでいた。多分、何かから逃げていた。本気で。必死で。走っていた。こちらに向かってくる。私にはそれが分かった。
「・・・どけええええええー!!!」
男の目が見えた。
血走っていた。
赤い。
このりんごみたいに、
赤い。
こちらに向かって走ってくるその男は片手になにかを持っていた。
披露宴会場から漏れるオレンジ色の光、その光を反射させて、それは光っていた。
ナイフ。
果物ナイフじゃない。
大きな、
ナイフ。
人を刺したら反対側から先端が出てきてしまう位、
大きなナイフ。
「どけええええー!!メスガキいいいいー!!!」
男は叫んでいた。
叫びながらこちらに向かってきていた。
スローモーション。
私は、
刺される。
体は動かなかった。
だって、
そんなこと初めての経験だったから。
動けなかった。
私はただ黙ってそのコーナーの向こうから、制服を着た警官が何人も出てくるのを見ていた。
考えられない。
死ぬ。
男が私を刺す、その手のナイフで刺す。
私の胸を刺したナイフの先端は、私の背中から出てくるだろう。
それしか考えられなかった。
死ぬからか?
それしか考えられなかった。
「やめろおおおおー!!」
誰かの声。この男を追っている警察官の誰かの声かも知れない。
刺さる。
スローモーション、
が、
解けた。
「・・・」
その男のナイフが刺さり、更に私は通路の脇に突き飛ばされた。
気がつくと私は仰向けに倒れて天井点いていたライトを眺めていた。
それに耳が地面に近いからか、バタバタと人の走る音が耳にうるさかった。
「しっかりしろ!救急車!!救急車を呼べ!!!」
「・・・」
私はずっと天井を見ていた。
痛いとか、痛くないとか、怖いとか、怖くないとか、死ぬとか、死なないとか、そういうもろもろのことを何一つ感じる間もなく、
私の視界はすぐに暗くなった。
男は暴力団員だったらしいけど、あの後無事に捕まったそうだ。
それから一ヶ月後『やめたほうがいいんじゃないか?』という両親を必死に説得して、私は再びその温泉宿を訪れた。
そして、
「い、いらっしゃいませ・・・」
ロビーに居た係りの人を若干ひきつった笑顔にさせた。
しかし私はそれに構わずすぐにあの売店に向かった。
「・・・」
するとレジには気の良さそうなおっちゃんがぬぼーって立っていた。
しかし私は臆することなく、
「すいません!こちらで働いているおばさんは今日は休みですか!」
と言った。
「・・・どげしたの?」
売店のおっちゃんは私を見て驚いた様子で目を丸くしていた。
「一か月前、ここのレジのおばさんにりんごをもらったんです!」
「・・・ああ?一か月前だっでが?んばだ何日だべ?」
おっちゃんはレジの横に吊ってあったカレンダーをめくりながら言った。
「・・・25日です」
私は言った。不安だった。すごく不安だった。
「25日?その日だば、俺一人だで」
おっちゃんは言った。
「・・・ほ、本当ですか?」
マジすか?
「んだって。見で見れ?ほら、俺だけだで?」
カレンダーには目の前のおっちゃんの名札と同じ名前しか書いていなかった。一人だった。
「・・・りんごをもらったんです」
私は惚けていた。
「んだ?いがっだな。うめけ?」
「食べていません」
「なしてよ?」
「私の代わりに貰ったそのりんごにナイフが刺さったからです」
病院で調べてもらった際、私はほとんど無傷だった。突き飛ばされたとき、多少足を擦ったくらいのもので、背中から壁にぶつかったけど、斜めがけしていたバスタオルやら中に包んでいたタオルやら着替え後の服やらのおかげで私は思ったほど強い衝撃を受けなかったとのことだ。
そしてりんご。
私があの時おばちゃんからもらったりんごが私の代わりにナイフをその身で受け止めていた。
「これかたくて実もしまっていて美味しいんですよ」
病院の先生はそう言った。
「りんごがあって良かったですね」
とも。
「・・・このりんごはなんですか?」
私は先生に聞いた。
「これですか?これはね。硬いことで有名な『陸奥』と、りんごの中で一番大きい『世界一』を交配して作った新しい品種で。名前はたしか、公募で決まったそうですが、えっと・・・ああ、そうだ『岩木山』という品種のものです」
『岩木山』
そのりんごは、売店に売られていた。
硬く実がしまっていて大変においしいと有名で、その売店に売られていたりんごもあの日もらったやつみたいにとても赤く、きれいだった。
「・・・これ、ひと袋ください」
「お、んばだ・・・まあ600円にまげどぐがな」
「ありがとうございます」
私はおっちゃんに頭を下げて礼を言って、りんごを抱えてその売店を出た。
「お風呂、入っていこう」
そして売店の外で心配そうな面持ちで待っていた両親に告げた。
私はその日、サウナに25分入った。もちろん、何回かに分けたけど。
でも、入った。
鼻が取れそうで、肺も燃えてしまいそうだったけど、でも入った。
あと5分。
それは今から。
私は決めている。
そして、風呂から上がったら、
私はりんごを食べる。
買ったあの『岩木山』を。
食べる。
私はそう決めている。
他の人がどうであれ、なんであれ、私は、私だけは一番おいしく感じるタイミングであのりんごを食べないといけない。
そう思うんだ。
私はそう思うんだ。
強く思うんだ。
あのおばちゃんがなんだったのか?私にはわからない。特に今、このサウナに入っているときなんて一番わからない。一番思考が回らない場所だ。
ただ、
私は将来リンゴ農家になりたい。
それはわかっている。
絶対にそんなに甘いもんじゃないはずだ。
それもわかっている。
でも、
とにかく今はそう思っている。
『頑張りすぎないように頑張りな!』
それはきっとそういうことなんじゃないかと私は思うから。
最初はとても硬いりんごをストッキングか何かにいれて、振り回して鎖鎌の鎌じゃない方みたいにそれで人を撲殺する人の話を書こうと思っていました。