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6月下旬 別れの曲

こんばんは。本日もよろしくお願いします。

 師匠がいると一日が短く感じる。

 あっという間に一週間がすぎ、もう来週には芸術鑑賞会がやってくる。

 私のライフスタイルは、すっかりドイツにいたころの、ピアノ一色、音楽漬けの日々に逆戻りしていた。

 わかっていたことではあるが、師匠たちと行動するようになれば当然、私も音楽に傾いた生活になる。師匠もあの頃と同じようにピアノを見てくれるものだから、私の練習に対する熱意も自然上がるというものだ。

 ……正直なところ、ピアノは潮時かもしれないと思っていた。才能を認められたと言っても私程度、世界にはいくらでもいるのが現実。そんな不確かなものよりは堅実な暮らしを望もうと、そう思って帰国した部分も強かった。

 音楽科ではなく特進科に進学したのがいい証拠だ。

 そのせいで、師匠にはピアノを捨てるつもりかとずいぶん叱られたのだが、どうやら覚えていなかったようで。

 ……多分、私が本気でピアノを捨てるわけがないと思ったから、わざと忘れてくれたのだと思う。

 実際勉強するのは好きだし、目標にしている大学もある。前世では叶えられなかった国立最高峰の大学進学はやはり夢ではある。

 ただ、こうやって以前の生活が戻ってくるとつくづく痛感してしまうのだ。

 ……やっぱり私にピアノは捨てられないのだと。

 帰国してから、自宅でずっと自主練に務めてきたものの、どこか空虚な気持ちが抜けきれなかった。それが師匠たちと過ごすようになって、自然と埋まっていることに気が付いたのだ。

 今の私は、何よりもピアノが一番だ。許される限り弾いていたい。

 師匠からの命令もあって、師匠の世話以外はすべてピアノにあてている。数か月で狂ってしまった勘を取り戻すべく、ひたすら自分の音を追いかけているのだ。

 勿論、授業にはでていない。世話係なんていう都合のいい免罪符を手に入れてしまった私は、鑑賞会までの間授業を免除されているのだ。

 今日の師匠の世話は、午後から。午前中の今は、リザが付いていてくれている。

 浮いた午後までの自由時間を、今私は全力でピアノにあてていた。

 場所は、なんと理事長室。音楽科でもない私がピアノを勝手に使わせてもらうわけにはいかないといえば、ディアスが自室を提供すると言ってくれたのだ。

 ありがたい話ではあったが、勿論そういうわけにはいかないと私は断った。ディアスのパーソナルスペースに入ることへの強い抵抗感もあったが、いくらなんでも甘えすぎではないのかと思ったのだ。

 ……結局は師匠の鶴の一声で決まったのだが。


『イオリ、あなたこの3か月で、ずいぶん音がくすんでしまっているわ。このままじゃ駄目よ。音が戻るまで、ディアスの所にこもっていなさい。あのピアノは、あなたとも相性がいいはずよ』


 そう言われれば、弟子の私に否応はない。

 非常に不本意ではあったが、改めてディアスにピアノ室を使わせてもらいたい旨を伝え、了承をもらった。


『実はあの部屋は、いつかあなたに弾いてもらえればいいと思って用意したものです。好きなだけ使ってください』


 色々つっこみを入れたい気持ちを必死でこらえ、そうですか。ありがとうございます。と全力でスルーした。

 それでも練習当初は、かなり遠慮していた。ディアスが私の様子をみにくるからという理由もあったが、なによりもあれだけ彼の前では弾かないと断言していたくせに、舌の根も乾かないうちにこの始末かと、自分で思ってしまった事が大きかった。

 しかしその思いも長くは続かなかった。弾き始めてしまえば、結局そんなものはあっさりと飛んで行ってしまったのだ。

 弾けば弾くほど、のめりこむ。指が追いつかない。前はもっと、もっとうまく弾けたはず。

 食い入るようにピアノを見つめ、全精力を傾けて弾いていく。そう、この感じ。そう、そうだった……。

 がっつりピアノの世界に入りこんでしまった私は、結局それから一週間、律儀に理事長室へ通うことになってしまったのだった。

 慣れてさえしまえば、確かにこの理事長室は快適だった。誰の邪魔も入らずひたすら没頭できる環境は素晴らしく、最近の私はここにいるか師匠の側にいるかの2択しかない。

 生徒会室にも行っていない。

 自由行動を認められているのをいいことに、この一週間顔も出さず仕舞いだ。きっと皆心配してくれている。わかってはいるのだが、色々あって何も連絡できていないのが現実。

 ドイツでの私の様子を知っている兄が、きっとうまいこと言ってくれているはずだと思いたい。

 この部屋でピアノを弾いていると、気が付くといつもディアスがそばにいる。

 最初は鬱陶しかったが、そのうち慣れてしまった。考えてみればここはディアスの部屋だし、私がどうこういうのもおかしな話だ。今も、にこにこと隣に立っている。


「今日も素晴らしかったです。伊織さん。日に日に音が洗練されていっていますね」

「ありがとうございます。先生。これも、この部屋を貸していただいているおかげです。感謝します」

「僕も楽しい時間を過ごしていますから」


 こういった調子で、休憩時間を見計らっては声を掛けてくるのだ。無理をきいてもらっているという負い目がある分、邪魔だとも言い辛い。


「あなたのピアノへの姿勢をみていると、あなたが特進科に在籍していることが不思議に思えてなりません。いっそ音楽科への転科を考えてはみませんか? 僕もお手伝いさせてもらいますよ?」

「いえ、それは」


 突然のディアスの提案に返答が遅れた。

 音楽科に転科。

 ピアノに再び没頭するようになって、実は少しは考えないでもなかった。だが昨日の夜、世話を終えて部屋に戻ろうとした私に、いつになく真面目な顔をした師匠がはっきりと言ったのだ。


『あなたが今度こそ本気でピアノに取り組むというのなら、来年ドイツに帰っていらっしゃい』


 突然与えられた選択肢に私は戸惑った。

 師匠の言葉は本当に嬉しい。迷いを抱えて日本に帰ってしまった私に、かけてもらえる言葉でないことは重々承知していただけに、思わず目頭が熱くなった。

 そして気が付いた。

 現在話は随分とこじれてはいるがゲーム期間の真っ最中。

 認めたくないが、主人公は私。

 そこへきての師匠のこのセリフだ。

 ……恐らくではあるが、ドイツへ行くという選択肢は、ある意味ノーマルエンドに通じるのではないだろうか、と。

 誰とも恋人関係にならないエンド。

 見栄を張らせてもらうなら『音楽家エンド』とでも名付けようか。

 ゲームの主人公には与えられなかった選択肢だ。

 私が歌を得ず、ピアノを選択していたからこそ可能になったルートといえる。

 ディアスをちらりとみる。そして誠司くんを、蓮を思い浮かべる。

 この人たちが差し伸べる手を振り切った先に、多分このエンドは存在するのだ。

 

「伊織さん?」

「なんでもありません。……音楽科への転科はないと思います」

「そうですか。残念です」


 ドイツへ渡るかもしれないということは伏せておく。正式に決まったわけではないし、今ここでディアスにいうことでもないと思った。

 そう言えば、とふと思い出す。ドイツで会った、あの子は元気にしているだろうか。

 親しく話した期間はほんの一月ほど。

 私が12歳の時出会った、少し年下の少年。

 突然現れ、そして帰って行った。

 銀色の髪はキラキラして、どこかの王侯貴族と言っても信じてしまうような華やかな容姿。それなのに寂しげな様子が影を背負っているように思えて、声を掛けずにはいられなかった。

 彼が恥ずかしげに呼ぶ『イオリさん』という声音がすごく好きだった。

 もう会うことはないと分かっていたから、彼が帰国するという日、連絡先は聞かなかった。

 ただあの日、最後だからという彼のリクエストに応えて、ショパンを弾いたことを思い出す。

 『練習曲作品10第3番ホ長調』。

 日本では『別れの曲』という名称で親しまれている曲だ。

 あの時以来、『別れの曲』は弾いていなかった。

 彼の去り際の笑顔を思い出すからだろうか。無意識に避けていたような気がする。

 思い出すように、鍵盤に指を這わせた。前世でも好きだったこの曲。一旦、旋律を奏で出せば、自然と指が鍵盤を追っていく。後はもう止まらなかった。

 あの時感じていた感情をたどっていく。そうすれば、浮かんでいた月の色まで思い浮かぶようだった。

 ふと、眼の端でディアスの、驚いた顔をとらえる。何か言いたげに口を開き、苦しそうにつぶやいた。


「イオリさん」


 その声色が妙に彼とかぶる。

 同時に、ディアスの姿が一瞬あの少年とだぶって見えた。

 あれ? と思う。二人の年齢差はかなりある。髪の色も赤と銀で全く違う。なのに、まるで同じ人物であるかのように見えたのだ。

 一度そう思ってしまえば、彼がピアノの横で音楽を聞く姿勢すら、あの少年と重なるように見えてくる。何故?

 気が付けば、演奏を中断していた。

 ディアスは私を見つめている。ディアスの目の中に、呆然とする自分の姿が映る。

 気が付いた時には、口が言葉を紡いでいた。


「ヴィンス……?」


 半信半疑のままそう声に出せば、ディアスはくしゃっと顔をゆがめる。耐えられないという風にうつむき、ぎゅっとこぶしを握りしめた。

 震えているようにみえるのは気のせいか。

 私は声をかけられない。ただ、そんなディアスを見つめるだけ。

 しばらくたって、ようやくディアスは顔をあげた。

 いつも余裕げな彼の、見たことのない情けない顔がそこにはあった。

 泣き笑いの表情を浮かべ、それでもこちらを強い意志をもった瞳で見つめてくる。

 

「イオリさん」


 その呼びかけに「ああ」と目を瞑る。

 ……確かにディアスの言うとおり、私と彼は、何年も前からの知り合いだったようだ。

 ……納得はできないけれど。


「やっと……思い出してくれましたね」

 

 声が震えている。

 その声色の中に、隠しきれない喜びの感情がみえた。

 できるだけ平静を装って、言葉を返す。


「全くの別人じゃないですか。それで思い出せとは、ずいぶんと無茶な要求です。どんなマジックを使ったんですか?」

「でも、あなたは気が付いてくれた。そうでしょう?」

「……」


 黙って、鍵盤に触れた。そのまま、先ほど中断してしまった曲を再開させる。

 ディアスもそれ以上何も言わず、眼を閉じて流れる旋律を聞いている。

 聞かなくてはいけないことがある。分かってはいるが、今はこの曲を弾いていたかった。そうすれば、小さな少年との思い出がよみがえる。

 ――――ヴィンスと会ったのは、ドイツのとある場所。

 月の綺麗な静かな夜。

 高い塔のてっぺんから、彼が飛び降りようとしているのを偶然目撃したのが始まりだった。




ようやくここまできました。6月はほぼディアスのターンですね。

いい加減ディアスのことも思い出さなければ話が進みません。

ありがとうございました。

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