救世主ではなく
引き続き残酷表現ありです。
「―――そこまでだ」
低く激しい声がした。先程までの虚ろな男の声とは明らかに違う、よく通る声。
覆い被さる男もビクリと身体を震わせ動きを止めると、腰を屈め顔が下向きという不自然な形で宙に浮いた。
鈍く大きな音と共に落下した男は腹を抑えながら呻く。
何が起きたのか分からぬまま、涙目で視線をさまよわせると、大きな黒い影が、自分と男を見下ろしていた。
影は、肉の薄い男の頬を、黒い革靴の踵で無造作に足蹴にする。
男は口から血を流し、気を失った。
「穢らわしい」
第二の男は侮蔑の色濃く吐き捨てると、動かぬ男を壁際へと軽々と蹴り飛ばし、ひょろりとした身体が再度宙に浮いた。
「何故こうも厄介事を呼び寄せるのだろうな」
(空耶、だ―――)
なぜここに。自宅から遠く離れていて、偶然居合わせるわけはない。
呆然と見上げていると、傍らに膝を立て身体を折る空耶。
死ぬと思った時に浮かんだ空耶の顔と同じ、穏やかな笑みを浮かべながら、ふわりと額に触れてくる空耶の手の温もり。
(ああ、助かったんだ!)
極度の緊張で張りつめていた身体が、安堵に解れる。
「可哀想に、な」
労るような声で、先ほど男に付けられた傷に指を沿わせた空耶。
しかし次の瞬間、きり、という激痛が走った。
―――声にならない悲鳴が漏れた。
ふつりふつりと玉のような血が浮かび、つき立てられた空耶の爪が紅く濡れる。
口角を上げ残忍に目を細めてその様を見つめる空耶は、それが筋となって流れ落ちる直前に舐め上げた。
それでも足りないとばかりに、今度は直接傷口に歯を立て甘噛みし無理矢理傷口を広げる。
「ッ!!」
痛みとも快感ともつかない感覚が交互に襲ってきて、どうにもならない嗚咽が喉を突いて漏れる。
唾液と血液が混じり合う音と、その合間に漏れ聞こえる荒い息遣いが耳にやけに大きく響く。
(……なに、これ。なん、で―――?)
助かったと思ったのは間違いだと、この時ようやく気付く。
これではさっきの男となんら変わりがない。
行為の痛みよりも、空耶がそれを自分にしているという事実が胸を突く。
止めてくれと訴える事も出来ず、麻痺してゆく脳。
「―――なぜ、という顔だな。
あの穢らわしい男に汚されて殺された方がマシだったか?」
肯定も否定も出来ないと解っていて問う空耶は、くすりと凄絶な笑みを浮かべる。
馬乗りになった空耶の瞳が、わたしを貫くように襲う。
瞳だけで切り裂かれる感覚。
真っ赤な舌で、唇の端や長い指に付着した血液を舐めとりつつ言葉を紡ぐその姿に、鬼という一文字が脳裏に浮かぶ。
二人分の体重を受けて軋むベッド。
唾液に濡れた指が、わたしの唇の端でスイと動き、猿ぐつわが床に落ちた。
「―――っ、く」
言いたいことがある筈なのに、喉が貼り付いたように声が出ない。
「教えてやろう。おまえが俺に向けるひとつひとつの感情は、怒りや恐怖でさえ悦びにしかならないということを―――狂おしい程に甘い血を流すこの身体に」
力任せに顎を掴まれ、唇に噛みつかれた。
「んっ―――」
無理矢理ねじ込まれる舌は鉄臭い、血の味―――。
痛くてごめんなさい><