現実逃避
小説三作目、ファンタジーとしては二作目のものです。もしよろしければ、評価・感想のほうもよろしくお願い致します。
目を開けると、見知らぬ少年がじっとこちらを見つめていた。
見たところ、少年は中学生くらいだろうか。成長期で伸びる身長に横幅が追いついていない、思春期特有のアンバランスな体つきをしている。
「帰れ」
と声をかけると、少年は一瞬驚いたような、しかしそれだけではないような顔をした。しかしその表情はすぐに、へらりとした間の抜けた顔に変った。
「起こしたら悪いかと思って、起きるまで声をかけずに待っていたのに。ひどい言われようだよ」
そういいながら、何食わぬ顔をして俺の隣に座る。
「きみみたいな子どもが来るところじゃない。早く帰れ」
「きみじゃなくて、オレには一樹っていう立派な名前があるの。カズちゃんって呼んでもいいよ」
おどけた物言いに、思わず呆れたような視線をなげると、一樹は肩をすくめて言った。
「まあまあ、言われなくてもそのうち帰るから。それまで少し話そうよ」
ね、と俺の顔をのぞきこむ。その顔に見覚えがあるような気がしたが、あいにくこんなに若い知り合いはいない。
「それにしても、ここ何もないな」
ぐるりと顔を動かす。外に出るための扉も窓もない、四角い箱のような部屋だ。壁や床は一面真っ白で、長らくここにいると気がくるってしまいそうだと一樹は思った。
「ご飯はどうしているの?おなかすかないの?」
そう尋ねると、目の前のまだ三十歳になるかならないかの男は、面倒そうにこちらを見て言った。
「ここにいると腹も減らないし、トイレにも行きたくならない。風呂だって入らなくても平気だ」
「へえ、そうなの。たしかにオレもおなかすかないな。ここに来る前はぺこぺこだったのに」
自分の腹をさすりながら、納得したように一樹はつぶやく。
「でも、何もないと退屈しない?ここから出ようと思わないの?」
「退屈しないと言えば嘘になるが、ここから出ても、俺にはいいことなんてないから。ここにいるのが幸せだ」
そういうと、一樹は何か考えるようなしぐさをして、こう言った。
「オレがここに来る前のこと、知りたい?」
にやりと作り笑いをこちらに向ける。
「興味ない」
「じゃあ、勝手に話す。オレは自分の意思で、ここに来たんだ。錠剤をたくさん飲み込むのは大変だったよ。母さんには悪いことをしたな」
「親不孝者め」
「まあ心配させて悪いと思っているよ。続けるね。じつは、母さんはもう長くはないかもしれないんだ。癌でね。すでに全身に転移していて、医者ももう手の施しようがないらしい。病室のベッドで日に日にやせ細っていく母さんを見るのは辛かったよ」
ちらりと隣を見ると、話は聞いてくれているようだ。さらに話を続ける。
「で、錠剤を飲み込んだ日、いつものように学校帰りにお見舞いに行くと、母さんが、一度でいいから父さんと話してみたかったって言って泣き出したんだ」
「それを聞いた婆ちゃんも泣き始めて、父さんとオレはいたたまれない気持ちになったよ」
「四十年以上前から、オレの爺ちゃんはずっと眠り続けているんだ。昔、爺ちゃんと婆ちゃんは、母さんがまだ婆ちゃんのお腹の中にいるころ、交通事故にあったらしい。飲酒運転の車が歩道を歩いている爺ちゃんと婆ちゃんに突っ込んだんだって」
「その事故のときに二人は死にかけたけれど無事に一命を取り留めて、婆ちゃんは意識を取り戻し、母さんを生んだ。けれど爺ちゃんはそれから目を覚まさない。医者が言うには、婆ちゃんが目の前ではねられて死にかけたのを見たショックで、目を覚まさないんだろうって」
「一樹」
そう呼びかけた声は自分でもわかるほど震えていた。隣で微笑む少年を見る。その少年の顔には、愛する妻の面影があった。
「みんな待っているよ。早く帰ろう」
目を覚ますと、真っ白な天井が見えた。
「あなた」
そう呼びかけるほうを向くと、しわくちゃな老女が泣きながら俺の手を握っていた。その顔を見ていると、自然につうっと涙が頬を伝った。
「ああ、よかった。すまん、心配かけて。すまなかった、本当にすまなかった」
自分の声ではないような、しゃがれた声がのどからこぼれていく。
「ううん、いいのよ。よかった、あなた」
カラカラと音がして病室に人が入ってくる。
「お父さん」
そう言いながら車いすに乗った痩せこけた中年の女性が横たわっている俺の顔をのぞきこむ。車いすを押しているのは、四十代後半と思われる男性だ。
「あのとき、事故にあったときの。無事に生まれてきてくれたのか、よかった」
「そうだよ、お父さん」
わんわん泣きじゃくる女性の肩を抱く男性に、娘のことをよろしく頼むと声をかけると同時に、再び病室の扉が開く音がした。扉のわきに立つ、点滴をつけた少年はにやりとわらいながら、さっきぶり、と手を振った。
あの後、三日後には退院したオレとは違い、四十年間以上寝たきりの爺ちゃんはしばらく入院生活を余儀なくされた。今は爺ちゃんも退院して、一緒の家で暮らしている。
「それにしても一樹、もしあのとき本当に死んでしまっていたらどうするつもりだったんだ」
と爺ちゃんに問い詰められたことがあった。死んだらそのときだと思っていたよ、と正直に答えると命を粗末にするなってものすごい勢いで怒られた。そのあとで、
「一樹が来てくれなかったら、このまま嫁の顔も娘とその旦那、そしてお前の顔も二度とみることなく死んでいたのだろうな」
と爺ちゃんは言い、しゃがれた声で小さく、ありがとう、とつぶやいた。
爺ちゃんが目覚めた半年後、余命一か月と言われていた母は、医者たちが驚くほどの回復を見せ、このままだと完治するのも夢ではないという状態になった。外出許可も出るようになり、今日は、家族そろっての初めての夕飯だ。
「ただいま」
そういって玄関の扉を開けると美味しそうな夕飯の匂いとともに、おかえり、というたくさんのあたたかい声が返ってきた。