吐露
「あ、それ私のー!」
美耶子が抗議の声を上げた時には、既にグラスの中は空になっていた。
橙色をした液体は柑橘系の果汁かと思ったがアルコールが加味されていて、久々に味わうソレが身体中を巡ってゆく感覚に知らず頭が垂れる。
「あーあ。お兄さん、お酒弱いんでしょ? 一気呑みは拙いんじゃ……」
酒に弱いとは言え、嫌いなわけではない。むしろ逆だ。一度味わってしまえば止められない。
ああ、久しぶりに気分が良い。自然と顔が緩み、口元が綻びる。
「まずい? 何を言う、これほど旨いものが他にあると? それとも、おまえも酒より旨いものを持っているのか……?」
昔、菊の血はこの世で最上の甘露だと思ったものだが、人間の肉体を持つ今では葵のソレは純粋な血液としか感じなかった。
それよりも葵自身の香りや、その唇の方がよほど甘美だと俺は知ってしまった。
初めて出会ったあの日、震えながらも潤んだ瞳でしがみついてきた葵。
あの瞬間、俺の腕の中にすっぽりと収まる小さなその存在を心から欲した。
菊に対して持っていた静かな感情とはまるで違う。
理性の欠片さえも奪われ、激しく心を掻き立てられた俺は無意識のうちに口付け、その甘さに酔っていた。
気を失った葵を家に連れ帰ったところで王珠に「見つけたのね」と言われてからようやく気付いた―――葵は菊の血を引く者なのだと。
だが、この出会いが運命だろうが偶然だろうが、そんな事はどうでも良かったのだ。
目の前で心地良さげに眠る愛らしい葵の一瞬一瞬を逃さずに見つめる事に必死だった。
最初にその姿を見た時は小柄な少年かと思ったが、今は伏せられている長い睫毛の下は透き通るように美しい茶褐色で宝玉のようだった。
赤みの差した頬は、白くふわりとしながらも絹のように滑らか。
僅かに開いた柔らかな紅色の唇と、そこから洩れる微かで甘やかな吐息。
時折悩ましげに発せられる小さな寝息。
それらに合わせて上下する胸。
そんな様子をただじっと眺めているだけでとても幸福な気分だったが、葵が起きた時にこの気持ちをどう表現したら分かってもらえるだろうか、どうしたら葵を自分だけのものに出来るのだろうかなどと、とにかく自分の気持ちでいっぱいで、昂揚する気持ちを抑えるのに必死だった。
(結局は逸る気持ちが抑えきれずにストレートに伝えたが「あまりに直球で変態的すぎる」と王珠に呆れられてしまったのだが……。)
隣に座る女は葵ではないのだと分かっていつつも、思い出しただけで胸の奥底が疼くあの甘い香りが蘇ってくるような気がする。
「葵…………あおいあおいあおい」
ああ、葵に会いたい、葵に触れたい、葵に口付けたい―――。
「え、あ、ちょっ!」
鼻先に漂う濃厚な香りをもっと感じたくて女に手を伸ばすが、身体がぐらりと傾いでカウンターテーブルに置いたグラスに肘が当たり、溶けた氷水が僅かに零れ出て袖を濡らした。
「―――お客様、大丈夫ですか?」
葵一色に塗り込められた脳内で、葵の心地良い声さえが幻聴となって耳に溶け込んだ気がした。
葵の容姿については、空耶フィルターが存分に発揮されていると思われます(笑)